この体は幻想だがこの体がなくてはこの世界はない

この体は100%幻

この体は100%幻です。幻影です、投影です。ですからこの体が消えようと大元(空)は痛くも痒くもない、、何一つダメージを受けません。ですが同時にこの世界、今現れでるこの世界の全てはこの体が消滅すれば消滅します。つまりこの体がこの世界を作っていると言っても全く過言じゃないのです。そう意味ではこの体はこの世界全体と同価値です。この体=この世界です。

大切にしないといけない?????

この事実を聞いて「大切にしよう」「体を労ろう」という思考が湧くのはある意味当然です。ただそれだけで「大切にしないといけない」という話ではありません。そこには意味は一切ないのです。ただこの体=この世界です。宇宙は無限の現れなので「この体のある世界」が消え去っても無限の可能性はあります。だから無限なのです。そういう意味ではこの世界には価値はないのです。

尊厳と謙遜

この体がなければこの世界は消滅するのですからこの体はこの世界の王です。とんでもないことです。だから偉大です。と同時にこの体この世界が消え去っても大元(空)は何一つダメージを受けません。そう言う意味ではこの体は無価値です。全く威張れない存在です。偉大さと無価値さを同時に兼ね備えた存在がこの体です。威厳と謙遜この二つが同時に現れでます。

動物園

帰りにモヤつく????

動物園に行った帰り道、、「あの象は愛想が悪いよなー」「あの蛇はなんでいつも寝てるんだよ」「あの鳥はなんで巣から出てこないんだ」そういった思考感情が湧いてきません。なぜか????それは動物の中に行動をコントロールできる「誰か」が存在しないことを知っているからです。だから動物に対して批判判断が起こらないのです。

人間

我々は「人間は自由意志があって行動を管理できる」と信じているので、、批判判断が止まることがありません。一日中、一年中判断判断判断の連続です。人生の80年間の半分を「判断」に費やしていると言っても過言じゃないぐらいです。思考が湧いたら是非観察してみてください「判断判断判断」が起こっているはずです。ですが実は実は人間も動物と全く同じで「行動をコントロールできる誰か」が存在しません。つまり判断する、、、ということは完全に意味ないのです。

判断が消える

判断しない人生なんて逆に深みがないんじゃないですか?????淡白すぎてつまんない人生に感じますけど?????今そういう思考が勝手に勝手に起こったんです。そしてそれによって「苦しみ」が湧きました。判断しないことで苦しみが消えた時「小さい子供」みたいにフル回転でこの世界を遊べるようになります。

男の人を信用してはいけません

そう教育されて育てば

男性に親切にされれば「怪しい」「裏がありそう」という思考が起こり「不快感」が起こります。男性に食事を奢ってもらえば「何か期待しているに違いない」という思考が起こり「不快感」が起こります。男性の行動に対して「思考」が湧き上がり「感情」が起こるのです。この湧いてくる思考の内容こそが「苦しみ」を生み出します。逆に言えば「思考内容」が「真実を指し示す内容」ならば「違和感」「不快感」が起こらないのです。

トラブル

トラブルに巻き込まれれば絶対に不快感は湧きますよね?????湧きません、トラブル自体はそれが起こっただけです、、、それに対する「解釈」が不快感を生み出すかどうかが決まるのです。「解釈」が湧けば不快感が起こります。「解釈」ではなく「真実を指し示す内容」であれば不快感が湧きません。だからどこまでいっても湧いてくる「思考内容」が全てなのです。

真実

真実とは、、、全現象は全現象が起こるがままに全て起こる、、ということです。全現象をコントロールできる誰かはこの世界には一切存在せず、、完全完璧に全てが勝手に起こります。だからそれを判断するという行為は無駄です。空からの現れにコントロールはないのです。「注文が間違っていたら????」ただそれをスタッフに伝えます。すると自動反射で「正しい注文料理」が届けられます。お釣りを間違えられたら?????それを伝えます、相手の自動反射にこちらが感情的に文句を言うのはありえないのです。なぜならばそれは勝手に起こったからです。

