空は人間に「成れない」

本質

我々の本質は「空」です「無限の存在」です「自身が無限の存在であるという自覚」がない存在です。熟睡時自覚的に熟睡していますか????していませんね、、、では熟睡時の自分は誰ですか???????「自覚なき無限の自分=空」です。つまり自覚なき無限の存在です。自覚なき無限の存在である我々は、、今この体の中の私をやっています、、やっているつもりになっています、、もっと正確に言えば、、この体の中の私という幻が起こり、、その起こりが認識されるが起こっています。どこで????誰によって?????空しかありません。空以外の何かは存在しないのですから。

これが私だ!!!!

多くの方はこの体、この思考、この意識の三点セットを「私」と呼びます。体も私の物だし思考も私のモノ、そしてこの意識も私のモノです。そしてこの三つはいつもいつもこの私と一緒に居るから、、この体が粗末に扱われたり、この思考を否定されたりすると、、頭にきます。ところが本当は本当はこの三つは「空」の現れでしかありません、、私たちはこの空の方であって、、空の現れ「三つ」ではないんです。勿論この三つ「体、思考、意識」も空の現れですから、、空の「一部」です、、ですが「一部」であって全部ではないのです。そこが「違和感」となって現象化します、、これを「苦しみ」と呼びます。

意識はどうやって現れる??????

体は勝手に現れ、思考も勝手に現れます、、じゃあ「意識」はどうやって現れるのでしょうか??????意識とは『空から現象が現れ出る時に同時に「気づき」として現れます』つまり空から現象が現れ続ける限り「気づき」は現れ続けます。じゃあ空から現象が現れない時は「気づき」は現れないのか??????そうです、、その通りです。だから熟睡時「気づき」がないのです。

悟り

悟りとは「全て」を理解することです。我々の本質は「空」です、「空」以外になることは不可能です、なぜならばここは空しか存在しない場所だからです。そして空の中に空とは別離した存在は存在できません。もしも可能だとすれば「別離した」と思い込むこれしか起こり得ません。『「この体、この思考、この意識」はこの世界とは分離した私だ』という思考は起こってもこれは真実ではなく、、「私とは空だけ」です。だから違和感が湧き続け苦しみが「真の私」の中で起こるのです。この全てを理解することが悟りです。

見たい見たい全部見たい

幸福になるためじゃない

旅行って最高ですよね???その時はスーパーハッピーになるんです。違います、全然違います。幸福だから色々見たくなるんです、、子供はそうです、、「幸福になるため」に旅行に行きますか?????幸福になりたいから「旅行の計画」が好きです、、、って子供気持ちが悪いですよね?????そうです。幸福だからなんでも見て食べて遊んで楽しいのです。幸福だから色々見たいのです、遊びたいのです。

不登校

学校に行かないと友達ができなくて楽しくなくなっちゃうよ!!!違います、全然違います、、友達が増えても既に面白くないから「学校に行かない」のです。母親が部屋で朝から晩までテレビを観ていて、、それが憑り、、無気力になり、、友人との会話も楽しくなくなり、、「学校に行かない」が起こります。子供は「元気な友人」「悪賢い友人」「アホな友人」「カッコつけの友人」「美人の友人」「そうじゃない友人」全部楽しめます、それこそが楽しみです。条件がないことが楽しいのです。楽しいに条件がないのです本来。

色々

この世界は色々あるから面白い、感動があります。「こういう世界」が理想であの場所に行ったらそんな理想の世界がありました!!!は嘘です。。。全部あるから面白いのです、、、汚ったない町、薄汚れた町、ビジネス街、裏街、酒池肉林の世界、、、、なんでもあるから面白いのです。ここは「空」の無限の現れの場所です、、ここは「空」の無限体験が起こる場所です。そこに感動します、そこが面白くなっちゃいます、それこそが大感動です。

