日本が今混迷の中に居る?

真っ赤な嘘

バブルが弾け日本は混迷の社会に、、、いったい何年間こなんな重いドラマを続けるのでしょうか?答えは何も起きていません、完璧な現象、事実がただ起き続けています。完璧な現象事実に人間は勝手な解釈をしてああでもないこうでもないと思考の渦に入っていくのです、結果重い空気がのしかかり苦しさが湧き上がっていきます。事実は何も起きてなくただ現象が移り変わるのみ、そしてその現象に我々の自我は何一つ影響を与えることはありません、そんなはずはない総理大臣の決定は全国民に影響を与えるではないか?そうではないのです、その決定こそが勝手に根元から湧いてきただけなのです。全てはそうなるように決まっているのです。

先が見えない、、、

先が見えない社会、、、これもとんでもない大誤解、、、先など見えるわけがないのです、自分自身の行動、思考、決定、全てが全自動であり何一つコントロールできないにも関わらずなぜ社会全体の先など見えるのでしょうか。自分の思考はコントロールできている、だからこそ先が見えないこの社会が怖い、、、大きな勘違いです。自分の思考などがそもそも無く、さらにその思考もただ湧いてきているだけ、自分様に起きる結果も全部決まっています。

人生のこの先など一ミリも考えなくていい

老後の心配、年金の心配、体の心配、、、全てが決まり切っています。決まり切っているにも関わらず一体何を心配する必要があるのでしょうか。何も心配することなどない、、逆に言えば心配するというのは自分というものに今後の未来を変える力があると信じている証拠でもあります、そんな力は微塵も用意されていません。絶望的なまでにこの個人には未来を切り開く力など皆無です。答えたただ淡々とこの体を通じて思考、行動が湧いてくるだけです。それ以上も以下もないのです。

目の前の不幸人は誰?

目の前に重篤な病人にが居ても、、、

目の前に重篤な病人、大借金を抱えた人、失業に失業を重ねホームレスになった人が居ても、、、あなたは何も同情する必要はありません。そのように映るその人はそのようになるように最初から完璧に設定されて居たののです、宇宙の采配には一切のミスがありませんからそうなるように全て決められていたというだけです。そしてその人々がさぞ辛いだろうというのはあなたの中に湧いてきた想像、思考でしかないということです。騙されないでください、、辛いだろうはどこまでいっても思考なのです。「辛い」という事実はどこにも起こっていません。

何も解決すべき問題はない

目の前にはただ完璧な現象が起き続けています、この完璧な現象に人間様が関与できることなど一切ありません。いかにこの完璧な現象が不完璧に見えてもそう見えているだけ、宇宙の采配にミスなどおきようがないのです。その采配に対し自分はああだこうだと嘆き悲しみますがそれは思考という想像上のことです。事実は全く何も関係がないのです。事実は完璧に目の前で現象化し続けています。

ホームレスも、大病人も、、、

ホームレスも大病人も完璧にその姿をあなたの目の前に映し出しています。ホームレスの財布の中に1億円の現金があることもなく、大病人がオリンピックに出たら金メダルを取ったということも起きません。このゲームは完璧にその緻密さを奏でています。その緻密さ精巧さこそがこのゲーム、現象の素晴らさであり、、目の前のホームレス、大病人をみて悩み苦しむのは傲慢な自我あってのことです。本当はその自分すらどこにも居ないというのが事実です。

今って何?

今今、、

今って何でしょうか?というか我々は今しか知りません。今目の前に起こっていることを感じることしかできません、今この目の前に移りゆく現象だけがここにはありこの現象を感じることしかできません、あとは思考が湧き上がりその思考の中にどっぷりと今浸ることでしょうか、、今目の前にある現象に浸れば我々は絶対的安心感の渦に入り込んでいきます。今思考の渦に巻き込まれていきますと不安、孤独、心配、不幸の渦に巻き込まれていきます。今起きている現象とこの自分、思考とは絶対的に関係があると信じれば信じるほどに我々は不安の渦に巻き込まれ、今起きている現象とこの思考とは何も関係がないと分かれば急激に軽さが押し寄せてくるのです。

昨日考えたアイデアが成功したから

昨日考えたアイデアが成功したからこれからもこのアイデアを遂行しよう、、これが人間が思考に依存していくパターンですが実はこのアイデアと起きた事実とは全く関係がありません。起きる事実が最初に決まっていてそれを遂行するアイデアがその前に湧き上がっただけです。ですが自分は「このアイデア」を俺様が考えついたからこそ事実が起こったのだとまんまと騙されてしまうのです。何という不幸、何という馬鹿さ、何という勘違いでしょうか。

大成功者は大勘違いに襲われる

成功すればするほどにそれを成し遂げたのはこの自分様でこの自分様の英断こそがそれを可能にしたと勘違いが強くなります。実は起こることが最初から決まっていてアイデアはその逆算でただ起こっただけなのです。ですから「自分」などまるで関わっていない、、というのが事実です。自分など実は何もどこにも登場していないのです、振り返ってみるという思考が湧き上がり、その結果「自分」らしきものがそれを成し遂げたのだという想像が湧き上がっただけなのです。

最初から全て決まっているならば

何が面白い人生なのか?

