人間ドラマ

本当は

人間ドラマとは、、、ただここで7つの感覚のみが起こっているにも関わらず、、そこに気づかないことで起こる現象です。本当は何も起こってもいません、幻想、現象が視覚として現れ、、それを認識する第七感(思考)が現れ、それに付随して感情(第六感)が現れる、、それだけです。今ここではこの体はあるように見え、あるように感じますが、それも幻です。この体を取り巻く環境は動き続けますがそれもそう見え(視覚)そう感じる(他の感覚)だけです。

見抜く

徐々にそこを見抜いていきますと、、、軽くなっていきます、、深刻さが消えていきます、、、小さいことにこだわらなくなります。リアリティのポイントがずれていきます。それまではこの幻想にリアリティがありました。そうではなくこの7つの感覚にリアリティがあるようの感じるようになります。ですから悟りとは虚無とは全く違います。フワフワ、ホワホワとは全く違います。明確な感覚なシフト、明晰な感覚へのシフトです。

何が起こっているかを見抜く

我々はあまりに当たり前過ぎて、この五感+思考+感情で何が起こっているかを忘れていたのです。大いなる存在、神というざっくりした概念を頭に入れたところで「今」何が起こっているかを明確に把握しなくては意味がないのです、、悟りとは明晰な感覚のシフトです。

7つの感覚

これは練習

今からカフェに歩いて行きます。家を出ます、ドアを触ります。触覚が起こります、ドアが見えます、視覚が起こります。外の光を感じます、視覚が起こります。あらゆる音が聞こえます、聴覚が起こります。道ゆく人の姿が映ります、視覚が起こります。好きなブランドの靴を履いた人を発見します。思考が動きます、第七感です。感情が動きます、「羨ましい」第六感が動きます。カフェに着きます、カフェに姿が映ります、視覚が起こります。椅子に座ります、音楽が聞こえます「聴覚が起こります」コーヒーの香りがします「嗅覚が起こります」

7つの感覚のみ

五感+感情+思考、、これだけが起こっています。これ以外が全く起こっていません。この世界が実在であるという証拠は全くなしに、ひたすらに五感+感情+思考のみが起こり続けていきます。幻想があらゆる形で見え、聞こえ、感じ、香り、味わえますが、、、それは五感のことです。そこに思考、+感情が起こるだけです。これを感じます。この事実に気づきます。

7つの感覚で

七つの感覚で「私がこの世界に居る」というストーリーがこの世界にしっかりと誕生しているんです。この7つの感覚に支えられてマイストーリーが確立します。7つの感覚が間違いなく起こるので、、マイスストーリーが100パーセントしっかりと起こるのです。そして最終的には7つの感覚があるから、、これが幻想、ストーリー、映画であることにも気づけます。なぜならば7つの感覚しか起こっていないことを知っているからです。ここで。

悟り

悟りとはこの事実、真実に気づくことです。本当はいまここで、、この五感だけが起こり、そこに思考という第七感が起こり、そこに感情という第六感が起こります。本当にこれしか起こっていません、、いやいや外には太陽がしっかりとあって、、、、、いえ、、それは視覚が起こっているだけです。そのようなものが見え、、そこに太陽という思考(第七感)が起こったのです。これだけです。

7つの感覚しか起こっていない

人間

人間と呼ばれるこの幻想は、、実は7つの感覚だけが起こっているだけです。この説明も間違い、、この今ここでは7つの感覚だけが起こります。コーヒーカップを手で持ってください。何が起こりましたか????幻想である手と幻想であるカップの境目に感覚が起こりましたね。そして視覚の中で手とカップが起こりました。次にそのカップを幻想の鼻に近づければ、、香という嗅覚が働きます。そしてそれを幻想の口に入れれば味覚が起こります。さらに幻想の喉元を通る時「ゴクリ」と音がします。今触覚、視覚、嗅覚、味覚、聴覚という五つの感覚が起こったのです。

この五つ

この五つの感覚が起こることで、、、第七感である、、思考が起こり「この体がコヒーを飲んだ」という思考が起こりました。次の「私がこのコーヒーを飲んで美味しいと感じた」という思考が起こりました。すると「違和感」という感情が起こったのです。これが第六感です。全部で7つの感覚が起こりました。それ以外は何も起こっていません。ですがこの7つの感覚によって「私のストーリー」がしっかりとこのあるがままに生まれたのです。

