思考が湧いても無視する

思考に巻き込まれればファンタジーの世界へ

ここはファンタジーの世界、全体が自分を遊ぶ場所、、、それは勿論その通りです。ですがこれを維持するためには思考に入り込む必要があります。思考こそがこのファンタジー世界を維持するためのプログラム言語だからです。逆に言えば思考が無ければこのファンタジー世界を維持できない、そして最も影響を与える思考が「自分が居る」です。この思考こそがこのゲームをスタートする絶対条件です。何千万回名前を呼ばれることで「自分が居る」が染み込みこのゲームがスタートしました。そしてこのゲームの中では幸福にはなれません。「自分が居る」が思考、空想、妄想だからです。事実(至福)ではないからです。

思考が湧いてきたら、、、

思考が湧いてきたら、、、そんなものは捨ててしまえばいいのです。思考は事実、現実は何も関係なくわき続けますがこれは事実、現実とは何も関係がないのです。考えることが事実、行動に関係するならば大いに考えることに意味がありますが何も関係がない、、ならば考えれば考えるほど損なのか?そうです。大損です。事実、現実は思考に関係なく淡々と進んでいきます。そして思考も淡々と湧き続けますがその思考は事実には何の影響力も与えないのです。

そんなはずはない、、、毎日思考が行動に繋がっている

ここは最大のポイントです。行動は思考がこれを行わせている、、、これが大嘘なのです。大誤算なのです。行動が起きることが最初に決まりその前に思考が湧くのです。大阪に旅行に行くことが最初に決まりその後に「大阪に行こう」が湧くのです。だから思考が行動に影響を与えると99.999%の人が勘違いしているのです。事実は逆なのです。つまり思考とは全く無視していい代物なのです。思考に価値は全くないのです。思考とはこの人生ゲームを堪能するための道具に過ぎないのです。そしてこの人生ゲームに住んでいる期間は絶対に幸福になれないのです。思考が人生に何も影響を与えていない、、ここを先ずは押さえるべきです。

五感が開く、現実が開く、悟りが開く

五感とは

我々はどこまでいっても現実に対し受け身です。目を開けば視界が入ってきます、匂いが鼻の中に入ってきます、音も耳に入ってきます、感触が手を通じて入ってきます、、、この現実を知るには我々は五感を通じて入れるしかない、、受け身に徹しています。現実とは根源です、この現実を堪能するには五感が開いていなければならないのです、五感が閉じていれば現実(根源)が入ってきませんから重苦しくなっていきます。睡眠不足の時のあの不快感とは五感を通じて現実(根源)が入ってこないからです。

五感を開くことを優先する

外でスポーツをすると爽快なのは五感が開くからです。五感が開く、現実が入ってくる、、根元(至福)に触れるです。サーフィンや登山など自然の中でのスポーツが病みつきになるのはこのためです。思考に触れると思考と仲良くなってしまい、、より思考が溢れてきます。これは空想の世界、ファンタジーの世界、喜怒哀楽の世界です。苦しい世界です。五感が開き現実に触れると、、現実が押し寄せてきます、現実とは根源であり触れれば触れるほどに根源が押し寄せてくるのです。根源とは=至福です。

五感を開けば思考が閉じる悟りが開く

五感を開くとは五感を鋭敏にしていくこと、そのためには自然に触れる、体を動かすことは役に立ちます。自然とは悟りそのもの、このエネルギーに触れると五感が強制的に開いていきます。あとは体を動かすこと、体を動かすとエネルギーが循環し五感が開いていきます。五感が開くと現実、根源が入り込んできますから自然と思考が湧かなくなっていきます。ファンタジーの世界が閉じ、現実(至福)の世界が開いていきます。思考が閉じ、悟り(現実)が開きます。

京都に飛べば世界遺産が目の前に広がる

完璧とは「自分」にとって完璧なのではない

京都に今日旅行に行けば駅に降り立って直ぐに世界遺産が自分の前に広がります。ニューヨークに今日飛べば目の前に高層ビル群が広がります。もしもこれが映画だったら大変とんでもないお金を使って撮影場所を設置しなくてはなりません。この世界が凄いのは一瞬で目の前にパリ、ロンドン、世界遺産、大自然が広がることです。私にはパリに見えるが友人にはロンドンが写るということは絶対にありません。もしもこれが映画ならばこんな凄まじい映画はないのです。

