絶対=非顕現、非現象

対が無い

この世界は二元性の世界です、「私が居てあなたが居る」「これがあってあれがある」「加害者と被害者」ですが、、、それが無い世界がある、、、対が無い、対が絶える世界、、、絶対の世界。。。非顕現、非現象、絶対の世界、、そして我々の本質とはこの絶対、非顕現、非現象であると。この世界は対が全く無いので、、「自分」を認識できない、、、つまり自分は居ないと同じこと。。。それでは自分が居なくなってしまうので、、そこには「自分」を認識できる部分、つまり自分が便宜上小さくなって自分を認識できる部分を作りました。それがこの我々が今認識する世界です。

この認識

この認識は、、非顕現、絶対が、、それでは何も無いということで強引に自身を認識できる部分を作り上げた結果ですか、、、この認識とは非顕現、絶対の内部で起こります。つまりこの認識は非顕現、絶対を認識する認識なのです。自己意識(小さな体としての)が存在しないのはそんなものはそもそも無いからです。ここには非顕現、絶対、非現象しかそもそもなく、、その存在を自ら意識する場所しか存在しえないのです。

神、気づき、意識

絶対、非顕現、非現象の中には「自らを認識する意識」が含まれます。この意識のことを神、気づきの意識、真我、神我と呼んだりします。意識とはこのことです、、我々が今抱えている「意識」こそが「神」であり「真我」であり「神我」です。この意識の中に「絶体の投影、反映」が写っているのです。この投影、反映は意識の一部です。ゆえにこれらが幻と呼ばれるのは当然なのです。この世界は現象現実と呼ばれる意識が生み出した幻が存在し、、それはその同じ瞬間に気づかれます。現象に気づくことができない「意識」は存在しません。

私とは、、この絶対、非顕現の投影の一つであり幻です。この体も当然幻です。幻ですがこの幻は100%認識されますから、、体も認識され自我も認識されます。認識はされますが100%幻、投影なのです。問題はこの「私」はハッピー、アンハッピー、怒っている、恨んでいる、平穏だ、荒れている、、、と感情を所有する存在と誤認されることです。この「私」は幻想、幻影、幻ですから、、感情の認識(ありえない)はできないのです。これを出来る、当然とする動きがマイストーリーを作ります。

解放

感情を所有する「私」過去を所有する「私」これらの表現は偽りです。認識はこの世界に誕生する「幻」には起こすことはできません。この勘違いが、、釈迦が言う「無知」のことです。無知故に苦しむ、、無知故に生きるのが辛い、、となります。どうするか?????勘違いを無くし「無知」を「知」に変えます。ただそれだけです。本当にそれだけなんです。この世界に人生が誕生したのは「勘違い」をベースにした思考が湧き、それが認識されただけです。このシステム、この動き、この投影を止めるのです。

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