見抜く

本当は7つの感覚だけが起こったのです。それ以外はどこを探しても何も起こっていません。「この体は私だ」これは第七感覚の思考です、、、「カップとこの体という幻想」は視覚という五感の一つ、こうやって7つの感覚だけが起こりました。そして我々人間は生まれて死ぬまでこの7つの感覚しか起こりません。さらにこの人間というのも視覚の長物であって感覚の一つです。つまり7つの感覚だけが起こり続けます。もしもこの7つの感覚がなければ何も起こりません、何もないのです。五感がなければ思考という第7感も起こらず、第7感が起こらなければ感情という第六感覚も起こりません。

覚者

覚者がこの世界は無であると称するのは、、、、この五感がなければこの世界は無に等しく、、、この五感がなければ思考も感情も起きえないので、、、神という概念、無という概念、空という概念、色という概念、全てが登場しません。ゆえにこの五感がこの世界の存続において必須であり、、第七感がなくては真理の再発見もない、、よって空の発見も色の発見も起きえない。ゆえに7つの感覚こそが空即是色、色即是空の生みの親とも言えます。

七つの感覚が起こっているだけ

実は

本当に起こっていることをここで観察してみましょう、、この手という幻想が触覚を起こし、鼻という幻想が嗅覚を起こします、、目という幻想が視覚を起こし、、耳という幻想が、、聴覚を起こします、、、口という幻想が味覚を起こします。これで五感です、、、、五感があるから、、体という組織(幻)が実在しているという思考が起こります、、これが第七感です、、、これによって「違和感」という感情=第六感が起こるのです。実は五感はただそこで起こるのみであって、、五感=体があるとはなりません。思考が起こる(7感)があることで体があるぞ!!が起こり、、これによって「違和感」という感情(六感)が起こるのです。

この7感

7感しか実は起こっていません。幻想を証明するようなことは何もなく、、、ただ五感+思考(7感)が起こり、これによって感情(6感)が起こっています。7つの感覚がただここでは起こっているだけです。何一つこの幻想、幻が実在することを証明はしません。我々は7つの感覚だけが起こるこの世界に生まれて死ぬまでいるのです。ここでは7つの感覚だけが起こっています。そこに気づきます。

空即是色、色即是空

空即是色、色足是空が起こるたびに7つの感覚が起こります、、ただそれだけです。7つの感覚が、、空間があり時間があり、、という思考(7感)を作り出し、、感情という6感を生みます。五感はただこの幻想に気づく感覚です、、目の前のカップという幻が実在していると信じれるのは7つの感覚があるからです。逆に言えばこの7つの感覚がなければ我々は完全な空でしかありません。何も感じることはなく何も思考は起こらず何も感情も起こらない存在です、、これが空(不変の自己)(無限の存在であるという自覚なき存在)です。

7つの感覚

我々は7つの感覚があるから、、この現象、幻想を味わい尽くすことができ、、、、結果この幻想を生み出す空という存在に気づきます。もしもこの7つの感覚が無ければ幻想(色)に気づくことは不可能であり、、よって空という存在に気づかず、、空でしかない、、空という存在に気づくことがない空となります。7つの感覚があるから空という実感が持てるのです。

生命

動き

我々の本質とは生命であり生命とはすなわち動きです、、、思考とは動きであり感情も動きです、行動も動き、全感覚は動きです、音を捉える動き、味を捉える動き、触れるを捉える動き、熱を捉える動き、言葉を読み込む動き、言葉を発する動き、幻想を視覚化する動き、、これらの動きこそが我々の本質です。この動きなくしてこの世界は一切の存在を維持できません。この世界は幻想ではありますが、、この動きのおかげで、、まるで存在するかのうように感じる(動き)ことができます。

全感情

感情とは完全に動きです、エモーション、、モーションを起こす、、動きです。この世界で動き以外のものを探すのは不可能です。道を歩く時、、地面を感じる動きが起こることで地面、足が登場し、、風を切る動きが起こり、視界が変わる動きが起こります。光を感じる動きが起こり、、時間、空間があるような感覚(動き)が起こります。この世界は生命であり、、その生命とは動きのことです。