自分にとっての完璧とは

自分にとっての完璧とは、、、一億円を広い、大好きな車を購入でき、大好きな彼女ができて、大好きなマンションに住み、大好きな仕事の恵まれ、大好きな友人に恵まれ、大好きな趣味に恵まれることでしょう。ですがこの完璧さは一瞬で飽きがきて完璧ではなくなってしまいます。もっともっとが一生続くのです。それはなぜか?自分という存在がこの世界に誕生してしまったが最後、思考の世界(空想)に入り込んでしまいそこは喜怒哀楽を味わえる完璧な世界、至福が存在しない場所なのです。至福(根源)とは私というラベルが剥げ落ち根源だけが広がる場所です。自分が居る(思考)を前提に生きれば思考の世界に迷い込みます。

自分が居なくたって完璧

これまでの人生とはこの「自分」を幸せにするための人生でした、ところがこの人生はどこまでいってもお腹が空く、幸福になれない、、、なぜならばこの「自分が居る」こそが空想だからです。事実はこの体の中には「自分」が居ません。居ない存在の自分を幸福にするなど不可能だからです。だから高級マンション、高級車を自分に与えても幸福にならないのです。これが答えです。自分なんて居なかった、、、これに気づいた時目の前に完璧な現実が横たわります。

あの人は影で悪口を言っているのでは???

ここが完璧な場所

人間関係の苦しみとは、、実は影で悪口を言われているかも、、本当のところ嫌われているのでは??そんなとこりでしょう。ですが実際には影でとか私が居ないところで、、というのは100%ないのです。どういうことか、、、我々の目の前には完璧な事実が横たわっています、この完璧な事実とは裏が無いということです。私が知らない場所があるのならばそれは完璧ではない。私が認識していない世界などこの世に一切ないのです。つまり今目の前に広がっている世界以外に世界は100%ないのです。「私」が居ない場所での人間関係を一切気にしなくていいのはそんな場所はないからです。あったら完璧ではなくなってしまいます。

不穏な空気ならば

もしも友人が自身の前で不穏な空気を醸し出したならばそれは事実です。不穏な空気を醸し出したという事実は確実にあります、そうならばその時に相手にその理由を聞けばいいのです。間違っても影で悪口を言っているのでは???などの想像は禁物です。なぜならばそんな現場は存在しないのです。常に目の前だけが完璧な場所、完璧な場所以外に場所はないのです、だから目の前が完璧なのです。

目の前の事実に真面目に取り組む

根元は今目の前に横たわっていますから目の前の事実に大真面目に取り組むと五感が開き悟りが開きます。つまり根元に深く触れることができます。大真面目に取り組めない現実が横たわっているならば視界を変えてしまえばいい、常に大真面目に取り組める視界を求めていけば安泰です。目の前の友人の話に集中できないならば直ぐに逃げてしまえばいい、集中できないということは五感を開けない、結果悟りが閉じていきます。根源、全体に触れれなくなり雑念が湧き出しファンタジーに取り込まれ苦しくなります。

人生最悪の事態にどう取り組むか

先ず自分には何の責任もない、そして自分も居ない

多くの方の人生が重くなるのは、、自分の人生に責任を感じているからです。あの決断さえしなければ良かった、あそこでああ決めていれば今頃は、、あそこの判断ミスは一生後悔しても仕切れない、、、、終始こんな感じです。ですが実際にはただこの体を通じて思考、決断が湧き続けただけ、自分というラベルの貼られたこの体の中に行動が起こっただけのこと、、ただそれだけです。「自分」が判断ミスをしたのだというのは思考、空想の話です。「自分」はただのラベルです。自分という存在はどこまでいっても事実ではありません。

最悪に写るその事件は、、

そしてその最悪に見えるその事件は、、ただ起こっただけ、そしてそれは「自分」に対して起こったと思っていてもその「自分」も想像上の存在、実在しません。「自分」が居るという前提で事件が起こったから最悪と感じるが湧いたのです。例えば「自分」の家が燃えた、は最悪ですがこの「自分」が空想です、事実ではありません。よってただ家事があったが事実です。もしかして火の不始末があったかもしれませんがそれも「自分」は全くの非関与、ただそれが起きただけです。いや違う、「自分」が火を消し忘れたのだ、、そうではないのです。その「自分」がただのラベルであって実在しないのです。