最初から全て決まっているんですよ、そうお伝えすると多くの方はでは何が楽しい人生なのか?と反応します。この反応こそが今不幸な証拠です、今苦しい証拠です。毎日が楽しくて仕方がないのならば最初から全て決まっていようといないとどちらでもいいからです。幼稚園の遊具で毎日楽しく遊んでいる生徒にこの事実を伝えても誰もショックを受けないでしょう。なぜならば今楽しいのだからそんなことはどっちでもいい、、ということです。

絶対的幸福感に包まれて

最初から全て決まっていると聞いて「良かった」「素晴らしい」と思う方は稀です。なぜならばこの「自分」はこの人生の全責任を任され運営してきたと信じ切ってきたからです。今更お役御免、社長職辞任、代表取締役解任は酷過ぎるよ、、、という話です。じゃあ「自分」はこれから何をして生きていけばいいのか??という話です。それは当たり前のこと、退職金もない、慰労金もない、慰謝料もない、、じゃやってられないというわけです。ですがこの事実が腹落ちしてきますと、、確かに自分が決めていないなー、、という事実が徐々に押し寄せてきます。そしてお役御免になった自分は徐々に忘れさられていく、、辞めた社長の影がいつの間にかなくなっていく会社と同じです。

桐島、部活辞めたってよ

この映画の中の桐島は、、映画の作中一切登場しません、桐島の周辺の映像のみ、、その中には桐島の姿が全くでてこないのです。霧島を知る知人、友人、同級生は全部でてきますが肝心の桐島が全くでてこないのです。ですがこの映画は完璧に桐島抜きで話が進んでいくのです。これがまさに自我、自分というものです。自分というものなど一切でてこないにも関わらずこの人生は完全に進んでいるのです。そして自分というのが本当は居ないのならばこの人生そのものが嘘、勘違いであることも腹落ちしてきます。この腹落ちは自分がするのではなく、腹落ちがただ起きます、湧き上がります。

桐島が実は居ないのならば

この映画では最初から最後まで全く桐島が登場しないのですが、、そうなればこの桐島を主人公にした映画そのものはただの映像になります、映像が移り変わりその登場人物が桐島がまるで居るかのように演技を続けていきます、桐島が絶対に居ると信じれるようなあらゆるシナリオが用意されこの映画は進んでいくのです。そして本当は桐島は居ない、、、これが我々の人生の正体です。生まれてきてからまるで「自分」というものが居るかのような扱いを受け続け、自分が絶対に居るという確信に変わる、その自分が「湧いてくる思考」を所有することで意思決定し人生を選択する「自分」に昇格していくのです。

思考に優劣はない

素晴らしい思考など存在しない

あの人の考え方は素晴らしい、あの人の考え方は幼稚である、、、考え方を所有するその人は存在せずそれゆえ考えとはただ根源から湧き続けるもの以上のものではありません。それゆえ固定化された考え方などあるはずもなくただある考えがある人を通じて湧き上がっていきます。何かを成し遂げた人は自分の考え方は素晴らしいのだとそこから「自分」を誇らしく思うという考えに縛られていくのですがこれはもう苦しみの入り口としか言いようがありません、なぜならばその自分も思考であり思考の世界に没入していきます。

本当の幸福は思考が湧かない瞬間

本当の幸福は思考が湧いていない瞬間、自分など忘れてしまっている瞬間、五感に浸っている瞬間(音楽、食事、会話、仕事、芸術、自然)です、五感で感じる事実に向き合っている時は思考が入り込む隙間がなくそこには根源、至福があります。ここに触れれば触れるほどに思考が自然と湧きあがらなくなっていきます。事実は思考とは何も関係がなくただ湧きあがりますから思考に振り回されるメリットは皆無です。

シナリオが淡々と続く

事実、現象はただ淡々と起こっていきます、ここに自己という存在、自己を前提とした意向など全く無意味、無介入、無力です。個人はただ起き上がる現象を都合よく切り抜いて個人のストーリーに仕立て上げるのですがそのストーリーを信じる限り苦しみが湧き続けます。実際には個人とは全く関係なく事実が起こり続けていきます。学校の入学、退学、転校、入社、転職、結婚、子育て、、、、全て個人の意思とは何も関係なく起き続けていきます。