悟り

悟りとは、、「野に咲く花」に感動することだけではありません、、新宿の酔い潰れたオッサンにも感動します。六本木のビジネスエリートを見て感動します。六本木ミッドタウンでランチする新入社員に感動します。秋葉原のアイドルオタクの姿に感動します。だってそれが空の現れってオモロ過ぎます、それが無限の存在の現れってギャグです。。。本当に何でも作っちゃうわけです。気鋭のデザイナーが裏生地にも実はこだわって作ってます、、とかのレベルじゃありません。。こんな所にも実は刺繍が、、、とかのレベルじゃないんです。

飲み屋街

悟り

お酒を飲む人々は悟りからは遠い、だから飲み屋に行くと複雑な気持ちになるんですよね!!!、、、違います、、全然違います。その飲み屋で飲んだくれ、ボヤキ、絡み、笑い、毒付き、のたうちまわる、、その姿こそが「空の現れ」です。空の現れは「壮大な山」「見渡す限りの海」「神秘的なオーロラ」だけではないんです。この都会では「空の現れ」とは「歌舞伎町のネオン街」「新橋の喧騒」「渋谷のセンター街」です。全部が全部「空の現れ」「無限の鏡姿」です。

新宿で遊んでたら

例えば新宿で遊べば、、グレイからブラック、ブラックから闇、闇から極悪、、遊び仲間を変えることができます。これが空の現れ、無限の現れの証拠です。いつの間にか、、とんでもない方々との付き合いに。。。。が可能です、、なぜならばここは空の現れの場所です。無限の体験が起こる場所ですよ。赤坂付近で遊べば、、リッチ、スーパーリッチ、富豪、大富豪と、、、、お店をアップグレードしていけます、、なぜならばここは無限の体験の場所だからです。

感動するポイントが違う

悟りに興味があるのだから「娯楽」にはもう興味は薄いんですよね??????それは一種的を得てます。娯楽の先に幸福がないことは100も承知です。だけど、、、渋谷、新宿、新橋、六本木、、多種多様な街の彩、輝き、喧騒、ごたつき、ぐちゃぐちゃ、、全部全部「空の現れ」「幻」「幻影」です。凄すぎる?????岡本太郎、チームラボ、あらゆるアーティストが描くアートよりもとんでもないアートが今目の前に聳え立ちます。是非その目線で見てみてください、驚愕します。

悟り

悟りとは「山で静かに暮らすこと」とは全く違います。この見える世界、この喧騒、沙婆、人間社会、がありのままに映ることです。この全てが空という「無限の存在」「物質ではありえない存在」「時間と空間では縛れない存在」の現れです。にも関わらずここは「時間」「空間」「個人」が在るようにしっかりと見える感じる世界です、、そこが凄いのです。そこが半端ないのです。それを感動しなくて何を感動するのか?????です。結果的に刺激を求めなくなり、欲求を貪ることがなくなり、、静かに落ち着くことはあります。

「しなくてはいけないこと」がない

空の現れの中で

空とは物質ではありません、空とは空間でもないし時間でもない、、よってこの体の中の「私」がこの物質の世界の中で時間という制限を持ちながら成し遂げる何かは存在しません。だって本質は物質でもなく時間でも空間でもない、その「本質の私」がいったいこの世界で何を成し遂げろというのか????です。私は「空」ではいられないことなどできるわけがなく、、物質によって空間によって時間によって制限されるような柔な存在では断じてないのです。その空の中で意識が起こり、意識の中で「この体この私この登場人物」の全てが起こっているのです。

それが凄い

これは「空」の現れです、、凄くないですか????このビル、この広告、この道、このネオン、、全部が全部空の現れです。「無限の存在」の現れですからそりゃ何でも現れる、、でもそれにしても緻密多様繊細過ぎませんか?????全くもって綺麗でもないとんでもなく俗っぽい広告、ネオンの全てが、、「空」の現れです。こんな多岐にわたる現象の全てが空の現れです、、ビックリです!!!

