役割を降りる

お掃除係を頑張りました

太郎くんはお掃除係を一生懸命頑張りました!!!!次郎君はペット係を一生懸命頑張りました。係、学級委員長、部長、係長、課長、父親、町内会長、、、、こうやって我々は何かしらの係をこなしていきます。役割です。会社に行けば〇〇係長、〇〇担当課長、、全部役割です。私とは「いまここ」なんですがいつの間にか、、〇〇担当係長兼父親兼町内会長兼朝のゴミ出し当番です。。本当は「いまここ」そのものなんですが、、そうではなく役割に変わります。

苦しい

おかしい、、なんか役割が増えていくに従って苦しみが増しているような。。。そうです、そうなんです、、、私は役割なんかじゃないにも関わらず、、そう信じる動きが起こるのです。それによって苦しみが増幅していきます。おかしい気がする、でももうここから離れるのは怖い。。。私とはいまここ全体のことです、にも関わらず「私は〇〇担当課長だ」という思考が湧き上がり、その度に違和感という苦しみが生まれるのです。

辞めたら大変になるかも

いきなり役割を降りたら大変になりますか?????なります、大変にはなるでしょう。ですが「苦しみ」が減ります、激減します。大変にはなっても苦しみが減るのです。役割を小さく小さく少なく少なくしていけば大変になるかもしれませんが確実に「苦しみ」が減ります。苦しみは実は何かが足りないから生じるのではなく「勘違い」が起こす違和感だったのです。

悟り

悟りとは「自分とは〇〇だ」という勘違いこそが苦しみの根源であったことに気づくことです。収入が少ない、家が狭い、地位や名誉がない、、これは苦しみを生みません。勘違いではないからです。ですが私は〇〇担当課長兼父親兼町内会町兼ソフトボールスタッフである、、という認識は「苦しみ」を生みます。事実、現実は何も「苦しみ」を生まないのです。勘違いが苦しみを生むのです。そこに気づくのが悟りです。

不幸をなくす

幸福ではない

幸福とは不幸がない状態です。幸福という何かがあるのではなく「不幸」が消えた状態が幸福、至福です。幸福を手に入れようと懸命に努力してもそこで手に入るのは一時的な不幸解消でしかありません。よって次の瞬間には不幸がまた蘇ります。多くの方は家族を手に入れたら幸福になると信じていますがそこで手に入るのは「不幸」の一時的解消です。手に入れようとする「自分=不幸」が一瞬消えるという事件です。

不幸が増えただけ

そもそも至福しかなかった中で不幸(勘違い)が増えていったのです。勘違い(不幸)が増えていくことで苦しくなっていきました。にも関わらず我々は幸福を追い求めようとします。これも勘違いです。我々はそもそも至福でしかないにも関わらず「勘違い=不幸」を増やしていき結果苦しくなったのです。勘違いの強度=不幸の強度です。ですから我々が唯一取り組むべきは勘違いの解消、これだけです。

何も手に入れなくていい

はっきり言ってしまえば「手に入れて」不幸を消すことは不可能です。不幸とは勘違いですから手に入れるのではなく勘違いを消すのです。だから今想像する「手に入れたら幸福になる何か」はあなたを全く幸福にはしません。そうではなくこれは勘違いだ!!!!を増やしていくのです。俺勘違いしてた!!!を増やすのです。こうやって勘違いの土台を粉々しにして勘違いを消すのです。

悟り

悟りとは「幸福を手に入れる」という旅を終えて、、「勘違いに気づく」という行動のパラダイムシフトです。「勘違いに気づく」のに決まった行動プロセスを踏む必要は一切ありません。もう頑張って努力したりもがいたりする必要がないのです。ただ勘違いに気づくだけです。そこにはお金も一切かかりませんし行動も必要ないのです。どのような勘違いが起こってしまったのか???に気づくのです。