気づくという動き

空即是色による「不変の自己」から現象が起こり続け、、それが気づきという動きにあります。この体という幻想とそれ以外の現象(幻)は五感という動きを起こし、、無限の体験を生み出します。空とは無限のことであり、、色とは無限の幻想としての現れです。。。そしてこの無限の現れは認識されなければ、、無限の認識が起こらず、、、空は存在しないことと同じになってしまいます。空とは全部で在るからその中に自身が無限で在るという認識も起こるのです。

勉強ではない

触れる

私たちは「思考がでっち上げた罠」に引っかかって苦しんでします。思考が作り出した「私」思考が作りだした「私の人生」これによって「違和感」が起こり続け、この「違和感」を解消すべく「新たな思考」が起こり続けるという無限地獄に陥っているのです。全部これは思考ですから、、この思考を新しい思考に切り替えるのではなく真実に戻るのです。思考によっておかしくなった状態を思考を抜いて真実に戻るのです。

真実を思考する????

真実とは思考ではありません、価値観ではありません、概念でもありません、イメージでもありません。真実とは思考をはぎ取って残るモノです。真実とは価値観観念概念を剥ぎ取った後に残るモノです。ですから真実を知識として学んでも見つかりません、知識をヒントに確認していくのです。真実とは実在ですから、、真実を見つけることは実は容易なのです。

起こった事実のみ

真実とは起こったこと、これだけです。これだけが真実です。起こったことに意味づけをして意味づけ解釈を真実と勘違いすることで「違和感」が生まれました。例えば雨が降る、、これは事実です。ですは雨が降ったから気分が悪い、、これは真実ではなく、、感想です、、、雨=気分が悪いではなく、、雨が降ることで、、気分が悪いが起こったのです。雨には意味はありません。

離婚

離婚=残念なこと、、、これは事実ではありません。離婚が起こりました、、結果的に残念、、が起こる可能性もあります。結果的に良かった!!!が起こる可能性もある。。。事実とは、、そういうことです。事実に意味は含まれておらず、、そういう意味が結果的につけられるという事実はあります。こうやって事実だけを拾っていきます、、意味が全くついていない事実を事実として拾います。

事実を拾い続けると

事実のみを拾っていきます、事実を事実として。すると、、、なぜか違和感が起こらない。。。違和感が全く起こりません。代わりに安らぎ、平和が起こります。事実には意味は全くないことに気づいていきますと「違和感」が抜け落ちます。そして代わりに安らぎ、安堵、平和が起こるのです。これが悟りです、、事実に意味などつける必要はなかったのです。ただありのままをありのままに感じます。

見抜かれる思考

それでも

真実ではここでは何も起きてはおらず、、ただあるがままの表現だけがあります。そしてにも関わらず思考は起こり、、「この私が居る」というストーリーが起こりはしますが、、、一度でも真実に目覚めますと、、その思考の中身が真実ではないことを見抜きます。私は何かをされた、私は被害者である、私は加害者であるというあらゆる思考の内容は嘘です。真実ではただあるがままの起こりがあるだけです。

見抜き続ける

真実に目覚める強みとは、、、思考が起こす嘘の内容に惑わされなくなるという点です。思考が表す表現はほとんどが嘘です。。自分は被害者だ、自分は将来大変な目に遭う。自分は老後このままいくと大変だ、、、全嘘なんです。この体の中に自分が居るというこの発想、概念、アイデアは、、、嘘です、、その嘘をベースにした全ストーリーは嘘なんです。だから違和感が抜けないのです。これが落ちます、真実の理解がこれを落とします。

一方

ニュースを見れば、、あらゆる個人の責任者はこれからも問われ続けます。。真実とは真反対の認識に基づく人間の右往左往が起こり続けはします。。。ですがその事実こそが、、真実の重要性を客観的に提示してくれるのです。真実とは真反対の認識に生きれば、、他人は常に愚かな行為を起こし、それを見て自身は怯えて生きていくのです。責任を取らされる人間と責任に覚える人間の2種類しか存在しません。一方真実に目覚めれば、、責任とは無縁です、、全部が全部勝手に起こる現象に過ぎないことに気づくからです。

