朝起きて

後悔

朝起きて、多くの方が、、後悔からスタートします。昨日は飲み過ぎた、、、昨日は食べ過ぎた、、昨日は夜更かしし過ぎた、、、昨日は、、昨日は、、、、です。ですが何度も何度も説明しますが、「後悔は構造上不可能」なのです。完全自動運転、自動反射で全ての行動は起こるのでそれをコントロールできる自分は存在しません。それでもそれでも後悔が勝手に起こります。これも勝手に起こるのでそこもコントロールができないのです。

馴染ませる

後悔は勝手に起こります、、これまでの人生は完全にそうでしょう。ですが徐々に徐々に「後悔が起こったが本当は意味がない」も勝手に起こるようになります。後悔の後に「それに気づく」が起こります。「私が居てあなたが居る」という二元を作り出す思考はそれでも起こります、ですが同時にそれに気づくが起こります。「今日の私ってツイテないなー」が勝手に起こります。ですが同時に「ツイテル、ツイテナイは全部私にとってでしかない」という思考が起こるようになります。

俺このままでいいのか????

俺このままでいいんか????がそれでも起こります。と同時に、、、いやいやコントロールできる自分なんて居ないんだ、、が勝手に起こります。二元(思考)と非二元を行ったり来たりが続くのです。ですが本当は本当は二元とは思考でしかなく、、非二元の中で二元を指し示す思考が起こっているだけです。だから非二元の世界は何も何も変わりはしません。世界が変わるのではなく二元を指し示す思考が起こったり消えたりするだけです。

重要なこと

二元を指し示す思考がたまに起こり、その思考を否定する思考が起こりますが、、、全ては非二元の世界の中で勝手に起こっては消えているだけです。二元性を指し示す思考を否定する思考がいくら連発で起ころうと、、それ自体には何の力もなく、、、毎日その思考を唱え続けようと、、非二元の世界に影響力はありません。重要なことは二元を指し示す思考が消えた瞬間「苦しみ」が起こらなくなるということです。

判断から降りる

判断とは

判断の基本構造は「人間活動には主体者が居てその主体者が自己責任で行動をコントロールしている」そしてその行動には良否があり常に人間活動はその判定を受けるということです。ところが真実ではその主体者は皆無であり、よって判断を受ける当事者は居ないということです。では人間活動はどのように行われているか????勝手に勝手に行われています、完全全自動です。

判断地獄

人間は結局のところ水面下では判断判断判断を繰り返しています。あの人間の行動はいかがなものか???という判断です。会社に行けば全行動が判断の対象になっています。仕事ではひたすらに判断の対象にされますから仕事以外では自身が判断する立場になり判断をします。

判断すらも

判断する、判断されるが、、勝手に勝手に起こっています。そのことに気づきます。行動を決める当事者、主体者が居ないにも関わらず判断する、判断されるがこの日常生活では行われ続けています。これは無意味ののことです。ですが自然現象としてそれが起こっているのです。見かけ上の私はその世界から身を引くこともできます。私だけ身を引いちゃってもいいんでしょうか????いいに決まっています、なぜならばこの世界は唯一私の世界だからです。

逃げたい

この状況

ノンデュアリティ的には全てが勝手に起こるのですから「この状況がどれほど苦しくても」ただ事が起こるのを待ったほうが良いんですよね?????状況を変えようと積極的に逃げるのは意味ないですよね????全く違います。ノンデュアリティ とは「個人の行動」をこうしたほうが良い、ああした方が良い、、、という話では全くありません。今の状況から逃げだしたいにならばBダッシュで逃げればいいのです。即刻逃げればいいのです。

ただし

ノンデュアリティとはBダッシュで逃げようと、堪えて耐え抜こうと、、それをやっている個人が居ないという話です。そしてBダッシュで逃げようと逃げまいと、、それが実は勝手に起こっている、、、という話です。固い決意で逃げるとしたら、、それが起こったのです。何でも自由です、、そして徹底的にやりたいようにしてください。。さらにそれによってどのような結果になろうと「責任」を個人は取れません。勝手に起こったのですから。

やりたいだけやって責任もないって?????