今=色

今とは色のこと

今とは=色です、今とは=現象です。つまり今とは時間を指す言葉ではなく現象のことです。今が時間ではないのならばこの世界には時間がありません。今が時間ではないからです。いまここ=現象=色=空です。色は現象であり、空とはこの現象の生みの親、、、さらに色が無ければ空もまた存在しないことから「いまここ=現象=色=空」です。時間とはあらゆる現象を繋ぎ合わせてストーリーにした流れのことです。本当は空の現象である色に流れなどはなく、、ただエンドレスに色が移ろうのみです。ただし時間、空間を彷徨う自我というストーリーも空の無限の現象化の一つです。時間も空間も現象、幻想、幻としてあるとなります。

ただし

時間という実態があるのではなく「時間がある」という思考が今起こり今認識され今イメージ化されます。イメージとしての時間が今存在するのです。色は空から一瞬一瞬起こるのみ、、この一つに時間というイメージが色として今起こるのです。時間や自我はスピの世界、悟りの世界では悪者扱いされますが、、これも色という表現の一つですからそこに良悪はないのです。悪い色の表現があるのならば最初から現象化されなければいいのですから。そういう意味ではこの無限体験(色)に悪はないのです。

悟り

悟りとは「時間が実は幻の一つであり、、本当は時間軸はなく、、よって過去も今も未来も幻であることを理解すること」です。空の現れの色(現象)がたたあり認識されるが起こる、、ただそれだけです。その中で時間という思考もまた認識されます。過去という思考が認識され未来という思考もまた認識されます、そしてその認識は空の現象、色として起こるのです。

構造的無理を全部請け負う「自我」

自分がやりました

容疑者は最後に刑事の前で吐き出します「私がやったんです」と。。。刑事はようやく認めた容疑者の説明を受け「黒」と断定します。ですがですが、、その殺人を犯した「自分」とやらは一体どうやってそのアクションを起こすことができるのでしょうか??????被害者の首を締めたとしましょう、、この手で、、この手は腕によって動かされます、この腕は肩甲骨から、、この肩甲骨からの動きは脳内シナプスから、、脳内シナプスの動きは「自分」から、、「自分」の動きから「どこかから」「どこかから」の動きは「さらなるどこかから」となります。動きの全ては「自分」を起源にしていると「刑事」は思っていますが「自分」のその動きが自然現象的に突発的に起こるならばそれは意図ではありません。つまり「自分」は白になります。

突発的でないのならば

「全ての動きにはそれを動かす動きが必要になる」この理論でいけば「自分」を動かす何かがなければ「自分」は動くことができません。自分を動かす何かが存在すれば、、その何かを動かす存在が必要になります。この流れは最終的にはビッグバンにたどり着くのです。時間軸で考えれば全ての行動はビッグバンから起こっています。被告、容疑者は「ビッグバン」です。そしてビッグバンを起こすにはやはり何かが必要になるのです。空でしょうか、、空からビッグバンが弾けるにしても、、その弾ける動きにも動きが必要になります。つまりこの理屈は構造上ありえないのです。

悟り

我々はいつの日か全部の動きの根源を「自我」と決めて「自我」が思考感情行動を生み出していると「想定」し生きることに決めたんです。ところが「自我の動きを動かす何かが必要になる」という事実からは逃れることができず、、この理論は破綻しています。ですがそれでも今人間業界は「自我」ありき「自由意思」ありきで回っています。悟りとはこの事実を「理解」することです。今事実を理解できた時「自分」とは所詮お飾りで実は何もしていないことに気づきます。すると普段の人間関係が一変します。誰かを責める、誰かを恨む、誰かを羨むがなくなります。そして自分を責める自分を憂う自分を誇る自分を、、、無くなるのです。だって何もしていないのだから。

お箸を持ち上げる

ただこれだけで

「自由意思」がないことをこの例え話で一瞬で理解できます。「お箸」を持ち上げます、お箸を持ち上げるには持ち上げる「腕」が必要になります。では腕を上げる動きには何が必要になるか???「脳」です。では脳を起動するには何が必要になるか????「電気信号」です。では「電気信号」を動かすには何が必要になるか????「細胞」です。では「細胞」を動かすには?????何は必要になるか??????この世界では「何か」アクションを起こすにはそのアクションを起こす大元が必要になり、その大元の動きを起こすにはさらにその大元の動きが必要になります。「自分」が自由意志を作り出すには、、「自分が自由意志を作り出す」ための動きが必要になるのです。