脳があるから「自分が居る」と思うことができる

野生動物は「自分」という発想を持つことができません、それは脳が発達していないからです。人間だけが「自分が居るはず」と思うことができます。思考も行動も自分が行ったと思うことができるのです。事実はそういった思いが湧いただけです。事実ではありません。思考を捕まえて今の思考は自分が考えついたが湧いたのです。正しい反応とは今日はこの体を通じてこのような行動、思考が湧いてたなーです。そして明日は何が湧くのだろうか、楽しみだなーです。事実をただ観察すれば何も重いことはなく何も後悔がないのです。これは無責任ではなきのです、責任を取れるには「自分」がそもそも居ないという事実の話です。

全自動湧き上がりシステム

全自動だから凄いことが分かる

これまでの自分の行動が全部全自動であったということが分かりますと本当に凄いことが分かります。1日たりとも行動が起きなかった日がないのです、毎日確実に行動が起こりました、、、今日は結局一ミリも動かなかったなーという日がない、、毎日確実に動くが起き続けたのです。これが凄い。これが人間業ではない、、、完璧なのです。根源からの現れだから完璧なのです。もしも「自分」が体を動かしているならば365日動き続けるなど不可能、「根源」からの動きだから完璧なのです。

「自分」などほとんど居ない

朝から晩まで自分を意識して動いているでしょうか?間違いなくしていない、、、コーヒーを飲む際に「自分」が飲むぞという思考は湧かない、トイレに行くときに「自分」が行くぞはない、、寝る際に「自分」が寝るぞもない、、、自分などほぼ1日中出番はないのです、何か嫌なことがあった時に「自分」がなぜこのような目に、、と嘆くわけです。思考がわき続けこの時に苦しいのです。

「自分」がただのラベルだったと気づいても何も困らない

目に入る全ての現象には元々ラベルなど貼られていない、そして自分もラベルでしかない、、、この事実に気づいても何も困りません。なぜならば元々自分など行動の全てに何も関与していないからです。元々関与していないのだから自分がラベルだったと気づいてもその日から何も行動が変わらないのです。これまでも自分は何も影響していなかった、そしてこれからも何も影響しない、なぜならば自分はラベルだから。

それでも毎日が続く

根源からの現れだけがある

ファミリーレストランの椅子に座って店内を見渡してみてください、本当に面白いぐらいの感覚で新しいお客さんが現れそして消えていきます。1時間に集中して全お客さんが来るのではなく本当にバランスよく開店から閉店まで訪れます、これが脳内映像だとしたらなんと完璧な配列、タイミングでしょう。そしてこれが毎日続くのです、いや毎日ではなく一年、二年と続くのです。この脳内映像が凄すぎるのです。1日0人だった、ということがない。ある日だけに集中して100倍来ることもない、、当たり前だと思っていますがこの現象こそが完璧なのです。

脳内映像だと思うと完璧過ぎて非の打ちどころがない

車は一定の割合で目の前を通り過ぎていきます、1分間でまとめて車が通ることはない、そして雨も1分間でまとめて降ることもない、大便一年分が1日で出ることもない、、、完璧なタイミング、完璧な配分で全事象が起こり続けるのです。この脳内映像が凄すぎるのです。根源からの現れだからこそ何のミスもなく完璧なのです。そこに自分という存在を打ち込むことで自分にとって損得で事象を判断します。これでこの完璧な脳内映像は完璧ではなくなるのです。

起こっているだけで感動できれば

収入が増えたから幸せ、宝くじに当たったから幸せ、結婚できたから幸せ、、全部嘘です。収入が増えたのは自分、宝くじに当たったは自分、結婚したのは自分ですから、、そこに自分が鎮座している限り空想の中に住んでいます。自分とはどこまでいって思考のことです。思考でできた自分がお金を得てもそれは事実ではありません、お金を手に入れた自分という存在はどこを探しても居ないのです。宝くじに当たった自分はどこに居るのか、結婚した自分はどこに居るのか、、居ないのです。だから幸福になるわけがないのです。

車が目の前を通るだけで感動が起きる

車という個別の存在はない

我々が車と呼ばれる何かが脳内映像として移動していく姿に感動が起きます。トラックと呼ばれる何かが脳内映像として移動していく、、、それだけで不思議な感覚が湧き上がってきます。今まで何も感じていなかった事象に不思議な感覚が起こるのです。事実をしっかりと眺め実は名前など何もないことに気づいた後に過去名前を付けていた何かが目の前に登場すると驚くのです。急に不思議な感覚が湧き起こるのです。

何も起こっていなかった

車が目の前を通るというのは思考です、実際には車など存在せず脳内映像が移ろうだけです。この脳内映像の変化はいったいどうなっているのか、、こちらは何もしていませんがただひたすらに脳内映像が変化していくのです。朝起きて寝るまでこの脳内映像の変化は続きそしてこれが死ぬまで続いていきます。一瞬たりともこの変化は止まることなくそしてこれからも止まることがない、、この事実が凄いことです。

