個別体験

無限

ここは無限の体験の場所です。無限の体験を創造する場所です。空が色をそのままに認識し、、と同時に個別の側面を体験することもできます。マリオを体験する場所でもあり全体が全体を体験する場所でもあるのです。人間が人間を体験するとき完全な自由意志で全活動をコントロールします、そして起こる結果を招きます。ですが同時にこれは勝手に起こる現象でもあるのです。個別体験を起こすと共に全体として結果を観察もできます。

F1ドライバー

F1ドライバーはドライバー中完全に自由意志を行使してハンドルを握ります。勝手にハンドルは回せるなど悠長なことを一瞬でも思ったら事故を起こすでしょう。ですから思考を回転し全意識をハンドルに注ぎドライビングをします。どこまでいっても自由意志は完全にあるしそう感じます。まさに幻、この幻想の世界同様にどこまでもあるように感じる世界です。自由意志もこの太陽もどこまでもあるように感じる世界なのです。

だが

実際は完璧に自由意思はなく、なぜならばこの体も完全に幻なのです。どこまでもあるように見える感じる存在です。太陽もあるように見える感じる存在なのです。全てがあるように見える感じる存在なのです。ですから思考を自由に操る存在はないですし、行動を自由に操る存在もないのです。つまりここはそういう体験を詰める場所だということです。

個別体験の卒業

徹底的に自由意志で全思考全感情全行動をコントロールできると活動をしようと、、実際にはこの体は幻想なのでそれは不可能なのです。どこまでもあるように見えるし感じることはできますが実際には不可能なのです。そこに視点を置けば我々は完全に自動操縦で動いています。これは紛れもない事実です。ですが太陽が100%あるように見えるように、、そう感じれることは間違いありません。

人間と神を交互にやる

ありえない

人間と神を交互にやればいいんです!!!と言えば何をこいつは言っているんだ????アホか、、の世界です。でもこれって簡単に簡単にできます。マリオカートをやっているときに、、私はマリオじゃないし、、と俯瞰してゲームをやれるでしょうか????完全にマリオになり切ってゲームの中に没入しなければミリ単位のコントロールができない、、コンマ0.1秒のタイミングを合わせられない、、のです。ゲーム中は完全にマリオになり切るはずです。ですが、、、、もしも途中でゲームオーバー、、死んでしまったら、、急にプレイヤーに戻ります。マリオからプレイヤーに戻るはずです。

それでいい

ゲーム中は完全にマリオになり、、結果が出たら、、プレイヤーに戻ります。マリオとして優勝したとき、、他のキャラに勝つことしか考えていなかったマリオ視点から、、一緒に戦った仲間に戻ります。視点が変わるんです。つまり人間から神に変わるのも全く一緒、、人間視点が必要なときは自由意志をフルに活用し人間に専念する、、しかし結果が出たときは神に戻り、、全結果を受け入れるのです。マリオカート中にマリオじゃないし!!は上手くいかない、、、でも結果が出たときにマリオだったら、、死んでることを受け入れ泣かないといけない、、おかしい。。人間と神はこのようなもの、、、、神とは全結果を神として受け入れる視点を持つことです。

神の視点

神の視点とは、、「神って、、ただ俯瞰してるだけでしょ!!!」じゃないんです。。。本当は本当は自由意志はないんです。。。。だから結果に右往左往するって全くもって事実に反するのです。結果が出たときは、、真実に戻って黙々と結果を受け入れる、、、そしてプレイ中は、、人間になり切って徹底的に勝負に没入するのです。そうです二つの視点を完全にやっちゃっていいのです。この体を貰ってしまった以上、、体モード全開は生きている上で必然的に求められます。サッカー選手が、、自由意志を意識しないでプレイするなど不可能です。だからそこは方便です。

人間としてプレイし神として受け入れる

ボクサーはプレイ中は相手をダウンすることしか考えない、コテンパンにやっつけることしか考えない、、ですが、、、試合が終われば人間同士に戻り、、抱き合って健闘を称えます。人間も全く同じプレイ中は自由意志を完全に使い倒し、結果を出すために健闘します。ですが結果が出れば、、、神としてこれを受け入れる、、本当は自由意志も自由行動もない、、ここに視点を戻すのです。すると勝っても負けてもどちらも同じ、、ただ平和の中で安堵の中で愛の中で結果を楽しみます。