渋谷のネオン街

渋谷の夜のネオン街に行けば、、俗による俗の塊のようなネオン、広告の数々、、これが、、空の現れなんです。とんでもない緻密さ、とんでもない俗っぽさ、とんでもない、、〇〇、、これが空、神の現れですよ!!!!!マジか?????です。ですが空の現れに良否、善悪、優劣はあるわけがなく、、それこそがアートです。面白い!!!!です。

悟り

悟りとは、、全現象が空の現れであり、今まさに完全完璧に空の現れが顕現していることに気づくことです。そして今がまさに完璧でもあるにも関わらずここで個人が何かをしなくてはならない!!!なんてことはあるわけがないのです。今ここが渋谷の汚ったないネオン街であっても、、それこそが完全完璧な空の現れです、、だから今私がこの環境の中でやらなくてはならないことは一つもありません、この体もこの私の状況も人格も含めて何一つやらなくてはならないことはないのです。それを理解することが悟りです。

「しょがなくない」がない

しょうがない

男の浮気はしょうがない、なぜならば生物学的により多くのメスに種を撒くことが決まっているから。だが女性の浮気は「本気」だからしょうがなくない、、、と男は勝手な思考を持っています。女性のバッグ好きはしょうがない、なぜならば女性はいつまでも綺麗にしていたい動物だから。でも男の車好きはしょうがなくない、なぜならば男の車好きはエゴだから、、という女性は勝手な思考を持っています。

残念

しょうがいないの根底には「自由意思」を超えた完全な力が働くことを指します。男の浮気は自由意志ではコントロールできない、女性のバッグ好きは自由意志ではコントロールできない、、、だからお互いそこは諦めましょう!!!という大人の判断です。ところが、、、ところが本当は全部ノーコントロール、自由意思なし、完全自動運転なんです。女性の浮気もノーコントロール、男性の車の衝動買いもノーコントロールです。すると「しょうがない」しかない、、となります。

DV

じゃあ旦那のDVも自由意思ではなく勝手な勝手な自動運転だから、、それもしょうがない、、甘んじて受けろ!!ということでしょうか。。。違います、、彼の行動は「しょうがない」で済ます以外にない、、ですがその後の対応「警察に通報する」「弁護士に相談する」「別居する」は起こせます。そこに感情が要らないということです。家の土佐犬が暴れまくる、、ここには土佐犬の自由意志ではなく土佐犬の本能の動きだけがあります。その対応は千差万別、適宜判断が必要になるのです。

悟り

悟りとは「こう考えた方がいい」とか「こう考えると楽ですよ」という話ではありません。事実、真実はそうなっていますよ!!!というメッセージです。その事実をベースに其々が対応すると、、楽になるかもしれません、、という内容の話です。

「熟睡していた」という気づき

なぜ????

なぜ我々は朝目覚めた時「寝ていた」という自覚を持てるのでしょうか?????寝ていたことに全く疑いを持たずに「寝ていた」と気づくのは、、実は意識が起こる以前に間違いのない実感があるという証拠です。意識が起こる前「何か」であったという実感、意識が起こることに自覚的である「何か」であったという実感、意識がスタートすることに気づく「何か」が我々の本質だという実感です。

体が無ければ

体が無くなってしまえば当然この「意識」は起こり得ない、、体の目覚めが「意識」のスタートです。体と意識は完全に相互に関わり合っています。ですが目覚めることに気づく「何か」は体を必要としません。その「何か」こそが我々の本質です。「空」には「空」という自覚がありません、ですが朝目が覚める時「寝ていた」という自覚が100%起こる、起きることで「意識」のスタートを自覚するのです。どこからこの「意識」のスタートが起こるのか?????「空」です。

空から意識が起こり

「空」から「目覚める」ことで意識が起こり、意識の中にこの体、あの体、あれ、それ、が起こります。あらゆる登場人物が次々にこの「意識」の中で起こります。空とは完全に物質ではないし、この意識も当然物質ではない、そしてこの意識の中に現れるこの体、あの体、あれ、それも物質ではありえない。なぜならば物質ではない存在「空」の中の意識、意識の現れが物質であるならばそれは不可能だから、となります。