つまり

「自分」スタートで「何か」アクションを起こすことは構造上ありえないのです。この世界での自分とは「思考」「行動」「感情」を生み出す存在ということになっていますが、、その『「私」が「生み出す」』動きを起こす動きが必要になるのです。つまり「自分」スタートというのは不可能であり、よって「全部を起こす自分」という役割は嘘です。自我とはつまり嘘なんです。「アクションの根源=自我」という大前提は嘘です。自我も嘘ならば自由意志も嘘なのです。

それでも

それでも「自分がお箸を持ち上げた」という実感が湧くのは、、「自分がお箸を持ち上げた」という実感こそが勝手に起こったからです。100%お箸を持ち上げることを決め持ち上げる行為を起こした「自分」は存在しませんが、、、、「私がお箸を持ち上げた」という感覚が起こりそれが認識されるということは起こり得ます。この感覚が勝手に起こることから、、「自我も自由意志もある」という認識が生まれるのです、勝手に。

悟り

この世界は本当に面白いのです。小学生でも理解できてしまう「自我」の嘘を80億人全員が信じて今暮らしています。法律の全ては「自由意思ありきで制定」されています。社会の人間関係の全ては「自由意思」が前提になっているのです。ところが構造上は100%アクションを起こす「自分」は存在できません。この認識の勘違いを改めることができる時人生が180度変わります。責める自分も居ないし相手も居ない、、反省すべき自分も居なければ相手もいない「加害者」「被害者」がこの世界から消えます。

自由意思と物質世界

崩れる

犯罪行為か過失かの違いは「自由意思」です。故意であった場合、、、犯罪となり、、故意でなかった場合は過失です、つまり事故です。この二つはとんでもなく大きな分かれ道です。この人間業界は「自由意思がある」という認識を採用していますが実はこの仕組みは不可能です。不可能にも関わらずなぜ「自由意思がある」を共通認識にできるかと言えば「自由意志があると思える」からです。構造上不可能だろうと「ある」と全人類が認識できるから採用しているのです。ですが構造上は不可能なのです。

幻想

幻想とはあるように100%感じることができるが実際には100%ないものです。自由意志とは100%あるように見えるが100%実際にはないものです、つまり幻想です。物質世界も100%あるように感じることができるが100%実際にはないもの、つまり幻想なのです。この認識の上で人間社会を生きるとどうなるか?????「楽」です。周囲は人間業界の常識「自由意志と物質世界」を信じて生きていますが、、悟り人はそれが真実ではないことを分かって人間業界に合わせます。

パニック

人間の恐怖というのは結局のところ、、、「人を信用できない」ところにあります。いつ会社が潰れてしまうのかわからない、いつクライアントから受注が途切れるかわからない、いつ奥さんから離婚を申し出されるか分からない、、いつ子供が家を出てってしまうか分からない、、、なぜならば人間は常には信用できる存在ではないから。。ところが悟り人は「そもそも自由意志がない」ことを知っていますから信用とか信用できないとかの域では生きていないのです。だからパニックがない。

悟り

悟りとは「人間業界に歯向かって生きる」ことでは全くありません。人間が信じることが実は嘘であることを分かって合わせることです。自由意志も物質世界も100%存在しないが「存在している」という雰囲気で生きることです。その時こちらには余裕があります、パニックにならない、パニックになれない余裕があるのです。多くの方は本当はもしかして「自由意志も物質世界もないのかも」と思いながら「自由意思と物質世界」を信じて生きています。悟り人は「本当は自由意思も物質世界もない」と分かって「自由意志と物質世界」ありきで生きます。

構造上不可能

自由意思、物質世界

自由意思と物質世界は構造上成立不可能です。この二つは絶対に成立不可能なのです。にも関わらず100パーセントあるようの感じることができる世界、それがこの現実と呼ばれる二元性の世界です。絶対に絶対に成立不可能だが、、実際にあるように感じれる世界です。砂漠の上の水たまりは100パーセント存在不可能です、ですがあるように100%見える、それが蜃気楼です。

