明日はあるのか

明日はない、今があるのみ

多くの人は明日に向かって生きていますが明日が来ることは一生ありません。今しか存在せず誰しもが今しか経験したことがないのです。というよりも今が完璧でありこの完璧を体感できれば明日に何かを期待することは不可能です。今が完璧でどうしたら明日に期待をすることができるのでしょうか。これが結論です。

今ってなに?

今とはただ現象が起き上がる空間です。これしか我々は経験したことがありません、そしてこの経験を記憶し記憶を繋ぎ止めることで過去を作り出しました。過去があるという思考が湧いたのです。それによって今度は未来があるという思考が湧きました。ですがそれらは全て思考が作り出したものです、その思考が湧いただけです。

自分がないことが明らかになっていく

どこをどう探しても自分というものを発見できないわけですがこれに我々は何十万年間騙され続けてきました。ストーリー上で。全く存在しない「自分」これが在るという思考が湧いたことで、、あいてにも「自分」が居ると予想しゲームを楽しんでいます。ということで問題などいままでも全く起きたことがなくそしてこれからも問題は絶対に起きえないのです。なぜならば問題を作り出してきた「自分」も相手も居なかったことが分かったからです。「ない」ことが分かったのです。

悟りへの興味が起こる理由

悟りに興味がなければ悟りは存在しえない

悟りに興味が出るのは良いことです、悟りに興味が湧かないのならばその人の人生に悟りは存在しえないでしょう。認識すらないからです。そしてこの興味は根源から確実に湧いていますから悟りが起こる予感を感じます。悟りを開くのは個人ではありません、個人に悟りを起こさせる力は皆無だからです。悟りとは起こることであって起こすことではありません。ましてや悟りを開く個人など絶対に存在しません、個人はどこまでいっても思考でしかないからです。そしてその思考も根源からただ起こっています。

悟りを開きたいもただ起こる

悟りを開きたいという欲求があるならばその欲求は根源から起こっています、間もなく悟りが起こる可能性があります、起こらない可能性もあります。そこは全くわかりません、ですが悟りに全く興味がない人には悟りが起きない予感がします、それは私の思考です。事実ではありません。多くの人が悟りに興味が湧くのは、、この人生が苦しいからです、この人生は何を達成しても苦しいままなのでは??ビンゴです。我が人生はどこまでいっても苦しいのです。釈迦は悟りそれを伝えました。

悟りを閉じたいは起きない

悟りを開きたいは聞きますが悟りを閉じたいという言葉は聞いたことがありません、なぜか?悟りを閉じたいは湧かないからです、根源から。個人とは悟りが閉じている状態、その個人から悟りが閉じたいが湧いたらおかしいのです。個人は悟りが閉じて苦しんでいる存在なのです、その個人から悟りを閉じたいは湧かない、、悟りを開きたいという欲求は個人が苦しいからこそ起こるのです。個人というファンタジーに迷い込んだ人間から起きる欲求こそ悟りです。悟りたいという欲求は正しいのです、正否はないのです正しくもないのですが悟りたいは個人の永遠のテーマなのです。個人という存在が実は思考でしかないことを見破るが起きるまで延々とこれが続きます。

目の前の全体は本当に全体なのか???

九州で土砂災害が、、、

毎日ニュースを騒がす様々なニュースは本当に起きているのでしょうか????答えは起きていません。あなたの目の前以外で何かが起きるのは不可能なのです。事象というのはあなたの五感無くして起きようがないのです。ですから全てのネットニュースは見なくて大丈夫です。なぜならば何も起きていないからです、あなたの目の前以外では。これは物理学です、あなたの五感がなければ何かが起きる起きたということを証明できないのです。

九州で戦後最大の土砂災害が、、、

こんなニュースがあっても一切気にする必要がありません、なぜならばあなたの目の前で土砂災害が起きていないならば起きていないのです。いやそんなことはない、九州でそれを目撃をした人が何千人も居る、、、しかしそれは情報です。事実ではありません。目の前に全体があるにも関わらずあなたの目の前以外で何かが起きるならばもう目の前は全体ではないのです。非全体になってしまいます、非神、非ワンネス、非オールザットワンになってしまいます。

目の前は絶対に全体

覚者が話す内容は一致しています、目の前が全体だった、目の前が全てだった、いまここしかない、、、全会一致でこの意見です。先ずはそこを認めてしまうことからスタートしましょう、すると不思議にも全くニュースに興味がなくなります、そしてニュースを見ていないにも関わらず何も問題なく毎日が進んでいきます、それは当たり前のこと、、、目の前以外に世界(全体)は存在しえないのです。

人に関心が高いのは悟りが閉じている証拠

人に関心を持つのが難しくなる

あなたの目の前に映る人々は全自動で動いています。根源からの動きがそのままあなたの前で行われているだけです。その体の中に確実に居るであろう魂のような存在は目に見えないのですから絶対に居ないのです。もしもあなたが認識できない世界があるのならば目の前のそれは完璧では無くなってしまいます。ということで自分が認識できないことを色々想像するのは辞めましょう、やってもいいのですが全く意味がありません。なぜならば事実としては存在しないに決まっているからです。

