自分だけ幸せになっていいんですか????

逆です

あなたしか幸福にはなれません。なぜか?????この世界このあなたの体が登場する世界は「あなたしか存在しません」なぜならばこの視界から消えてしまった人々はこの世界から消えてしまうからです。だから他人を幸福にするって絶対に絶対に不可能なんです。まさか相手のために24時間一緒に生活できませんよね????そうです。不可能なんです。

自分は幸せになっていいんですよね????

その通りです。ですがこの体も実を言うと視界から消えた時存在していません。あなたが外を眺めたその瞬間実はこの体も消えています。ですから厳密に言えば「この体=私」とするならば私は絶対に幸福にはなれないのです。現れては消えていく存在この体である私を幸福にするって不可能です。外を見るたびに消えるんですから。ではでは誰が幸せになれるんですか???誰もなれません、誰もなれないんだから先ず他人の幸福を願うって無理ゲーです、私すら幸福になれないのですから。

ところが

そのことを腹の底から理解できてきますと「あれ、おかしい、穏やかで安らぐんです、、、」幸せにならなくてはならない個人は誰も居ないと気づくと、、まさかの安らぎが芽生えてきます。社会問題、政治問題????いやいやこの視界から外れたらその人は存在できないのです。なぜそこを深刻に捉えれるのか????この私ですらその影響を受けれないのですから。

誰も何も影響を受けていなかった

この視界が全てです。その時この体も他人の体も現れては消えていきます。だから救いようがない。そのリアルな気づきが、、本当の癒しになります。何からも守るべき存在が居ないのです。現れては消えるこの体と共に「今やりたいこと」をやってしまっても誰にも迷惑をかけることができない。その証拠にやってみてください、そして「何か言われたら着信拒否に」するともう現れませんよ。

認識が経験を変える

ノンデュアリティの認識

悟るとなぜ感覚が変わるのでしょうか????いまここは何も変わらないにも関わらずなぜ?????簡単です、認識の転換は経験の転換だからです。「あなたはニューヨークビルの所有者」こう嘘をつかれても信じ込めば「経験」が変わります。就職難の情報????全く気にもならない、、友人の就職成功、、どうでもいい。。完全に経験が変わっています。悟りとは今ここで何が起こっているかの認識の転換です。つまり経験の転換です。

疲れたサラリーマン

かつては疲れ果てたサラリーマンを見れば「ああなってはいけない」「だから頑張らなくては」と危機感が起こっていた。今はその全てが自動運転、どうにもこうにもそこには選択肢はない。。そして見える彼らに感情が本当に起こっているかは疑わしい。。と思っています。だから何の感情を湧かない。ただそのような様子があえるだけ、、になりました。

慈悲

全員が全員勝手にやらされている、、という理解は、、なんとも言えない共有感でもあります。ただ感情が思考が起こるこの世界、この現象界に現れた人々。現れては消えていくこの人々は二度と見ない人ばかり。このことが実は面白い、切ない、なんとも言えない感情が湧きます。そこには優越感なんてものはなく、、皆それぞれの役を演じている。そこに慈しみを感じます。その慈しみは個人から個人に対してではなく、ただそれになるのです。都会の喧騒でただそれになります。

これからは

こういう風に「考えて」生きていきます

今まで様々に「考えて」生きてきて「苦しみの世界」に入り込みました。これからは「こう考えて」生きていっても同じです。ノンデュアリティ は「考え方」の学問ではありません。ノンデュアリティ とは真実そのものです。そしてこの真実そのものは「考え方」ではないので「認識」が起こりません。丸暗記しようにも「認識」が起こらないのです。

それでも

学んでも認識は起こらない、、では考え方として捉えても無駄、、じゃあ一体全体どうしろと????認識が直ぐには起こりはしないがそれでも触れ続け浴び続けていけばいつかは「認識」が起こるというスタンスです。これは考え方の学びではない、、かといって認識が起こらなければ実感は湧かない。このことを自覚して取り組むのです。

仲間に入れて

中学生が

中学生が、、小学生の群れの中に入れて欲しいな、、、、って思わないですよね?????高校生が小学生の遊びに混ぜて欲しい????ないです。なぜ????楽しいの感覚が異なるからです。他己責任から自己責任で生きていきますと「エネルギーの自分への集中」が起こり、、人生が楽になります。その時「楽しい」も変わります。人生の中での楽しいが変わっちゃいます。その時「他己責任」をやっている人とは話が合わなくなります。

自己責任から無責任

自己責任は「楽だし結果も出る」だからもっともっとが多くなります、つまりエゴイスティックになっていく。もっと違う景色が見えるかももっと大きな家にもっともっとです。この終わることない夢はいつまで続くのだ???です。そしてそして「自己責任」すらなかったことに気づきます。他人にも責任は一切ないし自分にも責任は一切ないという境地に至ります。

自分すらも

自分すらも勝手に勝手に行動や思考が起こっていたんだ、、、という気づきが起こります。すると他人は勿論責めることはできませんし自分も責めることができません。つまりこの世界には責めるべき誰かは全く居ないという真実に行きついてしまうのです。これが解放です。これが目覚めです、、実は誰も居なかったという気づきです。すると世界は全部幻想で世界は一つなんだという気づきのドミノが倒れてきます。全てが幻想ならば時間もないし空間もない、、空即是色、色即是空だけ。という気づきです。

分かってくると

あれ????