自由意思

自由意志がなぜ構造上成立不可能かと言えば、、マックに行こう!!!という思考を起こすことができるとすれば、、そのマックに行こう!という思考を起こすための原因が必要になります。何もないところから急に「マックに行こう!!」が生まれていないとするのならば。すると、、その原因は脳内細胞としましょう。ではその脳内細胞を起動させた原因が必要になります。もしも脳内細胞が突然起こったのならば「自由意思」ではなくなってしまいます。そこでこの原因は何だ???となり、、それは脳脊髄液だ!!!となれば、、、その動きを起こした原因は何だ???となります。この世界では「そうだマックに行こう!!」という自由意志を起こすには無限の原因が必要になってしまうのです。

悟り

悟りとは「人間業界でどのような常識を採用していようとも」真実に戻ることです。自由意思、物質世界はこの人間業界では「常識」です。ですが真実では絶対にこれは存在しません。絶対に存在しないことを実感して「人間業界の常識」に寄り添います。その時とんでもない余裕が生まれます、ムキにならない余裕が生まれます。深刻にならない余裕が生まれるのです。「故意に車をぶつけられたように見えた事故現場」で、、、相手への怒りが半減します、その故意は自由意志ではないのです。

自己中心的

本当の

実は実は自己中心的な生き方が「悟り」です。究極の自己中心的な生き方が「悟り」です。自分のことばかり考えていて酷い、これが世間で言う人間業界でいう自己中心的な生き方です。そんなもんじゃいないんです、そんな中途半端な感じじゃないんです。「いまここ以外存在しない」という真実に沿った自己中です。いまここしか存在しないのだから「考えるだけ無駄」というぐらいの割り切りです。地球の裏側には今も今日のご飯が食べれない子供たちが、、、、、、「存在しません、終わり」、、、、超自己中心的、冷酷、残忍、、、、、でも真実です。

会社

「あなたに急に辞められたら会社が潰れます!!!だからせめて来年までは辞めないでください。」大丈夫です、私が会社を辞めて会社に行かなければこの会社は存在しなくなるので。。。。。アベシ、ヒデブー、、、超自己中心的を通り越してもはや人間じゃない!!!!、、、、、ですがですが真実です。そうです、、真実をベースにした発言生き方は「超超超自己中」に映るかもしれない、、、、極悪非道に映るかもしれない、、、周囲から。ですがですが、、、、、真実はそうなっています。

残酷ではない

周囲から何を言われてもどこまで非難されても「実際に被害を受ける人が居ない」のですからこれは全く卑劣でも冷酷でも極悪でもないのです。被害者が皆無なので。「いまここ」以外で被害者が生まれることは不可能なのです。あなたが会社を辞めて家に居る時「辞められた会社はこの世界に存在しない」のです。「迷惑被る同僚は存在しない」のです。だからだから全く自己中心的ですらない、、、、のです。自己中心的というのは被害者が居て成り立つのですが、、その被害者が存在しない時、それはただの自由です。

悟り

真実をベースにした発想は「人間業界の常識」からすると危険です。超危険。ですが実際にはこの行動は「余裕」を作ります、半端なく無理が無くなるのです。会社のことを一ミリも心配しないことで心に余裕が生まれ結果優しくなれます、逆にしっかりと寄り添えるのです。例えば会社を辞める際も「病気」として辞める気遣いが生まれます。表面上はトラブルにならないような工夫ができるのです。だから結果的には自己中心的な発言、行動には映らない可能性が高くなります。悟りとは真実を捉え、、余裕を作り出し、結果人間業界に寄り添う余裕すらを作ることです。

救うべき人????