この人は家ではこんな感じであんな感じで

TVで犯罪者が警官に連れられて車に行くのを見たことがある人は多いでしょう。多くの人はその光景を見てこの人はなぜやってしまったのか?どんな家庭環境で悲惨な目にあっていたのか、、、と推測したりします。ですが事実をお伝えするとそんなものはありません、あなたが見ている世界以外に世界は存在しえないからです。ですからその犯罪者の幼少期は絶対に存在しないのです、悲惨な家庭環境も皆無です。ですがもしもあなたが彼につて調べればあらゆる情報が手に入るでしょう、そうしたらその情報だけが浮かび上がったというだけです。それ以上も以下もありません。

今目の前で起きている事実以外に関心を持たない

今目の前に起きている事象だけが全てであってそれ以外は絶対にない、、、この事実を先ずは理解しましょう。病弱な両親も、子供も、今目の前に居ないのならばこの世には存在しないのです、もしもあなたの目の前以外に存在するならばこの根源は完璧ではなくなってしまいます。ということであなたの世界で心配しなくてはいけない人は居ません、もしも目の前で苦しいでいるように見えるならば救ってあげればいいのです。

地球の裏側の戦争難民は

地球の裏側では戦争難民が溢れ、、、という情報を見てこれは大変だ、、、寄付をしなくては、、、と心配する人が居ます。ですがもしもあなたの目の前にその難民が居ないのならば事実としてはこの世には居ません。もしも居るならば目の前の現実(完璧)は完璧ではなくってしまいます。目の前に全部あるから覚者は悟り全体に気づくのです。全体は目の前で全体だからこそ全体なのです。地球の裏側が存在するならば目の前の全体が全体では無くなってしまいます。

「自分が居る」を湧き続けさせるには「対象」が必要になる

日本が戦争に巻き込まれれば日本が実在することを疑わなくなる

日本という国は実は実在しません、日本とはただの名前であって国境も実在せず法律上決めた文字情報です。ですが日本対中国などの戦争が起これば間違いなくその事実を多くの人は忘れ「日本はこれから大丈夫か???」と心配になるはずです。その時人の思考には「日本」がガッツリ存在するはずです。ですが日本という国は実在せず名前に過ぎないのが事実です。

人はトラブルをあえて起こすことで「自分」を確認する

人とのトラブルは確実に「自分が居る」を湧かせます。トラブルを起こすには「自分」と相手が確実に必要になるからです。トラブルを起こし続ける人はこれが起き続けていると思えばいいのです。トラブルがなければ「自分が居る」を維持できない、ゆえにトラブルが起き続けます。例えば目標がある人はトラブルが必要なくなります、なぜならば目標(対象)が「自分が居る」を湧かせ続けることができるからです。

金メダルを目指すのは最高の自分維持

金メダルを目指します、アスリートが話すこの言葉の奥には金メダルを目指す自分の存在を強固にできるというメリットがあります。金メダルを目指す『誰か』が必要になり、、、「自分が居る」が湧き上がるのです。金メダルを目指すあなたは居ませんよ、、、誰もが信じようとしないでしょう。ということで人はトラブルや、目標を設定することで「自分が居る」を湧かせ続けていきます。

怒りが起きた時の観察

怒りはどこから起きたのか?

怒りという感情が湧き上がったときに強く「自分が居る」が湧いてきています。自分が騙された、自分が馬鹿にされた、、、という思考には当然自分が居るがセットになっています。すると怒りという感情が湧いてきます、、これで自分が怒っているという思考が湧いてきます。この思考が怒りが湧くを継続しやすくします。事実では何も起きていません、ただ怒りと思考が湧いただけです。怒る自分と怒りの対象はただのラベル、実在はしません、名前という思考は実在しますが、、

これが分かると真剣に怒れなくなる

怒るには対象が必要ですし、怒る自分も必要になります。何も対象がなく怒る自分も居ないのに怒ることは難しいでしょう。役者さんは「ハイ怒って」と監督から指示が出たら対象の誰かを「想像し」実在するかのようなレベルまで集中します。こうしなければ怒りは絶対に湧いてこないのです。つまり怒るには「対象」が絶対に必要なのです。悟ってしまうとこれができない、、怒るべき「対象」が存在しないことを分かってしまうからです。本当はこの人は実在しないのでは???そう思考しながら怒るのは不可能なのです。

怒るぞ、怒るぞ、、、不可能

今日は絶対に怒ってやる、、、このときに絶対に対象が必要になります。それは政治なのか、ニュースなのか、芸能人なのか、友人なのか、上司なのか、、、、とにかく何かが必要なのです。そして怒るのは「自分」という存在無しでは不可能でしょう、、、二元の世界にどっぷりと浸からなければ不可能なのです。