催眠

一点

この世界には催眠があります。嘘を信じさせられているが起こっています。その催眠とは何か?????それはこの「私という幻想」が幸福を感じ、怒りを感じ、憂いを感じ、悲しみを感じ、絶頂を感じ、絶不調を感じ、悩みを感じている、、、、という嘘を信じることです。これ全部嘘です、、、感情の全てを感じれる「幻想」は存在しないのです。存在していないにも関わらず「私」は全部の感情を感じてるという裸の王様をやらされています。だから苦しい、しんどい、辛いのです。

あなた感じてませんけど????

昨日は怒りに襲われて朝まで飲み明かしましたよ!!!残念、怒りを感じることができる「あなた」は居ませんよ。「あなた」を感じることはできます、だから今話しかけれています。ですが「怒り」を感じることができる「あなた」は居ないんです。「あなた」の能力は「ゼロ」です。「あなた」とは認識されることができる「幻想」それ以上でもそれ以下でもありません。

全員が全員「能力ゼロ」

実は実は「私」は自由意思も使えませんし、自由行動も使えない、自由感情も使えない、、、何も感じることもできない、、雨も、風も、暑さも、寒さも、湿度も、乾燥度も、何もかもを感じることができない「幻想存在」です。そういう意味では全人類80億人の自我は全部「能力ゼロ」です。これだけが前提です。「能力ゼロ」これだけが真実なんです。

幻想、幻想、幻想

感じる

太陽、風、緑、植物、道、人物、私、この体、、、全部全部幻想ですが「感じる」ことができます。この世界に起こる幻想の全ては「感じられます」。日の光、雨、台風、嵐、怒りの表情、悲しみの表情、歌、、全部「感じられます」ここに起こる現現象は現れて消えていく幻です。よって「私」と呼ばれる自我も現れては消える幻です。この体も現れては消える幻です。

感じる

この世界で唯一消えないこと、、それは「感じる」という現象です。これは常に起こります。音がない時「静寂」を感じます。光がない時「闇」を感じます。怒りがない時「平安」を感じます。熟睡から目覚める時「熟睡していた」を感じます。この世界とは「感じる」という永続の中にあります。朝起きて寝るまで「感じる」が永続するのです。全人類全動物にこれが起こっています。

私がこの木を感じた

「私がこの木を感じた」という思考が突然起こりそれが「感じられます」。「私がこの光を感じる」という思考が起こり、それが「感じられる」が起こります。ですがその思考の内容は真実ではないので同時に「違和感」が感じられてしまいます。「私」という幻想は「感じられる」ものであって「感じる主体」にはなりえないのです。だから「違和感」が起こります。「違和」が「感じられる」が起こるのです。誰が感じているんですか?????これを感じることができる「幻想」は存在しません。ただ「感じる」が起こるのです。現象として。

悟り

悟りとは「真実」と「真実以外」をはっきりと理解することです。「真実以外」の言葉による思考が起こった時に「違和感」が起こることを明晰に観察できることを「悟り」と呼びます。「真実」を表す思考が起こっても違和感は起こりません。「真実以外」を表す思考が起こった時に「違和感」が起こります。「私は怒りを感じる」は「真実以外」です。「怒りが起こった」は真実です。「コーヒの香りを感じた」は真実です。「私がコーヒーの香りを感じた」は「真実以外」です。

自我、自我、自我

あっていい

あの人は自慢ばっかりして「我が強いよね」「昨日は私の我が出っちゃって」こういう話聞きますよね。つまりこれは普通に普通にある世間話です。我の動きを感じてます。つまり自我って感じれちゃうんです、感じれちゃうんですからあるんです、幻想として。幻想なら感じることは出来ないのでは??????逆です、、この世界は幻想だけを感じれる世界なんです。お化けって見える人には見えるんです、本当に。ですがお化けは100%幻想です。