居ない

死んだらこの世界は消えてなくなります。この体が息絶えれば全世界が一瞬で消えてなくなります。これが真実です。そのような状況の中で救うべき人っていますか?????居るわけがないのです。この体が交通事故で跳ねられて、、死んだ時に、、一瞬でこの世界が消えてなくなるならば、、、救うべき人なんて居るわけがないのです。全世界がこの体の事故で無くなってしまういじょう、、この体の心配だけしていればいいのです。

毎日毎日

TVを観れば、、毎日困った人々が現れなんとかしなければと社会問題化されます。今日の困った人々、、です。薬剤問題、医療事故、災害、経済不況、倒産、、、、きりがない、、多分この体が死ぬまで毎日やっている。。。何万人、何十万人、何億人救えばいいのか?????無理、不可能、、、放っておきましょう。でも本当に不思議なことに、、気楽に気楽に生きていると、、目の前の困った人に会えば、、笑顔で救ってあげれます。笑顔で食べ物を差し出すことができます。

冷徹ではない

いまここ以外では本当に本当に何も起こっていないのです。いまここ、、この視界の外では本当に何も起こってもおらずさらにこの体が死ねば全部が消し飛びます。だから心配する方が難しいのです。あの公園のホームレスの人は今日寒くないのか??????大丈夫、、大丈夫、、だっていまここに居ないのならば存在していませんから。心配しないでください無駄ですから。これは冷徹とかの話ではないんです、存在していないのですから。

この体

この体は一番多く登場します。一番頻繁に登場します。そして体調が悪ければ面白くない、だからこの体の体調を気にしてあげてください。。そしてこの世界のこの体以外の心配はしなくていい、、ほとんどの時間存在すらしていません。私だけこんなに元気でお金もあってなんか罪悪感が、、、残念!!!!居ないんです、ここに居ない人は。だからこの体を安全安心に守るためのお金と部屋、食事を用意するだけでいいのです。

悟り

悟りとは「真実」に戻ることです。人間業界では「いまここ」以外にもしっかりと世界が広がっているという大前提で物事を推し進めていますが、これは勘違いです。勘違いをベースに心配し奮闘し苦しみ生きています。それはそれで面白いのですが「真実」はそうなっていないのです。そこに立ち戻った時思考行動感情が変わります。もう無駄な心配不安が消えるのです。

死んだ後はどうなっちゃうの????

どうでもいい

我々とは「いまここ」です。我々とは「この体」ではなく「この体の中の私」でもなく「いまここ」です。主人公は「いまここ」であって「この体」も「この私」も「いまここ」にたまに現れ出る登場人物に過ぎません。だから「死んだ後」に人生が仮にあっても「いまここ」です。「いまここ」はこの体のことではないです、この見える景色、聞こえる音、感じる風、、この感覚だけです。

どうなっちゃう??とはこの体この私の心配

死んだら「私」はどうなちゃうの?????の「私」ってこの体の中の「私」と呼ばれる存在のことですよね?????本当の私って「いまここ」のことです。だから「いまここ」に現れる「私」は体が消えた後に残ろうが残らまいが、、、「いまここ」に現れる幻想でしかないことには変わりはないのです。主人公がそもそも違うのです。人間業界の「私」とは幻想のことを指し、、これは現れて消える存在です。本当の私は「いまここ」であって、、この「いまここ」はこの体という幻想が消えれば消えます。

意識

ですが「いまここ」を認識する「意識」これが消えることはありません。「意識」とは現象が起こる世界「いまここ」が存在する限り残るのです。そしてこの現象が無くなってしまうことは絶対に絶対にないのです。なぜならばこの現象とは空『真の自分』の投影であり、、この投影が無ければ空は完成しない。よって投影は常に常に存在するのです。だから『この体「いまここ」』が無くなっても「いまここ」自体が消え失せることはないのです。

悟り

「死んじゃったらどうなっちゃうの????」の前に死ぬ前の認識が変わるとこの質問自体が出なくなります。この体の中の私は死後が心配で心配で心配で怖いのです。ですがこの体という幻想が消えればいまここの幻想全てが消えますから「私」という幻想も消えてなくなります。まーだから怖いわけです。ですが我々はこの「私という幻想」では断じてないので全くもって問題がないわけです。本当の私とはこの体という幻想を含みこの体の中の「私」という幻想を含む「いまここ」であり、、それを認識する「意識」であり、、そして「いまここ」という空の幻影を作り出す「空」です。だからこの体という幻想が消えてもこの私という幻想が消えてもいまここという幻想が消えても何も問題なく存在し続けるのです。