目を開けば何の努力も必要なく、、映像が入ってくる

本当に凄いのはこの事実、目を開くといつも違った景色が入ってきます、しかも何の努力も必要なく。食べ物を食べれば何の努力もなく味がして香りがして食感があります、ここに努力は皆無です。私たちは完全受け身の状態で全事象が入ってくるのです。完全全自動、完全受動体で。そしてこれらの事象は我々の五感なしでは一つも存続できない、、どんなに好きなAさんも嫌いなBさんも五感が無ければ一人も存続できないのです。全体がただ起こっているのです。

全てを自分ごとにする癖

全ては自分に向かって起きている

事実ではこの自分という存在とは何も関係なく現象が起き続けるだけです。自分など何も関係なく現象が起き続けそしてこの自分の体を通じても様々な事象が起き続けます。これを止めることができる存在は居なくただ淡々と事象が起き続けるのです。本当にただこれだけです、風が吹き、太陽が周り、雨が降る、この体も動き、発言もし、思考もする、、これが延々と起き続けています。そこに自分が居るという思考が湧き起こると事象は自分に向かって起きているという思考もまた起きるのです。

今までも自分とは何も関係なく起き続けこれからも起き続ける

これまでの自分人生もこの自分とは何も関係なくあらゆる事件が起き続けました、そしてこれからも同じように起き続けます。その事象を自分に向かって起きていると捉えるが起きるのか、自分など存在せずただ起き続けると捉えるかによって人生の重みが変わってきます。自分に起きたが湧くのか、ただ起きたが湧くのかです。事象に名前というラベルが貼られているこを見抜くと自分というラベルも剥がれ落ちていきます。

自分以外のラベル剥がし

自分というラベルを剥がすのは難しいものです、ですが周囲のラベルを剥がすのは意外と簡単まずはそこからスタートしましょう。雲という決まった物質は存在せず空に薄く広がった白い模様を雲と呼んでいるだけ、川という決まった物質は存在せず陸の間を流れる水を川と呼んでいるだけ、海という特定の物質があるのではなく水が広がる彼方を海と呼んでいるだけ、、、名前が付けられた事象は実は区切りなどなく、、こちらの勝手で区切りらしきものを設け呼んでいるだけ、、この作業を延々と続けそこに自分を付け加えたのが我が人生。

ただ生命現象が広がっている

これまでもそしてこれからも私の目の前にはただ生命現象が広がっていきます。名前というラベルを剥がしてしまえばたった一つの根源が移ろっているだけです。そしてそこに自分という個別の生命体など居るはずがない、、自分というラベルを最後に剥がすと全てになります。色即是空、空即是色があるだけです。こんなことが分かって何になるのか?その疑問が湧くうちは分かっていないだけです。

非二元では混乱する

主体客体

非二元という言葉は分かりやすいようで分かりにくい、、、主体客体の世界、、要は生命現象の中に別々の存在があると信じるか、ないと悟かの話なのです。そうです我々は生命現象に名前を付けるまでは主体客体、「私とあなた」「俺とお前」など一切ない世界に居たのです。これがノンデュアリティー、非二元、悟りです。恐ろしく単純な話です。悟りとはもともと名前がなかったたった一つの世界が広がっているだけ、、に気づくことなのです。

幼児はみんな知っている

名前を覚える前の子供は全員知っています、というか悟りの中にいます、というか悟りしかありません。なぜならば名前がない世界に居るのですから、そしてそこには自分が居るという発想もないのです。これが悟りです。こんな簡単なことなのか???そうです悟りとはこんな簡単なことなのです。悟りを難しく「考える」のは難しく考えないと簡単に見つかってしまうからです。

悟り、覚醒、一瞥体験、覚者

スピリチュアル用語では様々な言葉が使用されますがこれらは全部事実を逆に難しくするのです。こういった言葉を使うことで思考は悟りをどこか遠くの場所に押し込めようとするのです。幼児は全員が悟っていて全く難しいことではない、難しい言葉を覚えて悟りを奥深くに押し込んできただけです。そもそも名前のない世界に生まれた我々はいつでも元の世界に帰れるに決まっています、名前を思い出す前の一瞬は常に根元悟りが広がっておりその事実に触れるかだけです。思考が湧いてきたらそれによってドラマに入っていることを思い出すのです。この繰り返しで人は悟りに戻ります。