ただ事実だけを見てみる

「私は居る」は想像

我々人間は多くの時間を想像に費やします、私が居る、友人Aは悪い奴だ、学校の先生Bは優しい人だ、私の親は何も分かってくれない、、、これらは全部想像です、、、先ず「私」は想像物です、そして友人Aも体は実在しますがその中居るはずのAは想像の域を出ません、学校の先生も体は実在しますがその中に居るはずのBは名前であって実態を証明できません。私の親にあっても体は実在しますがその体の中に親の自我を見つけることは不可能です。想像物である「私」とこれまた想像物である「A」「B」「親」との関係もこれまた想像でしかありません。この想像上の人物同士の関係について悩むという思考が湧いていて苦しんでいるのです。

人間関係が苦しいのは実態がないから

職場では人間関係だけが苦しい、家族でも人間関係だけが苦しい、親との人間関係だけが苦しい、、、この苦しさは全て想像上の想像物の関係性から生まれています。体は間違いなくありますがその中に「自我が在る」というのは間違いなく想像です。間違いのない想像物同士の関係は事実とは無関係のフィクションですからこれは苦しいのです。事実とは根源であり、根源から湧き上がる想像物の中に入り込んでいけば苦しさが根源から湧いてきます。

苦しいのが好きならば

苦しい思いをしたいのならば徹底的に人間関係の中にどっぷりと浸かってみてください、想像VS想像の世界は思考の駆け引きが起こり苦しさマックスになっていきます。人間関係の中に飲み込まれても決して思考を野放しにしないことです、あいつはこんなことを考えているのでは?あんな悪巧みをしているのでは?腹の中では実は自分を嫌っているのでは??このような思考の波に飲み込まれないことです、感じたら感じ放し、湧いたら湧き放し、、人間関係が至福に誘ってくれることはなくそこに期待しないことなのです。そうではなく事実に徹底的に向き合うことこそが至福への入り口であることを悟ることです。

事実とは

事実とは体の五感です、そこに人が居るのを感じる、そこに音楽が流れているのを感じる、そこにスポーツ中継があるのを感じる、食事を感じる、仕事を感じる、、、人間の面白い会話を感じる、、ここに徹底的に向き合うのです。この向き合う先に思考ではない本当の至福があります。人間という思考上の幻想ゲームにのめり込むのではなく五感にのめり込んで行く、、感じるという事実に徹底的に向き合うことで常に根源に触れ続けるのです。

自由意志が完全にない

宇宙のルールはシンプル

川に落ちた葉っぱは何の意思もなくただ川の流れに従って川を流れていきます。葉っぱにもしも思考があり右に流れる左に流れたいという思いがあったとしてもそれには一切関係なく川の流れに従います。これが自然界で行われているルールです。このルールは人間にも当てはまります、人間がどれほど思い思考を張り巡らせてもそれには関係なく行動が起こっているのです。頭の中で絶対に右に流れたいと思っても実際には左に流れることがあるのです。我々人間は思考こそが人間の行動を決めていると信じていますが実際には思考と行動には因果関係がないのです。

「自分」が思考を決定している

自分が決めたこと、自分が決断したこと、自分が英断したこと、、、この自分とはそもそも何でしょうか?自分はどこに居るのでしょうか?自分とは体の中にどのように存在しているのでしょうか?人類80億人の中でこの自分を見たことがある人は居るのでしょうか?答えはNOです。なぜならばこの自分は実際には存在せずただの記憶による想像物だからです。想像ですから実態がないのです、この実際には存在しない想像物が、、、決める、決断する、、という行為をおこなっているという想像をしているのです。思いは確実に湧きます、この確実に沸いた思いは「自分」という想像物が湧かせたと想像しているのです。

自分は記憶

友人から名前を呼ばれることでこの体の中には確実に「自分」が居るはずだと想像する、お客さんから喜んでもらうことでこの体の中には「自分」が居るはずだと想像する、警察から捕まることでこの体の中には「自分」が居るはずだと想像する、、これが自分の正体です。次から次へと湧いてくる思考は誰が湧かせているのか?それは自分であろうという想像をしているのです。その想像は誰がしているのか?それが根源です。根源が「自分」が居るはずだという想像を起こしているわけです。

根源による想像がただ起きている

この世界には根源にから湧き上がる現象しかなくそれ以外は存在しません。そうならばこの自分という想像も当然根源から湧き上がっています。「自分による意思決定があるという想像」もこの根源から湧き上がっています。ということでこの自分活動に悪いも良いもなくそれがただ起こっているのです。根源から自分という想像がただ起き続けそのまま死ぬまで起き続けるのが普通の人生です。自分という想像による人生がいつまで経っても幸福に至らないことによってこの自分を疑うという思考が湧き「自分ってただの記憶だ」という気づきが起こることが悟りです。自分がただの記憶ならばここには「これ」しかなくただ何かが起きているだけだという気づきが根源から起こります。そこにはもう「自分」という存在は居なくなりただ体だけが存在します。