全自動に委ねる

究極の安堵

飲食店に入ります。店員さんから声がかかります「いらっしゃいませ」この発言が全自動であると認識できますと、、反応が完全完璧なことが分かります。お店に入れば当たり前にBGMが流れています。このBGMは一曲づつ流れるのであり一斉に10曲が流れ出ることがない、、これ当たり前だと思っていますが、、奇跡です。必ず一曲ずつなんです。さらに店員さんが「有難うございました」ではなく「いらっしゃいませ」が発せられる、全自動でです。いきなりトイレに誘導されることもなく席に誘導される、、これが全自動だと思えばどうですか????完璧ですよね。

ビールを頼む

ビールを頼めば「中華飯」が出ることはなく「ビール」がでてきます。「烏龍茶」を出してきて「ビールです」とは言ってこないのです。これが全自動です。奇跡です。男性用トイレに入ったら女性用だった、、もない。三階の店に入ったら帰りは二階だったもない、、これぞ完全完璧な幻想なのです。この幻想はとんでもないクオリティで形成されています。ミスがないのです、これが完璧です。

隣の客

隣の客同士が話し合っています、会話が聞こえます。。。しっかりと会話のキャッチボールをしています。二人が同時に話すのではなくキャッチボールが起こっています、これが全部自動反射、自動運転です。奇跡です。その体の中にコントロールする自我が存在しないにも関わらず完璧に反射が起こっているのです。奇跡です。

内容

隣のお客さんの会話が本当に低レベルで、、、、と批判判断するのもいいでしょう。ですがそれが勝手に勝手に起こっているのですから判断する意味が全くないのです。ただ完全自動で行われているだけです。何一つ努力なしに、、勝手に会話が起こっているのです。それを判断するって無意味中の無意味です。

分かったとて

それが分かって何になるんですか?????判断が湧いてきません、相手の表情、店の対応、店の味、何もかもに判断が起こらなくなっていきます。なぜならば何の意思もなくそれが起こっているからです。そしてその意志があってもその意思も勝手に起こりました。だからそこに入り込む隙が全くないのです。その時ここから出てくる思考内容が変わります。

思考内容

思考内容が変わると、、起こる感情が変わってきます、、苦しみが減っていきます。これまで苦しかったのは「思考内容」がそうさせていたのです。お店の対応が「苦しい」を作ったのではなく「それに対する思考内容」が苦しみを作り出したのです。つまり出てくる思考内容が変われば「苦しみ」が減るのです。そして「思考内容」がどう変わるのか?????「判断」が消えます。全自動であることが分かると「判断」が消えます。そしてその判断は常に自分から対象に向かっていますから「苦しみ」が起こるのです。

海外

海外ではチップ制のところがありますが、、それを知らずに行くとしましょう。車に乗ればドアを開けてくれ、レストランに入れば「椅子を引いてくれる」チップ制を知らない男性は思わず「親切だなー」という思考が起こる、、、その時「苦しみ」が起こりません。つまり湧いてくる思考内容こそが「苦しみ」を生み出す大元なのです。真実の理解が起こりますと「違和感」が起こりません。なぜ?????が起こらない。つまり苦しみが消えるのです。

時間の中での因果はない

時間こそが今創造されたのだ

時間という幻想は実はありません、時間という幻想が「空から現象化」されてボコっと現れることはありません。「時間ってあるよね!!!!!」という思考はボコっと現れたんです。その瞬間だけ「時間というイメージ」が現れます。花のようにこの世界に幻としては現れません。「木」のように「鳥」のようにこの世界にボコっとは現れないんです。「時間」という幻がこの世界に現れるのではなく「時間ってあるじゃん!!!」という思考だけが幻として現れます。