打開

一般

一般的にはこの環境は「私」んとっては完璧ではとうていなく、、だからこそ少しでも完璧にしようという動きが誰にでも起こります。暑すぎれば涼しくしようが起こり、寒すぎれば暖かくしようが起こる、お腹が空けば充たそうが起こり、学校の成績が悪ければ、、良くしようが起こります。こうして「私」は自我が芽生えた瞬間から、、、外部環境を改善し続けていくのです。

一方

同時にこの外部環境は完全完璧、、空の現れです。無限の自己が現す「幻想」です。これは幻想であり、、完全完璧の現れでしかありません。完全完璧に現れにミスはなく、、、ただ完全完璧の現れに浸ればそれだけで至福です。この完全完璧の中に「自分」を作り出し、、この自分を実在と信じる動きが起こった瞬間からこの世界は不完全不完璧に豹変します。

「私」

私はこの環境で常にトップで在るはずがなく、常に優れていることもなく、、常に成功者であるはずもなく、、常に人格者であるはずもないのです。。そこを不満に思い、、、解消しようという動きが起こり「違和感」が起こり、「違和感を解消しよう」が起こり「違和感」が起こるという負の連鎖が起こります。この動きに気づきます。この負の連鎖に気づきます。

反射

反射しか起こっていない

今日1日この体に起こる動きを観察してみてください、、、実は反射しか起こっていません。何か思いついてどこかに行こう!!が起こる前に、、ソワソワが何かをきっかけに起こっています。話しかけられた時に、、思わずそこに向くという動きが起こり、、相手の言葉を読み取る時に何一つこちらはしていない、、勝手に読み込みが起こったと同時に、、感情が生まれている、、そして反射的に「回答」が起こっています。

最初から最後まで

人を観察すればわかります、、反射しか起こっていません。自動扉が開く、、それに体が自動的に反応する、、、体が動く、、感情が動く、思考が動く、、、、これしか起こっていません。思考感情行動の全ては、、自動扉が開いた瞬間に自動的に起こっっています。電話のベルが鳴る、、、これに体が反応します、、感情が起こります、思考が起こります、行動が起こる。。。

見抜く

反射しか起こっていない、、思考感情行動の反射がただ起こり続けています。これを見抜くのです。そこを見抜くと「リラックス」という動きが起こります。手放し、解放、無責任という動きが起こるんです。これを感じます。体の反応、感情の動き、思考の動きを「自分がやった」という認識の動きが起これば、、「違和感」という感情が起こります。そしてこれを解消しようとする動きが起こります。

最終決戦

分かる

「分かった」が起こった時、、その「分かった」を私が所有する動きが起こります。真実を発見した「私」の誕生です。真実とは「私」が居なかったということですが、、この真実をまさかの「私」が所有するのです。この矛盾、パラドックス、、が平気で起こるのですから面白いのです。グルは、、「あなたがたはまだ分かっていない」と信者を集めますが、、「分かっていないあなたがたが実は存在しない」という理解が悟りです。

何も起こっていない

ストーリーの側から見ると、、、実はここでは何も起こっていません。この体を私とする動きが起こり、あの体を「あなた」とする動きが起こり、、話すが起こり、聞くが起こる、、ただそれだけ。。真実ではただその動きがいまここで起こるのみです。何それ????味気ない?????虚無?????そうです、、ストーリー側から見ればそうなります。ですがこれは虚無でもなく虚しいでもなく味気ないでもない、、ただ在るという感覚、平和、愛、安堵が起こります。そこに。

話しかけられれば

そうは言っても話しかけられれば、、「私」という動きが起こり、、「あなた」という動きが起こり、、、ストーリーが始まります。ですがその一方で、これをストーリーと気づく動きが現れます。ストーリーの始まりに気づく動きが起こります。話しかけられれば「反応」が勝手に起こりますから、、それを止めることは不可能です、、ですがこの反射に気づく動きが起こるのです。

繰り返し

いまここで仕事をすればストーリーに引き戻される動きが起こるでしょう、ですが同時にその動きに気づく動きが起こります。これが何度も続きます、、何度も何度もこれが続きます。いまここに戻り、ストーリーに入る、入ると同時に入ったことに気づく動きが起こり、、いまここに戻る。これをやっているうちに、、ストーリーに入るが起こらなくなる、、話しかけられても、、いまこことして反射に気づくが起こります。