観念とは方程式

見える世界で観念が分かる

我々は本来たった一つのエネルギーの中に生きています。ですがそう見えないのは我々に観念があるからです、先ずはこの「自分」が居るという観念、これがこの自分ストーリーをスタートします。ここからスタートしてあらゆる観念がこの見える世界を分離独立させていくことになります。ということは見える世界がどんな世界かでその人の観念が分かってしまうということになります。

どのような世界に居るか

分かりやすく言えば、、、我々は価値観を共有している人と人間関係を結んでいます。会社や組織など、、同じことに価値を置いている人々と生活をしているはずです。例えば都会に出る人々は都会に価値を置いている、田舎に住む人々は田舎に価値を置いている、、、だから見える世界も似てきます。全く同じ世界を見ている人は居るわけがなく似ているけど違う世界を生きているのです。

観念を見抜く

観念書き換えによって生きる世界が変わっていくのは間違いない事実です。ですがこれは最初のステップです、観念が書き換わることで世界が変わるというこの事実に着目します。我々はとんでもないメカニズムの中で生きているのです。このとんでもないメカニズムを創造したのは誰か?神です。神はこんなとんでもないメカニズムを作り出しその中で小さな神体験を起こしたのです。小さな神とは「私」のことです。

観念とは定義

思考が材料、感情が大工

バシャールは言います、「観念とは定義、家の設計図、思考が材料、感情が大工」であると。大変面白い発想です。もしも定義が「人生は苦しい」という定義ならば、、思考や感情がフル回転すれば、、、「人生は苦しい」が証明されます。定義がオカシイ場合、真面目な思考、感情を所有すればするほどしんどい人生になります。思考フル回転、感情フル回転は地獄への入り口になります。

観念、定義を変えよ

今の人生が苦しいならば、、、思考、感情を変えるのではなく、、、定義、設計図を変えます。設計図が変われば後は思考、感情がダブルワークで家を速やかに建ててくれます。あなたの今の家の居心地はいかがですか???もしも居心地が悪いならば人生の定義を変える必要があるのです。例えば「高収入が幸福である」という定義を持って生きてきたがいつまで経っても違和感が消えない、、、この場合、、この定義を変える必要があります。

定義を変え続け最終的に定義を超える

一番大きな気づきとは観念が変わると見える世界が変わってしまうという事実です。この事実に気づくことが最重要です。これによってもう今居る世界に対し絶望も希望も求めません、なぜならば観念によって変わるという事実こそが凄すぎるからです。我々は小さな神です、大いなる神のエネルギーの中に住んでいます、だからこそ観念の変化がそのまま見える世界を変えてしまうのです。

こうなったらワクワクは思考の策略

大金持ちになったらワクワク

結果を期待してのワクワクは嘘のワクワクです。実際にそのような状況になるかは分かりませんし、そのような目的での行動では全体との調和が起こりません。例えば10億円を得れるからと10年間絶対にやりたくない仕事を我慢してやろうということになったとします。10年後のワクワクを期待するわけです。。。すると毎日が不調和な日々に襲われます、毎日毎瞬ごとに不調和が起こります。感情が湧き出し、思考が湧き出し、、自我が強化され全体との分離が進みます。恐ろしい不快感を感じながら10年間を過ごすようになります。

10年後のことを考えて何とか心を落ち着かす

10年後には10億円、これを考え続けることでなんとか精神状態を維持しようとしますがこれすらも思考です。思考が湧けば湧くほどに自我が強化されて全体との分離が進み全体との不調和が起きます。もしかしたら10億円を手に入れることができるかもしれませんが10年後には体は病み、人間関係は破綻し、家族も失いと、、、とんでもない状況が待っているかもです。

10億円手に入れたとて

10年間の忍耐の結果10億円を手に入れたとしましょう、、、、散財に散財をして豪華絢爛な生活をできたとしましょう。。。これで本当に心が晴れると思いますか???この豪華絢爛な生活は全部お金の力であって本人の力ではありません。どこまで行っても自信がつきません。これによって本当の人間関係が築けれることはありません。さらに、生活に飽きてきたときにそれを解消するにはまたお金が必要になります。そこでまたお金を使う生活をすればいくらお金があっても足りないのです。

最初からワクワクにいく

最初からワクワクすることをします。最初からワクワクすることを行います、見返り結果を一切期待することなく。これによって最初から全体との調和を味わうことができます、最初から平和、安堵の世界に入り込みます。自分が求めていたことがここだったという気づきが起こります。これさえしていれば最初から幸福だったんだという気づきが起こります。良い人生を送るって最初からできるのだという気づきです。結果を期待することで不調和が起き苦しかったという気づきが起こります。