五分遅刻した

友人が待ち合わせ場所に来ません、、五分後ようやくその友人が現れました。五分間という時間が現れたんではないんです、、、「五分という時間」という幻がボコっと現れたんではないのです。「〇〇さんが五分遅れたな」という思考が起こっただけです。時間という幻はこの世界に現れることは一切なく「時間がある」という思考の幻が現れるのです。

1時間の遅刻

友人が次の日に1時間遅刻をしました。半端なく苦痛の待ち時間を過ごした私は「1時間を半端なく感じたんです」ですがこの世界に「時間」という幻は出現しません。待つという行為が続くことで「1時間が過ぎた」という思考は湧いたのです。この思考は幻、幻影、現象です。

時間が先ずはあって????

時間という幻が先ずはあってその中で我々は人間活動をしている、、というのは嘘の思考です。今思考として「時間がある」と思考した時だけ時間は生まれます。時間は「思考の中身」でしかこの世界には登場できないのです。だから「私はこの世界に40年前に生まれ育ち今東京で暮らしている」というのは「思考の中身」であってそのような「幻想、幻影、現象」は実は起こっていません。「私はこの世界に40年前に生まれ育ち今東京で暮らしている」というのは事実ではなく「その内容の思考が起こった」この幻、幻影、現象が起こっただけです。この「内容の思考」が起こったことで、、、「それは事実だ」という思考が起こるのです。ですがそのような幻は一切この世界には起こっていないので「違和感」という感情が起こるのです。

思考の中身

私たちはいつしか「思考の中身」を真実と捉える動きが起こり「思考の中身でしかない」という事実を忘れているのです。これを夢といいます、、「夢とは真実ではないことを真実と捉える」ことです。もう一度説明します。「この世界に10年前に私は生まれ今幸せに暮らしている」というのは「思考の内容」です。真実では「時間はこの世界には幻として現れない」のです。時間が存在しないのですから「私も私の人生も全部」幻としては現れていません。幻として現れていない「私の人生」を「幻として現れている」と勘違いすることを「夢」と呼びます。「私の人生」は幻として一度もこの世界には現れていません。思考以外でこの世界には一度も現れていないこの「マイストーリー」「私物語」を夢と気づくことを目覚める、解放、悟りと呼びます。

花という現象は間違いなくこの世界に起こります、鳥も、この体も、椅子も太陽も、、この世界に幻として現象として起こります。ですが「私の人生」は一回たりともこの世界に起こったことがないのです。「私という存在」は時間が無ければ当然存在できないわけです。過去というのがあって初めて「自分」は生まれます。ですこの時間が本当は幻として存在しないのです。時間も存在しない、だから私も居ない、だから私の人生も幻として存在しないのです。

あなたは居る絶対に

友人にこの話をすれば「あなたは絶対に存在する、なぜならば私がそれを感じているからだ」と反論を受けるでしょう。ですがその友人は100%時間は存在すると信じています。だから過去に遡って「あなたは居る」と言い張るのです。この言い張る大前提が「時間」があると信じているからこそ起こるのです。ですが何度も何度も説明しますがその「時間」は幻として一度もこの世界に現れたことがなく「思考の中身」としてしかここに現れたことがないのです。

ベンツSクラスを手に入れた

画像

念願だったベンツSクラスを私が手に入れます、、、何が起こったか解説しましょう。「ベンツSクラスという最上級の価値ある車」という幻を『起業して10年寝る時間も惜しんで走り続けてきた「私」という幻」が手に入れたという幻劇が完成した、、、これだけです。これだけが起こりました。幻劇の完成、、その時涙が溢れ安堵し「やったぞ!!!!」が起こり安らかに眠ります。この幻劇を観ているのは誰ですか???????「私」も劇中の幻ですから「私」は見れませんよ、絶対。スクリーンです、、「スクリーンの私」が観たんです、この劇を、、、だから涙が溢れ、感動し、震えながら寝たんです。。。