重要なこと

重要なことはただこれだけです「全部幻想である」これです。「全部が全部幻想です」幻想とは100%あるように感じれるし見えるが、、100%実在しないということです。友人から徹底的に馬鹿にされ騙され「私は傷ついた」これは嘘です。100%嘘です。傷つくという感情は100%感じますがこれは幻想です。私も100%感じますがこれも幻想です。「私という幻想」は「傷つく」という認識を起こすことは絶対にできません。だからこの文章だけが間違っています。この文章は創作、想像、妄想です。この文章は使わない方が良いのです。

私は今幸せです

この文章は使わない方が良いです。なぜか?????「私という幻想」don’t feel happyです。幻想don’t feel happy. です。分かりますか?????it feel happy.  it feel 「me」 but. fantasy of 「I」 feel happy です。「私は幸せを感じる」これは構造上起こり得ないのです。ここを理解します。ここを気づきます。ここに注力します。私は幸せを感じる、、こう宣言しますと、、これが認識され「エラー」「error」となりこれが感情として起こるのです。「違和感」です。人間の苦しみとはこれです。

絶対=非顕現、非現象

対が無い

この世界は二元性の世界です、「私が居てあなたが居る」「これがあってあれがある」「加害者と被害者」ですが、、、それが無い世界がある、、、対が無い、対が絶える世界、、、絶対の世界。。。非顕現、非現象、絶対の世界、、そして我々の本質とはこの絶対、非顕現、非現象であると。この世界は対が全く無いので、、「自分」を認識できない、、、つまり自分は居ないと同じこと。。。それでは自分が居なくなってしまうので、、そこには「自分」を認識できる部分、つまり自分が便宜上小さくなって自分を認識できる部分を作りました。それがこの我々が今認識する世界です。

この認識

この認識は、、非顕現、絶対が、、それでは何も無いということで強引に自身を認識できる部分を作り上げた結果ですか、、、この認識とは非顕現、絶対の内部で起こります。つまりこの認識は非顕現、絶対を認識する認識なのです。自己意識(小さな体としての)が存在しないのはそんなものはそもそも無いからです。ここには非顕現、絶対、非現象しかそもそもなく、、その存在を自ら意識する場所しか存在しえないのです。

神、気づき、意識

絶対、非顕現、非現象の中には「自らを認識する意識」が含まれます。この意識のことを神、気づきの意識、真我、神我と呼んだりします。意識とはこのことです、、我々が今抱えている「意識」こそが「神」であり「真我」であり「神我」です。この意識の中に「絶体の投影、反映」が写っているのです。この投影、反映は意識の一部です。ゆえにこれらが幻と呼ばれるのは当然なのです。この世界は現象現実と呼ばれる意識が生み出した幻が存在し、、それはその同じ瞬間に気づかれます。現象に気づくことができない「意識」は存在しません。

私とは、、この絶対、非顕現の投影の一つであり幻です。この体も当然幻です。幻ですがこの幻は100%認識されますから、、体も認識され自我も認識されます。認識はされますが100%幻、投影なのです。問題はこの「私」はハッピー、アンハッピー、怒っている、恨んでいる、平穏だ、荒れている、、、と感情を所有する存在と誤認されることです。この「私」は幻想、幻影、幻ですから、、感情の認識(ありえない)はできないのです。これを出来る、当然とする動きがマイストーリーを作ります。

解放

感情を所有する「私」過去を所有する「私」これらの表現は偽りです。認識はこの世界に誕生する「幻」には起こすことはできません。この勘違いが、、釈迦が言う「無知」のことです。無知故に苦しむ、、無知故に生きるのが辛い、、となります。どうするか?????勘違いを無くし「無知」を「知」に変えます。ただそれだけです。本当にそれだけなんです。この世界に人生が誕生したのは「勘違い」をベースにした思考が湧き、それが認識されただけです。このシステム、この動き、この投影を止めるのです。