空の視点

視点

視点を変えてみましょう!という時、、あ、なるほどね!!といういう見方もあるよね!!と多くの方はそこまでそれを重要視しません。色々な見方ってあるよね!!!止まりです。ですが視点とは認識を変えます、、認識がガラッと変わります。認識が変わるということは経験が変わってしまうということです。例えば最高のカツラを新調したと思い「カツラ」をし忘れて会社に出勤したとしましょう。。一日中多くの方が私を見ます。。私は髪型が決まっているから見てるんだな、、と一日中悦に浸って送ります。ところが家に帰ってビックリ、カツラを忘れていたことに気づきます。。。そうです、、思い込みは経験を変えるのです。視点は経験を変えます。

ただ起きる

視点を変えます、、物事は全部ただ起こるだけ、思考も感情も行動もただ起こる、、この視点に立ちます。実際にそうなんです、、この視点に立って眺めれば、、全思考全感情全行動は勝手に起こり勝手に消えます。そして視界も勝手に起こり勝手に消えます、音も勝手に起こり勝手に消えます、味も勝手に起こり勝手に消えます。触感も勝手に起こり勝手に消えます。そうです、、この世界に起こることは勝手に起こって勝手に消えています。その中で全思考全行動を自分がコントロールしているという思考が勝手に起こり勝手に消えるのです。

変わると

全思考全感情全行動、全視界、全音、全味、全触感、全香り、、は勝手に起こり勝手に消える、、、この視点で観察します。この視点は神の視点、空の視点です。神の視点、空の視点で物事、全現象を観察する時、、真の安らぎ、真の平和、真の愛が広がります。なぜ????だって神の視点、空の視点は神の認識、空に認識、、、神の認識、空の認識とは、、神の経験、空の経験だからです。

ストーリーからの悟り

方便からの入り

真実はシンプルですがシンプルすぎるが故に拒絶反応も半端なくあります。真実は人間常識とは180度異なるのでそのまま学んでも全く入ってこない、認識できないというパターンに陥るわけです。そこで重要になるのが方便、比喩です。今この自分が居るという前提、ストーリーの流れから真実を完璧に理解してしまうということです。理解が起こってしまえばこっちのもの、、真実が完全に起こります。

自我を利用する

自我は「私」にまつわる内容であれば読み込みを行います。この説明は間違い、自我前提のストーリーが起こっている場合、、自我前提の理解の起こし方が最もスムーズに真実の理解が起こります。だからどこから入るかです、人間常識を真っ向からバッサリ切っていく真実から入るか、、人間常識を前提に徐々に徐々に目覚めに導く内容で進むかです。

ノンデュアアリティ

ノンデュアリティ と呼ばれるメッセージは、、英訳そのままに非二元ですから、、私と私以外というストーリーを完全に否定します。完全否定から入ります。これが真実に目覚めさせる劇薬になる場合もあるしこの劇薬が強過ぎて理解が起こらない場合もあるのです。どちらにしてもこれはケースバイケースです。見かけ上の私の場合は半々でした。ノンデュアリティ のメッセージで真実を頭で理解し、、その上で方便のメッセージを読み込みますと混乱が起こらず、、スムーズな理解が起こりました。最終的にはこうなっているという答えを持った上で方便を読み込むことで絶対的な安心の中で理解が進みました。

分離できない世界

この世界

この世界はどこまでも分離しているように見えますが全くもって分離できない世界です。幻影です、幻です、このマジックが分離しているように見え、感じさせますが実際には分離は不可能であり、、この五感が「分離」しているという錯覚を生み出す起爆剤になっているだけです。ですが注意深く観察すれば五感自体は分離を何も証明はせず、、ただ思考が「分離している」という妄想を繰り広げているのです。

空即是色

究極から入ってしまえば空即是色で成り立つこの世界に分離があるはずがないのです。無限の存在、無限であるという自覚がない存在の鏡に写った姿がこの世界です。だからこの世界は常に変化し動き一定の状態にはなりません。この世界の本質は「無限」が鏡に映った姿なのです。鏡に映った姿は「投影」ですからそこには実態はないのです。この世界はどこまでいっても幻です。ですが幻てそこに「在る」のは「無限の存在」ですから、、永久、永遠、無限がそこには常に常に映し出されるのです。