会社を今日付けで辞表を出し、明日から行かない!!!こんな無責任なことをやっちゃっていいんですか?????勿論です。しかも大被害を会社に与えても責任はないんですよね?????ないです、、責任を取れる個人が居ないのです。それってかなりの適当男になりませんか????全くなりません、被害を与えたという思考がただ起こり、、会社からは多大な迷惑を受けたというメッセージだけが届き、、実は何も起こっていないのです。あなたが会社に行かなくなったその日から会社はこの世界から無くなります。そして一番重要なこと、それはこれを完全に理解した時余裕が生まれ、、、結果的に誰にも迷惑を取らない行動になっていきます、あくまで見かけ上ですが。最初は見かけ上迷惑をかけるかもしれませんが次第に全く見かけ上迷惑をかけなくなります。余裕は行動を軽くし軽い行動は「寄り添う」を可能にします。

秘密

意味なし

私だけが知っていれば価値が付きますよね。私だけが悟ったほうがレアですよね。みんながみんな悟っちゃったら利益損ですよね????意味ありません、、この世界はこの体を含むこの見える世界しか広がっていません。だからこの視界の中の登場人物が覚者であろうとあらまいと何も関係がないのです。というよりも主体が存在しない以上これは視界、ただそれだけです。

視界には億万長者ばかり

見かけ上の私は「億万長者の会」に参加すれば急に小さくなった気がします。私ごときが参加していいのでしょうか???へり下りが起こるでしょう。ですが真実では「億万長者の会」に主体を持った誰かは存在しないのです。つまりこれも自然現象です。「億万長者の会の方々」は私のことを下に見ているんだろうな。。。。という思考だけが起こり、、実は何も起こっていないのです。どんなに馬鹿にされた態度を取られてもそれがただ自然現象として起こったのです。

反応を楽しむ

どこまで理解が進もうと、、この体を通じての反応は全くコントロールが効きません。これからはそれを楽しんじゃいます。あれこの体はこんな反応を今したぞ、、あれ今「ジョーク」言えたかも、、、この体を通じてどんな発言、行動が起こるかを完全に第三者として楽しむのです。なんか今ギャグが完全に滑ったかも。。そこには何の責任もありません。無責任にこの体から何が起こるかを楽しみます。

ノンデュアリティという思考花火

言っていることは分かるんです

悟り、ノンデュアリティのメッセージ内容は実は大変シンプル、、受験生ならば1日あれば暗記できます。問題は実感です。実感が起きなくては全く意味がない。。では実感と暗記は何が違うのでしょうか?????「全部が幻でしょ」この瞬間暗記者の頭の中には「全部が幻でしょ」という思考の花火が上がっています。「全部が幻」というその人のイメージが浮かび上がります。マシュマロのようなビジュアル????蜃気楼のようなビジュアル????影のようなビジュアル????が頭の中で湧くのです。これが暗記の限界です。

実感

ノンデュアリティ はイメージではありません。この見える世界を幻と「感じる」のがノンデュアリティ です。本当にこれ視界だけが広がっているぞ、、という実感です。本当にこれ画像だけが動いているぞ、、という実感、、本当にこれ音が自律的に響いてるぞ、、という実感です。頭の中でのイメージは思考の花火、、実感とはまさにこの世界をそう感じるということです。

暑苦しい???

ポジティブポジティブ

「成功哲学」の基本はポジティブシンキング、、、全部ポジティブに捉えるのだ!!!!雨が降ってもツイテいる。事業で失敗しても肥し。お金が尽きれば「ファスティング」。もう何でもかんでも来て頂戴、、です。本当のことを言えば捉え方を決める「主人」はこの体の中に居ませんから実はこれって無理ゲーです。結果ポジティブシンキングが起こることもあればネガティブシンキングが起こるかもしれないのです。

ただし

これは実体験ですが成功哲学系を読んでも「重く」はならないケースがあります。それは思考を主体(思い込み)と切り離すことが起こるのです。思考を変えろ思考を変えろ思考を変えろ!!!!の大合唱とは実は「思考=自分」という思い込みを崩壊さえます。上手く行っていない????だったら思考を変えちゃうでしょ!!!です。湧いてくる思考を自分の子供みたいに考えている人にとって「変えちゃえる思考」は主体を大きく切り離せます。つまり主体から思考が切り離され小さくなるのです。

考え方を否定された、、立てない

考え方を上司から否定されてしまって「落ち込んでいます」が起こらない。。。考え方は私ではないんです。考え方はいつでもどこでも変えれる変幻自在のモノですから、と成功哲学愛読者は「思考の扱いが柔軟」になります。ですがですが大きな大きな勘違いをしています、彼らは。それは何か?????考え方を変えることができる主体が存在しないのです。

工事現場

完璧

東京に住んでいますと次から次へとビルが建っていくのですが、、、一週間ぶりに渋谷駅に行けばこの前の工事がさらに進み建物が出来上がっていきます。このことを多くの方は「当たり前」と思っています。ですが私の知らないところで勝手に勝手に工事が進み、、進化していく、完成されていくのです。本当はこの体が居ない場所では何も起こっていません。にも関わらずこの体が渋谷に行けば視界には建物の完成形が立ち並んでいきます。その奇跡を「当たり前」とする思考が起こることで我々は奇跡を常識としたのです。

