喋りたがらない
過去というのは、、振り返ってみて「私」はあの時こうしていた、、というイメージのことです。見かけ上の覚者が過去を振り返りたがらないのは当然で過去とは勘違いをベースにした思考でしかないからです。聞く人々は覚者の過去をヒントに自身の人生に応用しようと考えますが、、その動機は完全に的外れであり、、逆にイメージの世界を強化します。本当はただ五感だけがあって五感によってこの世界、この体が今作られます、幻想として。そのことに気づいた時、、この体の中に私が居て、、、というイメージ、幻想が全て嘘であったという気づ気を得るのです。
私が道を歩いていた途中で
私が道を歩いていた途中で突然、、世界は一つだったと気づいたんです。。この話はあっていいんです、、問題ないです。ですがこれを聞いた人々は、、、この私が悟りを開いたという新しい勘違いを覚えるでしょう。真実は五感がこの世界この体を作り出していたという気づきの中で、、ならば世界はたった一つであるという気づきに至るのです。この世界この体が今五感によって作り出されていることに気づいた時、自分が消え去り、、世界が一つに感じる、が起こるのです。
主語としての「私」
人間業界では主語としての「私」を譲る気持ちは全くありません。悟るのも「私」であり悟れないのも「私」です。ここが不幸であろうと幸福であろうと主語の「私」を手放す気はさらさらないのです。主語としての「私」を手放すぐらいならば不幸でいい、、その覚悟です。ですが真実では主語である「私」の世界は全部嘘、幻想、幻、ストーリーです。主語で在る「私」は本当は何もしていないし何も考えてもいない、、お飾り仮装人物です。