太郎ちゃんが壊した

この言葉を聞くまでは

ある男の子が玩具を壊したとしましょう。。。その時に周囲から「太郎ちゃんが玩具を壊しました」という声が上がります。「太郎ちゃんが玩具を踏んで壊しました」「やったのは太郎ちゃんです」この言葉を聞いた男の子は「太郎ちゃんが壊した」という概念を認識します。そこで初めて「太郎ちゃんが壊した」という意味を認識するのです。それまでは玩具を壊しても、、、何も起こらなかったのに「その言葉」を聞いて初めて「太郎ちゃんが壊した」が生まれたのです。

先生

先生から両親に話が行きます「実は今日太郎ちゃんが玩具を壊してしまいまして」これも男の子は認識します。両親が男の子に言います。「太郎ちゃん、玩具を壊しちゃだめよ」これも男の子は認識します。そしてついにその男の子の口から「太郎ちゃんが壊した」が現れます。その体を通じて「太郎ちゃんが玩具を壊した」が現れ始めます。

その時

その時初めてその体を通じて「太郎ちゃんが玩具を壊した」という言葉が現れ認識が起こります。周囲の声「太郎ちゃんが壊した」が太郎と呼ばれるその体に写りその体を通じて「太郎ちゃんが壊した」が起こったのです。「太郎ちゃんが壊した」という事実は実は一切ありません。「太郎ちゃんが壊したという概念」が周囲の体を通じて太郎と呼ばれる体に写ったのです。

真実になる

そして太郎と呼ばれる体から「太郎ちゃんが壊した」が起こると周囲は褒め称え「素晴らしい!!!この子は理解した」とそれが概念から真実になるのです。人間業界ではそうやって概念が真実にされます、、、ですが概念は概念ですから真実にはなりません。概念を真実と捉える概念が生まれただけです。この時「分離」ではなく「分離感」が生まれます。

自分が「思考」を生み出してる????

生み出していない

思考が湧く時「自分」がそれをやっているという自覚は湧きません。思考は勝手に湧きます。ポルシェ好きは「ピンクのポルシェ」が通った時「ピンクだ!!!」が勝手に湧きます。「ベントレー」が通れば、お、ベントレーだ!が勝手に起こります。そうです思考とは完全反射です。ではなぜ「人間業界」には「自分」が存在するのか????それは勝手に現れでた思考の中身に「自分」が出てくるからです。え?????思考の中身????そうです。思考の中身に「自分」ってやつが出た時だけ「自分」が現れます。

木村拓哉

木村拓哉という名前を覚えた人間だけに木村拓哉は存在します。アフリカに一生住んでいる人の中に「木村拓哉」は存在しないのです。木村拓哉とは思考の中にのみ存在するのです。CMで木村拓哉が現れた時「木村拓哉だ」が登場します。あなたが記憶喪失になった瞬間木村拓哉はこの世界から消えます。どこまでいって思考の中身でしか「人」は現れることができません。

繋がり

あらゆる名前を覚えその名前を覚えることによって「誰それ」と「私」という関係が築かれていきます。友人がたくさん居ます、、つまり「友人」と「私」の繋がりが多いことを意味します。これは実は思考の呪縛が多くなっていることになります。思考による自縄自縛が多くなっているのです。ノンデュアリティの勉強を進める時「この繋がり」が邪魔に感じるかもしれません。それは間違っていません。自分など居なかったという気づきと「繋がり」は矛盾します。

結果

五感

滅茶苦茶なことを言いますが本当の結果って「五感」のことです。我々が信じる「成し遂げるべき結果」とは実は「五感」だったのです。金メダルを取って地位と名誉を取って、、最終的に「五感」そのものが最終結果だと気づきます。意味不明ですよね????この体の中の自分が成し遂げるべき最終結果とは、、自分が「五感」だったという気づきです。

ヒント

その証拠に「金メダル」を成し遂げた時「自分」が消え「自分が成し遂げるべき目標」が消え五感だけが残っています。その時「涙」が溢れます。国民栄誉賞を受賞しそれを成し遂げるべき「自分」が消え「五感」だけが残ります。その時感動で「涙」が出ます。「五感」だけになった時「感動で涙」が出るのです。

じゃあ

本当に最終結果が「五感」ならば、、最初から何も私は成し遂げなくてもいいってことですか?????勿論です、五感に成し遂げるべき何かってあるわけがないのです。でも一つ注意点があります。私は「成し遂げるべき何か」は必要になります。私には必要なんです。ですが私が居ないことに気づくと「五感」だけが残り最終結果=至福に至ります。私が居ないことに気づかない限り「最終結果=五感」はただの妄想です。

五感の影

潜む

我々の本質は五感の影に潜んでいます。五感とはすなわち我々の活動の本質そのものです。空である我々の本質から色(現象)が現れ出るまさにその時「五感」が発動します。右を見てください、「景色」がグワっと現れでて認識が起こります。空からまさにその「景色」があられ出たのです、その瞬間に認識が起こります。どこから??????どこからなんてあるわけがない。。なぜならば「空」とは場所ではないから。認識されたその「景色」そのものが色です。