この体をの前の鏡に写してみてください。この体の投影がはっきりと映し出されるはずです。投影として映る体に分離はありますか???ないですね、、分離があるようにハッキリと見えますが、見えるだけ感じるだけでしょう。ないんです分離は。そこに映った姿は、、投影ですから実質的な分断が存在しません。

悟り

悟りとはこの世界が実は全く分離せずただの空の投影であることに気づくことです。空脳投影だけが常に存在し認識が生まれます。その認識こそが我々の「意織」です。意識とは空から色が生じる際に起こる「奇跡」なのです。この奇跡である「意織」を「自己意識」と呼んで個人活動をしているのが我々です。ですがこの体は完全に構造上分離しておらずよって自己意識は幻をベースにした嘘、錯覚です。自己意識という幻を「真実」と勘違いすることから「違和感」が生じその違和感を解消しようとさらに思考が動くという無限ループが人類の「苦しみ」です。

人類皆兄弟

全員

この世界の全員が自由意志がなく自由行動がなく自由感情がないんです。。。これって凄いことじゃないですか?????にも関わらず全員が自由意志があって自由行動があると信じています。だから争いが絶えない、喧嘩が絶えない、妬み嫉みが絶えない、恨み怒りが絶えないのです、、これを全部解消する事実、、それが人間には自由意志も自由行動も自由感情もない、、という真実です。

今ここで悟る

自由意志があるから過去の実績過去の人生の全ては自分に背負わされます。すると、、いや正直自分の人生なんてこんなもんですよ、、、という投げやりの気持ちが芽生えます。だって今更成功者にはなれないし、有名人にはなれないし、こんなもんですよ!!!の話です。ですがそれでいいのです、、それがいいんです。何もかも全部自分で決めていないし勝手にやらされてきただけなんです。この究極の投げやり、それが解放です。全ての責任がぶっ飛びます。

しょうがない

この言葉で全部片付きます、、全部が全部勝手にやらされたのだから起こった事実は「しょうがない」で受け入れるだけです。これ以外の方法がありません、本当はこうした方が良かったよね!!!はないんです。人生には。これしかない選択肢を延々と選ばされてきただけなんですから。そしてそれはこれからもそうです。いつ死のうと、いつ寝たきりになろうとも、、それを回避できる方法はなかったのです。

悟り

悟りとは、、、この真実を受け入れることです。何もかも今の現状以外の選択肢はなかったという究極の気づき、、です。本当は他の人生があったのでは、、はないのです。それはこの友人の人生にもありえないし、この友人もあの友人も、周囲でこの人生以外を選ぶチャンスは絶対的になかったということです。もっと素晴らしい地球があったのでは???ないんです絶対に。これしか選ぶチャンスはなかったのです。

自由意志がないという瞑想

完全な瞑想

自由意志がないという事実を理解することはそのまま瞑想になります。ここからでてくる思考を観察者として眺めることができるのです。何がここから出てくるだろうか???という観点になって思考を眺めることができます。実際にそのようにしますと「ここから出る思考」は面白いとなります。今日はこんな思考が沸いたな、明日はどんな思考が湧くのだろう???という観点です。まるで他人事です、、ですが一方でこれを観察する視座は究極の愛です。

他人事で完璧

この体から湧く思考、行動、感情をまるで他人事として観察する視座を持つことは、、、究極の安らぎの中でこれを見守れるようになります。すると他人周囲の発言、行動に対しても究極の愛でこれを見守れるようになるのです。誰も彼も自由意志で思考し行動していないのです。完全な自動運転自動操縦です。それを究極の視座で観察します。これは虚無主義でしょうか???違います、軽いんです、軽いから好き勝手な思考感情行動がここから起きます、それを楽しみます。

一人無双

結局のところ人間は自分を責めるか他人を責めるかして人生の多くの時間を無駄にします。自分を責めて落ち込み、人を責めて怒りに狂う、、自分の行動に悩み、人の行動に悩みます。ですが真実を理解すればそれは不可能なんです。誰も彼も自身の行動意思感情をコントロールできないのです。これが分かってどうやって人を責めれますか???どうやって自分を責めれるのか????どうやって悩めるのか????という話です。これが一人無双です。敵が居ない、自分も敵にならない、、、完全無双です。