次の日

既に「ベンツSクラスを手に入れた私」は観終わっています、、、次の日も感動しよう!!!!とまた「ベンツSクラスを紛れもなく手に入れた私」という幻劇を観ます、、ですがあれ?????泣けない、、どうしても泣けない、、、感動があと一歩足りない、、、、。一週間後「タワーマンション最上階を手に入れよう」が起こります。「タワーマンション最上階を手に入れる私」という幻劇がスタートします。なぜならば「ベンツSクラスを手に入れた私」という幻劇ではもう泣けないことが判明したからです。

誰が観ている?

当たり前の当たり前ですが「私が何かを手に入れた」という幻劇で喜べ泣け幸福になれるのは、、、、一回だけです。二回目では既に泣けない、、面白いとは思えても感動は半減します。映画タイタニックで泣けるのはせいぜい3回まで、、四回目からは苦痛でしかない。私劇場も全く同じです。これを釈迦は見抜き「人生とは苦」であると説きました。

全く新しい感動

では全く新しい感動の仕方をお伝えしましょう。スクリーンであるという完全自覚で「私」をやります。「私劇場」をスクリーンとして完全にやりきるのです。スクリーンです、、私は。。。。でその前提で「私劇場」をやるんです。高級マンション、高級自動車、高級バッグ、高級愛人、高級パートナー全部手にれたところでスクリーンの私はもう飽き飽きしています、その自覚を持ってやるんです。すると、、、全く違う感動が湧いてくる、、登場人物A、適役人物B、トラブルメーカー役C、脇役Dに半端ない愛情が芽生えてきます。いやーこの役いい味出してくんなー、、、です。あの人の裏切り劇は半端なくよかった、、が起こります。今回の私の三倍返しは滅多に見れないぞ、、という感動が起こるんです。

売れるだけでいい

芸人

本当にそれだけでよかったんです、売れればそれで良かった、自分が信じる「笑い」が評価してもらえたら死んでもいい。。それだけでいいんだ。。。。だから毎日劇場に立ってくる日もくる日も芸を磨いてきた。。。「売れた」「完全に売れた」、、、、もう死んでもいい。。。。。。ところが次の年、、「売れたから女優と付き合いたい」「売れたから良い車でも乗ろうか」「売れたから後輩集めて飲み会やりたいな」が起こる。。。。「おかしい、、、売れさえすれば良かったはずなのに」また俺は次の目標に向かって走っている。。。。。

走っている自分

嘘じゃない、売れさえすれば死んでもいい、、、この感情に嘘はないのです。でも変わってしまった。。。。売れたら次の目標が起こってきた。。。。全くお腹満足じゃない、、しっかりと空腹感が起こっている。いいんです、これでいいのです。お腹いっぱいになるはずのこの「私」が実は幻だったということです。この私も、この私から生み出された「死んでもいい」も幻なのです。幻の宿命、幻とは「認識される側」「気づかれる側」「意織される側」です。

「私」も、「死んでもいい」も「認識される側」

多くの方は「私」が「幸福」になる、、、と信じています。ですがその「私」は主体になることは絶対に絶対になく「認識される側」です。だから「私は幸福になる」は事実では絶対に起こりません。私というのが欠陥品で幸福になれない不良品ということではありません。私という存在も「幻」であり「幻」とは認識される時だけ起こるものだからです。目の前の「ベンツSクラス」を認識しながら「私」も認識するは同時には無理なんです。「ベンツSクラスを手に入れた私」というイメージを認識することはできます。

そっちじゃない

ポケモンカード

ポケモンカードにはまります、、やっていくと「あのカードが欲しい」「このカードが欲しい」「あれも」「これも」が起こる。ポケモンカードを知らない人が見れば「ただのカード」ですが知っている人には「1億円」の価値が起こる。ポケモンカードの世界に入れば入るほどに「あれは最強カード」「あれは最弱カード」「あれはレアカード」「あれは非レアカード」となっていく。。知識が増えることでそこに「価値」が生まれその「価値」に1億円という値段が付きます。