テーブルを触る

「触った」という感覚が起こります。この感覚がまさに空から色として起こるのです。どこで起こるのですか?????空には場所はありません。感覚だけが起こるのです。コーヒーを呑みます、、味が起こります。まさにその時「空から味覚」が起こったのです。どこで?????空には場所はありません。音楽が流れます、、それを感じます。。。どこで?????空には場所がありません。

さて

そうなった場合この私はいったい何をしているのでしょうか????何もしていないですよ。だって認識は「空ら直接」起こるのですから。五感が最初にあってその中に思考という現象が現れ、、その中にまさかの自分が居ます。自分ってずいぶん五感とは遠い場所にいるんです。五感の全てを把握する自分というのは「思考」です。

私とは=五感

思考感情はサブ

私とは五感のことです。。。「視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚」=私です。いやいや五感は「この体である私」の機能ですよね??????違います。「五感=私」です。じゃあこの体は誰なんですか??????この体は「五感=私」の一部です。今まで思っていた「体=私」とは「五感=私」の一部です。どういうことか????この体の手が視覚に入ります。。この体が「視覚」という私の中に入り込みました。声が口から発せられました。私である聴覚がこれを捉えます。物を食べます、私である触覚がそれを捉え、嗅覚がそれを捉え味覚がそれを捉えます。この感覚こそが私です。

五感が私なんて聞いてないですよ

そうです、、聞いていないんです。全く聞かされていないのです。ですがこれが真実です。五感の中にこの体も現れては消えていきます。勿論この体がなくなってしまたら五感も消えます。ですからこの体ありきの五感であることは間違いありません。ですがそれでも五感の中にこの体も現れます。パソコンのタイピング中、五感が手を感じ視覚が手を感じます。

認識はここでは起きない

究極を言ってしまうと「認識」はここでは起こりません。五感ってここでは起こってはいけないんです。五感って同次元では起こってはいけないのです。つまり五感とはここには居ない存在が起こしています。だから我々の正体は「五感」の影に隠れています。この体の中の私というのは100%嘘です。なぜならばこの体が私だとしたら、この五感は体のみでは絶対に起こらないからです。つまり私は何もしていないことになります。

退屈

あなたはもう何もしなくていい

もしも家が大富豪で幼少期から「何もしなくていい」と言われて育てられれば「退屈」です。五感を一切使わずに生きていくことができます。漁師が海に入っていき五感全開で漁をする時、、充実感が生まれます。なぜか????五感が開き、、五感そのものになるからです。思考が入り込む隙間がありません。思考花火が上がらないのです。ですが「何もしなくていい」となった時に五感を開いてサバイブするという感覚が薄れ、、思考花火の罠に入っていきます。

刺激ばかり求める

五感を使ったサバイブが必要とされなくなった時「五感を閉じて」思考花火の罠に入っていきます。つまり「虚しい」の中で刺激ばかりを追い求めるのです。ギャンブル、異性、お酒、、、刺激刺激を追い求めるその土台は「退屈」です。五感を開く必要が全くないがゆえに五感が鈍り「思考」に走る結果です。思考花火も刺激であり、、ギャンブル、異性、お酒、タバコ、、、思考品も刺激です。

五感そのもの

実は我々とは=五感です。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、、この五感こそが我々です。本当はこれだけなのです、、この感覚は「空から色である現象」が起こる時に起こっています。我々の本質は空そのものでありそこから色が現れ出ることで実は認識(五感)が起こるのです。にも関わらずその中に思考が現れその中に私が現れ私のストーリーが現れます。ですが私とは「空」であり、、全く違う認識が起こるのです。そこから違和感という苦しみが生まれそれを解消しようと刺激を求めるという負のスパイラルが入ります。

思考花火は刺激的だが虚しい

毎日毎日

ネットフリックスにはまります。どハマりします。。。一年間毎日ネットフリックスしか観ていませんでした。その時刺激的ではあったが虚しい気分になります。これは思考も全く同じです。毎日毎日考えることばかりで四六時中考え事をしていました、、刺激的だが虚しいのです。なぜか?????思考とは花火のようなもの、、、、花火の絵は綺麗で刺激的ではありますが、、体感がないのです。五感を全く使っていません。

空想の中で

空想の中で「気になる異性」とデートをする夢を毎日毎日回想するとしましょう。。。刺激的ですよね、楽しいですよね、、、でも虚しいんです。なぜ?????体感が全くないからです。五感が全く働いていないのです。だから虚しいのです。思考とは現象の一つです、、、現象を現象のままに気づく時「至福感」が芽生えます。花が咲くのもそのままに気づくと至福感が生まれます。ですが「思考の花火」を認識し続ける時「違和感」が同時に起こるのです。その違和感とは「虚」です。

憎き親

1億円

今の苦労は全部親のせいだ、、親が大学に行かせてくれなかったから俺は毎日こんなくだらない仕事をしなくてはならないんだ。。。毎日毎日通勤中そうやって回想している人が居るとしましょう。その人の親が突然「生前贈与で1億円をお前に渡すことにした」と伝えられたその日から親への恨みが突然消えます。なぜ????簡単です。「今の苦労は全部親のせいだ、、親が大学に行かせてくれなかったから俺は毎日こんなくだらない仕事をしなくてはならないんだ。。。」という思考が止まっただけ、ただそれだけです。この思考の花火が上がらなくなると「認識」がなくなるのです。