後悔

何度も起こる

後悔ほどストーリーに戻す力が強いものはないでしょう。あの時こうしておけば、あの時違ったやり方があったのでは、あの時あれをしていればもっと上手く行ったはずなのに、、、です。ですがこれはないんです。。あり得ないんです。なぜ????だって後悔するにもなにも自由意思、自由行動がないからです。自由意思、自由行動がないにも関わらずどうやって過去に戻ってこうする!ができるのでしょうか????まさに今この瞬間も自由意思、自由行動などなく1日が終わろうとしています。今日という日をコントロールできる自分は居ないのです。

常に自由意志はあると感じる

常に常に自由意志はあると感じることができます。今もコンビニに行く、スーパーに行く、何でもどこでも選べます。ですが最終的にどう決断するか、、は決まっているんです。そこには選択肢がないのです。この真実に気づくことができますと、、もう後悔は起こらなくなります。全部そうなることが決まっていたからです。この気づきが真の安らぎを生みます、真の平和、真の愛を生むのです。

起こった時

後悔すべき物語が起こった時、、それはストーリーに戻す動きが起こったのです。そこでそれを観察します。そして後悔したくても後悔は構造上不可能であることを見抜きます。さらにこの自分も居ないことからその物語すらもイメージに過ぎないことを見抜きます。真実ではなくそれはイメージ妄想思考が練り上げた物語に過ぎないことを見抜くのです。

自覚

空即是色

空即是色の自覚が生まれますとんでもない事実に驚きます。この体から言えば、、思考は順に順に起こります。思考がまとめて一気に起こることは全くなく順番に起こるのです。1日分の全思考が一分の間に一斉に起こることはなく1日をかけて均等に訪れます。つまり一瞬に一つのみの現象が起こるのです。全現象は気づかれます、気づかれない現象はないのです。つまり現象とは一瞬で一つなのです。空即是色が起こり認識が起こる、、これだけがひたすらに続きます。

運動

体を整えて滞りを解消していきますと、、空即是色をそのままに気付くようになります。空即是色の中に思考が起こるが起こらなくなる、ストーリーが起こる回数が減っていきます。思考を起こすのも空即是色です。空即是色の中で思考の想起が減るのです。ストーリーの想起は「苦しみ」の起こりでもあります。これが減ります。なぜ減るのか???思考が起こる慣性の法則を断ち切るからです。

認識

実は目の前でしか現象は起こっていません、目を閉じればその現象も消え音のみの現象に変わります。現象と認識は一つです。認識が起こらない現象は起こらず起こった現象は必ず認識されます。ここが人間常識とは全く異なること真っ向から反対の点です、そして正解は真実です。みんな今日は休みで楽しんでいるはずなのに私は一人で部屋でTV、、、じゃないんです。今起こっている現象は今認識しているTVのみです。外では何も起こっていません。だからそれが何なんだ????「さきほどの思考は杞憂だ」という話です。意味がないんです、それが起こっていないから。

自己の探究

禅とは目を閉じて起こる全ての現象を思考を抜きに観察することです。目を閉じて起こる音に注目します。驚くべきことにしっかりとコンスタントに音がします。バイクの音、水が落ちる音、工事現場の音、耳の振動の音、救急車のサイレンの音、、、これが空から現れでた色です。。。その精密な動きに驚きます。だって全く同時に起こることなくしっかりと間を開けてコンスタントに起こり続けるのです。

道を歩きます

人が突然100人押し寄せることなく一定間隔で横切ります。一緒に100人が突然来ることなく一定間隔で起こるのです。これが空から現れる色です。現象はほんとうに凄いタイミングで起こります。音と人と香りと味が一斉に全部起こることは絶対になくコンスタントに起こり続けます。この完璧な現れに感動します。

目を閉じる

パトカー、救急車、工事現場、道ゆく人、の音が一斉に起こるのではなく、、一瞬一瞬にコンスタントに音が起こり続けます。空即是色が起こるのです、そして気づかれない色は存在しない。道を歩けば右足が地面を感じ左足が次に地面を感じを繰り返す、この二つが同時起こることはなく、景色はそれに準じて徐々に変わる。空即是色が完璧に現れいていきます。ここに気づきます。空即是色の現れに自我が何一つ関与しません、そしてその中で自我が空即是色として現れるのです。