自由意志がないという瞑想

完全な瞑想

自由意志がないという事実を理解することはそのまま瞑想になります。ここからでてくる思考を観察者として眺めることができるのです。何がここから出てくるだろうか???という観点になって思考を眺めることができます。実際にそのようにしますと「ここから出る思考」は面白いとなります。今日はこんな思考が沸いたな、明日はどんな思考が湧くのだろう???という観点です。まるで他人事です、、ですが一方でこれを観察する視座は究極の愛です。

他人事で完璧

この体から湧く思考、行動、感情をまるで他人事として観察する視座を持つことは、、、究極の安らぎの中でこれを見守れるようになります。すると他人周囲の発言、行動に対しても究極の愛でこれを見守れるようになるのです。誰も彼も自由意志で思考し行動していないのです。完全な自動運転自動操縦です。それを究極の視座で観察します。これは虚無主義でしょうか???違います、軽いんです、軽いから好き勝手な思考感情行動がここから起きます、それを楽しみます。

一人無双

結局のところ人間は自分を責めるか他人を責めるかして人生の多くの時間を無駄にします。自分を責めて落ち込み、人を責めて怒りに狂う、、自分の行動に悩み、人の行動に悩みます。ですが真実を理解すればそれは不可能なんです。誰も彼も自身の行動意思感情をコントロールできないのです。これが分かってどうやって人を責めれますか???どうやって自分を責めれるのか????どうやって悩めるのか????という話です。これが一人無双です。敵が居ない、自分も敵にならない、、、完全無双です。

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