比較比較比較

1億円のカードは超超超超レアカード、、、50円のカードは大量増産増産カード、、その違いは「数の多さ少なさ」以上。「このカードはあのカードの1億倍価値がある」を生み出したのは「比較」です。二つのカードを比較した結果として「価値」が生まれたのです。ではそのレアカードを世界中から集めた「私」は幸福になれますでしょうか????「高揚感」は起こるでしょう、夜興奮して眠れないかもしれない、、足が震えて叫んでしまうかもです。で????幸せになりますか?????

なれない

比較によって生み出された「価値」がその人を幸福にはできません。「レアカードを手に入れたいという」人参が取れるだけで、、、また次の日から違う「人参」に向かって走り出すでしょう。手に入れるべき「モノ」は幻想でありそれを追いかける私も「幻想」です。幻想が幻想を手に入れる時起こるのは「幻想を手に入れた幻想」という幻想です。でも次の日またこの「私」という幻想が浮かび上がり「不快感」解消のためにまた走り出すのです。

臨場感

トップスター

本当に本当に好きなミュージシャンに街でばったり会う、、、その時「カッコイイ!!!!」という実感が起こります。「半端なくカッコいい!!!」が起こって足が震え感動で息が詰まる。。。ですが横にいる友人、全くそのミュージシャンを知らない音楽を一切聞かないその友人は「どこが?????」が実感として湧きます。「何がカッコ良いの?????」です。二人のこの実感の違い、、これが臨場感です。

幻だから

なぜここまで感覚に違いがでるのでしょうか?????それはこれが全部幻だからです。完全な幻だから全く違う「存在」が二人には見えているのです。全く違う。なぜそれが起こるのか?????幻だからです。幻だから全く違う「視界」という幻が起こります。どちらが正しくてどちらが間違っているじゃない、、どちらも完璧な幻を観ているのです。

幻という完璧

重要なことはそれらが幻として完全完璧にそこに写っているということです。人にとっては大スターに映り、人によっては「ただのオッサン」に映る、、でもそのことが完全完璧なのです。大スターが映った「私」はそれによって一瞬は高揚はするが至福になるわけではなく「普通のオッサン」が映った友人もそれで全く至福にはならない。幻想をそれが幻想であると見抜くその時まで我々は一喜一憂の世界から抜け出せません。

一喜一憂

一喜一憂の世界にいる限り「不幸」と「高揚」をただただ繰り返します。この世界ではこの幻によって幸福になることは絶対になく、、、お金という幻も、大スタートいう幻も、大豪邸という幻も「高揚感」こそ起こっても至福には至らないのです。なぜか?????それは「私」という幻が幸福になると信じているからです。私という幻は「認識される側」であって「認識を起こす主体」にはなれません。これが幻の宿命です。高揚感を手に入れたのは「私という幻」ではありません。「高揚感」がただ起こったのです、そしてその認識だけが起こりました。

全幻、全認識

認識

この世界の特徴は「どんなにおかしな思考」も完全完璧に認識されるということです。完全完璧です。「私は世界の王様だ」という思考も完全完璧に認識されます。「私は誰からも愛されず生涯孤独だ」これも完全完璧に認識されます。「私は世界一才能に溢れている」これも認識されます。才能があるかないか事実は全く関係なく全ての思考は認識されます。だから人類全員で大大大勘違いをすることができます。

自由意志がある

この思い込みは、、完全に認識されます。人間とは私が居て自由意志がある、、これが完全完璧に認識されます。こう思い続けることができます。この事実を多くの方はまだ気づいていないのです。事実ではないことでも100パーセントの実感で思い続けることができます。勘違いを100%維持できるのです。この勘違いの量=人生の苦しみ、です。