分かってきちゃいますと「音楽ってこんなに綺麗だったっけ???」「景色ってこんなに輝いてたっけ???」「料理ってこんなに美味しかったっけ???」「お酒飲むってこんなに楽しかったっけ???」と気づきの連鎖が起こってきます。「あれ???」です。でも全く驚かないのは、、本当はそうだったよね。。。という懐かしい感じ、、、いや違う、、この感覚を疑うという感覚が起こらないのです。

山の霧が晴れて

山の霧が晴れて、、壮大な山が聳え立つ時、、その景色を見て「疑い」って起こりますか????起きませんよね。それです、、凄い景色はハッキリとあるにもかかわらず同時によれを疑うが起こらないのです。催眠術から解けた時に「あれ俺って今催眠術かけられたかも」は起こらない。。。今までが催眠をかけられていたという揺るぎない感覚が起こります。

夢から覚めた時に

今まで夢を見ていた!!!という気づきが起こります。ですが同時にこっちが夢か????はない。目覚めた後の景色を夢では????とはならない。。なぜでしょうか????なぜ????不思議ですよね。。そうです、不思議なんですが疑いがないのです。疑うことがないから悟り、目覚めなんです。今までこそが夢だったという揺るぎない気づきです。

なぜ???そのファッション

関西のおばちゃん

TV番組で関西人に聞きました!みたいなやつに出てくる関西のおばちゃん「ヒョウ柄」「チーター柄」などなど不思議なファッションが目につきます。この不思議なファッション本人が意識的にやっていると思います。間違いなく勝手にそこに手が行き勝手にそれを気に入り勝手にそれに決めたんです。ブレスト?????やっていない間違いなく。

ピーコのファッションチェック

ピーコのファッションチェックコーナー、、ピーコが道行く人々をメッタ切りにするコーナーです。なぜ????この服にこれを合わせた????がピーコから続出しますが、、やっていない、、皆勝手にそれを選ばされ勝手にそうなったんです。何もかもが勝手に自然にそうなったのです。だけどピーコはそう思っていない「なぜ????」「なぜ?????」「なんで?????」が頭から続出している。

誰も何も決めていない

誰も何も決めていないという気づきはこの世界を「エンタメ」に変えます。滅茶苦茶軽いんです。全くもって軽いのです。だって全員が全員無責任に全てを決めている気になっているだけだからです。そして本当は誰も何も決めていないのです。この気楽さに慣れてきますと、、本当にお気楽人生が始まります。重い重い顔をして生きている人を見ても「それもやらされている」のです。全てが吉本新喜劇、喜劇です。

諦める

決めてない

ギャンブラーの引き際、、どのタイミングで損切りするか。。これが最重要と言われていますが、、、、いつ決めますか????どこで引くのか????1万円、2万円、3万円、、、10万円、20万円、、、負け続けた場合、、ここで引いたら負け確定。だから引けない、、でも引かなかったら借金地獄です。私はここで引いた、、あの人はここまで、、、この引き際を思考を練り回してブレスとして、、やっていない。。もしもやっていてもその思考が勝手に湧いただけ。

就職活動

受けようと思えば何社でも受けれる、、ですが、、ですが、、、全員が全員その人のタイミングで諦めている、、、ま、この会社でいいや、、、が起こる。完全希望通りに入れました、、は1%でしょう。だからほとんどの人はどこかで折り合いをつけている。。どこで折り合いを付けるか?????決めていない、、間違いなく全員が全員、、ここでいいや、、が湧いてきて決めています。

誰も何も決めていない

そうです、誰も何も決めていないのです。勝手にそこに収まっている。。。収まるとこのこれまでも完全に収まっていたのです。そして諦めないという思考が勝手に湧き上がり勝手に次のアクションが起こっています。人間は完全全自動でやっています、、早くそこに気づこうと気づかまいとそうなっています。そしてそこに気づくと「勘違いの思考」が起こらなくなりただ楽になります。