記憶喪失

「今の苦労は全部親のせいだ、、親が大学に行かせてくれなかったから俺は毎日こんなくだらない仕事をしなくてはならないんだ。。。」交通事故で過去の記憶が飛んだ瞬間に「今の苦労は全部親のせいだ、、親が大学に行かせてくれなかったから俺は毎日こんなくだらない仕事をしなくてはならないんだ。。。」の思考が湧かなくなります。すると毎日穏やかに会社に行けます。だったら記憶が飛んじゃった方が良いぐらいです。

だったら

記憶喪失になったら「穏やかになれる」記憶があると「穏やかじゃない」これっておかしくないですか????記憶を意図的に無くすことはできませんから結論から言いましょう。思考は全部記憶によって生成されます。記憶をベースにその都度その都度それを混ぜ合わせて思考が湧き上がります。その思考の花火をひたすらに人は見ているんです。過去の記憶をベースにした思考花火を毎日毎日ひたすらに見ているのです。

波乱万丈?

本当は

俺の人生は波乱万丈、幼少期は虐待にあい、学生時代は壮絶な虐め、就職してからはブラック労働で結婚離婚を繰り返し、、、みたない、、、映画のような人生を歩んできました、、、って話ありますよね????実は実は全部思考です、、そういう目にあったという思考が今花火のように上がっています。何を言っているのか????本当に実際にあった話だからしているんです!!!違うんです、、実際にあったという思いだけがあるのです。

思考

幼少期に虐待にあったという思考があり、学生時代に壮絶ないじめにあったという思考があり、ブラック労働だったという思考があり、結婚離婚を繰り返したという思考が起こるこので「それが起こった」という認識が起こったのです。思考の花火を打ち上げたことでその花火が空に描かれたのです。全く同じ境遇にあった兄弟がいて「幼少期は父と毎日プロレスごっこをし、学生時代は毎日友人と喧嘩ごっこをし、就職はベンチャー企業で浸食を忘れて打ち込み、情熱的な恋愛をしてきた」と答えればまるで違う思考の花火が空に打ち上がります。そしてそう認識されます。

良い悪いではない

ネガティブな思考は悪で、、ポジティブな思考は善であると言いたいわけではありません。何事も受け取り方次第で、、だったらポジティブに捉えましょう、、、と言いたいわけでも全くありません。重要なことは「思考こそが」花火のように打ち上がりその思考の花火をただ認識しているんですよ!!!という話です。だから思考の打ち上げ花火をみて、、そこに深刻になる必要がありません。思考という存在の仕掛けに気づくのです。

気づくと

死にそうなほど深刻な顔の人が「私は借金1000万円あり、妻も家を出て、子供も離れ、会社も首になりもう生きる希望がありません」と宣えば、、その思考を起こすことでその認識が起こっていますよ、、となります。状況そのものが深刻を作ることはできません。状況を受け取る思考が深刻を作ります。だからポジティブにということではなく「思考のみ」が「認識」を生み出すというメカニズムに気づいていきます。

何も思わないようにすればいいんですね

全く違います、、「思わないようにする」という思考が今起こっただけです。この思考には何の力もありません。思考はただの花火ですから。思考はただの花火なんだ、思考は認識を起こすただの花火だという気づきが、、、「思考花火」を花火として認識することを可能にします。

素晴らしい日々

あの時は

あの頃って今思うと「素晴らしい日々だったなー」という回想が起こります。いやーあの頃はみんな純粋無垢で将来のことなんて気にしないで遊んでた。。。。という思考が今起こったんです。その事実は全くありません。起こったのは「その思考」だけです。「素晴らしい日々」は思考の中だけで今起こったのです。今があまりに慌ただしく世知辛いから「その思考」が起こったのです。

将来は、、、、

またもう一度、、あの頃のような「素晴らしい日々」にいつか戻れたら。。。無理です。なぜならば「素晴らしい日々」は思考の中にしか存在しないからです。今できるのは「いつか素晴らしい日々」という新しい思考を起こすことだけです。思考の中にだけ素晴らしい日々をイメージできます。ではどうぞ!!!!いかがですか????虚しいだけですよね。そうです、、思考の中で素晴らしい日々をイメージしても虚しいのです。

過去は良かった、またいつか将来素晴らしい日々を。。。これマジックです、騙されてますよ。「過去には素晴らしい日々があった」という思考花火を今打ち上げて、、「将来はまたあのような日々を」という思考花火をまた打ち上げたのです。素晴らしい日々というのは「この仕掛け」を見抜くことなのです。過去を今思い出し将来を期待するというのを今思考しているだけです。この思考花火こそが「今」を曇らせています。今、思考花火さえ起こらなければそのままに至福に変わります。思考花火が今という至福を曇らせていたのです。だからそのメカニズムに今気づいて思考花火を打ち上げなければいいのです。