完成していたのが

三歩進んで二歩下がる、、、完成してきたなと思ったら次の日には逆戻り、、、、これが絶対に絶対にないのです。今現在の建物は二日分後退し出直しです、、、が起こらない、、この事実を誰も気づいていません。工事が進むことは当たり前、、後退する後戻り再生はあり得ない、、、と信じています。ですが実はとんでもない奇跡です。

こっちの都合

こちらの都合など全く関係なしに工事は進みます。こちらの体調が悪かろうが良かろうが、、、完全無視に工事は着々と進み後退はしない、、、、、これぞ奇跡です。これぞミラクル。このことに気づいてしまうと渋谷の再開発は奇跡の塊、、ビックリします。我々は日々とんでもない奇跡に遭遇しています。

これって夢じゃねーか

当事者が居ない

私の誕生会、、次から次へと友人が家を訪れお祝いの言葉、プレゼント、シャンパンボトルなどを持ち寄ってくれます。ワイワイ、ガヤガヤ、、盛り上がりに盛り上がる、、、楽しい最高!!!、、、ですがですが本当はここには当事者は誰も居ません、その行動の全てに主体性が全くないのです。ただそこでは反応だけが起こります。友人のジョーク、エピソードトーク、ハッピーバースデーソング全部に主体性が存在しないのです。

この私の体からも

この私の体からも次々にトーク、笑顔が連発しますが、、、それも自動反応、、、勝手に全て起こります。誰一人主体者が居ない状態で、、会が始まり、、そのまま終わるのです。どういうことでしょうか?????この状況どっかで見たことがありませんか?????そうです、、夢ですよ、、毎晩見る夢と全く同じですよ。主体性がなくただ勝手に始まり勝手に終わるのです。

夢と分かったとて

ここには主体性のある人物は一人も存在せずただ反応だけが起こり続けます。これは完全に夢なんです。え?????これが夢って気づいてこれからどうやって楽しめばいいんですか????大丈夫です、楽しむか楽しめないかを決めることができる主人がこの体には居ませんから。だから勝手に楽しむが起こり勝手に楽しめないが起こります。ただしそれが本当に分かった時「大いなる安心」の中で喜怒哀楽が起こります。

子供の喧嘩

幼稚園

幼稚園児が休み時間に喧嘩をします、、、先生方は穏やかにそれを見守ります。周囲の生徒もそれを笑顔で眺めます。喧嘩という行為が周囲の笑顔の中で行われるのです。一方大人の喧嘩は周囲が強張ります、緊張感が走ります。笑顔の中で喧嘩が起こることは稀です。この違いはなんでしょうか?????この違いは主体性です。子供は主体性が希薄なので喧嘩が起こっても後腐れがなく子犬の喧嘩のように見守れるのです。

一方

大人の喧嘩は「主体性がある」という認識の元に行われます。だから喧嘩をしかけた人間は最悪交番に連れていかれ被害者は訴えるなどの行為に発展します。だから周囲も緊張感をもってこれを見守ります。ところがこの「主体性」完全に嘘です、完全に勘違いです。子供は主体性が希薄で大人は主体性が濃厚であるというのは大勘違いなんです。つまりどちらも全く主体性がないということです。

だとしたら

実は実は大人の喧嘩を深刻にしたのは当事者ではなく周囲です。周囲の反応こそが深刻さに追い討ちをかけます。周囲が笑って笑顔でそれを見守れば、、当事者同士も何をこんなにムキになっているんだっけ????と白けてきます。本当は本当は当事者の喧嘩も主体が存在しない自然現象、周囲の反応も主体が居ない自然現象です。そうですこれは完全に映画です。どこにも主体が居ない自然現象なんですから。

問題発言

ない

「問題発言」という発言はこの世界には存在しません。発言が「見かけ上の誰か」の体を通じて現れた時、周囲の体を通じて「それは問題発言だ」という思考が起こり、、初めて「問題発言」が生まれます思考の中で。「問題発言」という現象はこの世界には一切存在せず、、周囲の体を通じた思考の中身に「問題発言」という認識として起こるのです。

問題行動

問題行動という現象もこの世界には一切現れることはありません。周囲の体を通じて「あれって問題行動だろ!」という思考が起こって初めて「その行為=問題行動」というアイデア認識が起こります。そういう意味で全行動は問題行動ではなく善良行動でもなく最悪行動でもありません。そう認識する思考が現れた時だけ認識が起こるのです。

自然現象

人間の発言、行動の全ては自然現象です、自然現象に良いも悪いもあるわけがないのです。ある体を通じた行動発言に周囲の体が反応し「問題行動だ!」「善良行動だ!」「模範発言だ!」「問題発言だ!」が勝手に自然現象として起こります。大元の言動も自然現象、それに反応する周囲の声も自然現象です。この世界には自然現象しか起こりません。この認識が突然起こった時、、「静寂」が起こります。誰にこの認識が起こったのでしょうか????ただ起こったのです。