認識が起こらない

ノンデュアリティ

ノンデュアリティ のメッセージは認識が起こりません。メッセージを読んでいて「それそれ」が起こらない。認識がそのまま起こらないぐらいに「誤解が認識されている」のです。一神教の強烈な信者の方に「その神様実は居ませんよ」なんてメッセージを送っても認識は起こりません。いくらこちらが理路整然と伝えたところで不可能です。理解が起こらないのです。まさにこれです、、悟り、ノンデュアリティのメッセージは究極過ぎて認識が起こらないのです。

起こらなくても

認識が起きようと起こらまいと、、、真実はたった一つであり、、真実に戻れば「苦しみ」も終わります。だからいくら認識が起こらなくても認識が起こるまで続けるという認識が起こった場合だけここに辿り着きます。ですからもうここを目標にできた時点で9号目です。だって認識が起こらないゴールに向かって走り続けるって奇跡です。

強烈な反発

一神教の強烈な信者に「真実はこうだ!!!」は強烈な反感を生むでしょう、、間違えたら殺されます。ですからこのメッセージは、、強要は一切禁止です。というよりも危険すぎるのです。なぜならば一神教の信者にとって神は命であり、、、そこを奪うことなど脅しです。「自分は居ない」って人殺しみたいなメッセージです。だからこれは静かに静かにわかる人のみに伝えるのが優しさです。

大嫌いな上司

会ったら毎回100万円

どうしても嫌いな上司が居ます、だから会社を辞めようと思って。。。真実の話をしましょう。「その上司」make you unhappy  ではありません。その上司にはそのような力はありません。そに上司の存在力があなたを不幸にすることはできません。「その上司が大嫌い」という内容の思考こそが「大嫌い」という感情を起こします。その証拠にその上司に会うたびに「あなたに100万円払う」と私が約束すれば、、毎日会社に行くのが楽しくなります。なぜ??????

情報が変わる

「その上司は大嫌い」という思考から「大嫌いな上司に会ったら100万円貰える」に思考が変わったんです。その結果「大嫌い」は吹き飛び「100万円貰えてハッピー」に変わりました。その上司にくっ付いている「思考」が変わったのです。つまりつまり「思考内容」が変われば何でも変わるのです。大嫌いという感情は思考の内容だったのです。

大嫌いと思わないようにしよう、、も思考

思考がとにかく悪の親分で、、だからその思考が出ないようにしようというのも思考です。思考を思考でやっつけよいとしています。無理です。思考を思考で追い出すのは不可能。。。。そうではなく真実を理解していきます。「ただその感情お引き起こす思考が起こっただけ」これを理解するのです。「大嫌い」という思考が起こったから「大嫌い」を感じているんだと。その時「大嫌いな上司」という思考を一歩引いて見る癖がつきます。

「私あの人こうこうこういう理由で大嫌い」

そう一日中思考起これば一日中その認識が起こります。そして宝くじが三億円当たったという情報が入ればその瞬間にその思考は吹き飛び、、さっきまでの感情も吹き飛びます。その思考が起こったからその認識が起こっただけ、、という真実が残ります。だからもう思考を湧かさないようにしよう!!!!と思っても思考は勝手に湧くのです。ですから思考が起こった時にそこに気づくかです。その時点で気づきが起これば「思考連鎖」は止まるでしょう。

私って自分をよく観察できてる人間なの

私って、、、

「私って短気で情熱的ででも冷めやすい、、ただ頼られる真剣になっちゃう人間なの」なんでそんなに自分のことをよく分かっているんですか?????自己分析が趣味なんですよ。。。自己分析が大好きな人間なんです。【『「私」とは〇〇、〇〇である』という分析ばかりしている自分』という点を自覚している】三層構造です。分析ばかりしていることにさらに気づいています。「私」という存在を分析ばかりしてることにすら気づいている。「私を分析する存在」が居てその「私を分析する存在」に気づく存在が登場します。誰????この二人。。。誰ですか?????????

構造上

真実から説明すればこの体はこの体を俯瞰することはできません。ですから「自分」が自分を俯瞰していない。。。自分以外の存在は自分を俯瞰、、、そのことにさらに気づく存在がいます。二人自分じゃない自分が登場したんです。おかしいのです、、全くもって構造的歪み。。。真実から説明すればいたってシンプル、、ただ認識だけが起こったのです。主語がいない認識です。主体が居ない認識です。

自分だと思っていたのに

私って自分のことをよく理解している人間です。。。違います、、その理解は自分ではなく「理解」だけが起こったんです。自分ではないところで。ですから理解を自分とお見込んでいたのは勘違いです。ですがその理解を自分がしていないとしたら自分って何なんですか??????本当のこと言えば自分もいません、、、本当は自分は居ないで「認識」だけが起こっているのです。常に常に。だから今回も自分を俯瞰するのもそれを俯瞰するのも自分じゃないんです。「自分」とは「認識」しているはずだった存在のことです。はずだった、、、存在。