働いているときに何が起こっているか

働く自分は当然居ない

職場で働くときに一体何が起きているのでしょうか、、、先ずは会社が実在するという思考の湧き上がり、これは絶対に必要になります。次に会社に勤める自分が居るという思考の湧き上がりこれも必要になります、そして上司Aが確実に実在するだろうという思考も必要になる、部下Bも実在するはずという思考も必要になります。全部が全部必要になります。

事実だけを説明すれば

会社という法人など実在しません、そこには建物があり、机があり、A会社という名前が在るという事実だけです。名前とは思考ですからそういった思考が湧き続けていることになります。上司Aの体の中にAが居るというのは想像でしかなくこれは事実ではありません。部下Bの体の中にBが居るはずというのも思考ですからこれも事実ではないのです。五感で感じる事実以外は事実ではありません。

会社勤めが疲れるのはファンタジーの世界にどっぷりと浸かるから

これはあなたの仕事、これはあなたの責任、これはあなたがミスをした、、会社に勤めれば「自分」という存在を徹底的に意識させられます。事実としては何も名前が付いていない上司、部下があなたに話しかけてくるというただこれだけなのですが、、、これによって「自分が居るはず」という思考は毎日湧き上がり続けることになるのです。野球選手がバッターボックスに立つと緊張するのは全員が「自分」を見ている、だから「自分は確実に居る」という思考が湧き上がるからです。本当は見ているファンの中に誰かは居ず、バッターボックスに立っている人間の中に自分という存在は居ないのです。これが事実です。あくまでも居るはずという思考が湧いているだけです。

理論としては簡単

自分もあなたも全部ラベルだけ、ラベルが剥がれれば全体だけが残る

理屈はこれだけです、悟りは超シンプルな理論なのです。名前がついていた物など何も無かった、自分もあなたも、コップも、机も、、、ただそれだけ、、この目の前に在る全体だけがあった。音を聞く自分も、話をする自分も、生活する自分も居なかったというこれだけです。これをどんなに頭に入れても我々はこれを実感できません、これが悟りの難しさなのです。話しかけられれば一瞬で自分が戻ります、スーパーのレジでもお釣りを渡される瞬間に自分を思い出します。悪口を言われてしまえばその瞬間に自分を思い出します。こうして我々は自分から縛られ続けて死にます。

自分が居ないという事実をどこまで実感するか

例えばAさんという友人から悪口を言われた時、事実ではAさんという存在は居なく、言われた自分も事実としては絶対に居ないのです。悪口という言葉が在ったという事実しかないのです。これをどこまで実感として感じれるかが鍵になります。Aさんと呼ばれる人の体の中にはAさんは絶対に居ないのです、居るというのは居るはずだという思考が土台になっています、Aさんとの会話はAさんが実在するはずだという思考が湧いただけということになります、そしてそれを聞く「自分」も間違いなく実在せず「自分が居るはずだ」という思考が湧いたという事実しかありません。

自分が居るはずだという思考とあなたも居るはずだという思考がただ湧いただけ

自分と友人が会話をするためには自分が居るはずだとAさんも居るはずだという二つの思考が湧く必要があります。これを我々は毎日行なっています。自分も居るし、自分に話かかけるAさんも居るはずだ、、がエンドレスに湧き続ける。逆にいえば湧き続けなければ会話が成り立たないのです。事実としては自分もAさんも居ないのですから、ということでこのストーリーに埋没し続けるには思考の湧き続けが絶対に必要になります。これが事実です。

全てが「決まっていないが決められている」世界にようこそ

決まっていないが決められている

川を流れる葉っぱの動きは何も決まっていない、、ですが決まっていないは完全に決められています。これが我が人生の答えです。決まっていないが決まっているのです。我々から発せられる思考も行動もどれも決まっていないが決まっているのです。ですから我々の老後についても決まっていないが決まっているということです。我々の将来は決まっていないが決まっている、、ということになります。これは絶望なのかそれともお気楽なのか、、ということです。私はこれ以上のお気楽はないと思います。

一生懸命考えていますが、、

一生懸命考えていて、、日々慎重に考えて行動していますが何か?どんなに一生懸命考えて決めているつもりでも実はその思考は何も行動には影響されていません、行動は風任せ、、その時の風向きによって決められます、それまでの思考など何も関係がなく、、、これが事実です。では一生懸命考えたのは意味が無かったのか???結論を言いましょう、全くありません。これが答えです。自分たちの行動は何一つ決まっていないのです、決まっていないのだからそれまでの思考など何も関係なく決まるのです。

運任せ風任せ

刹那的にフラフラ生きることを「運任せ風任せ」などと表現しますが、、、いやいやこれしかないのです。運任せ風任せしかない、、湧き上がる思考も運任せ風任せ、、、湧き上がる行動も運任せ風任せです。どちらも運任せ風任せですから因果関係などあろうはずがないのです。そんな人生に何の価値があるのか?という話ですが人生の価値観は喜怒哀楽経験ぐらいでしょう、、、そして喜怒哀楽に疲れた時に至福に出会う、、この出会いは至福ではない場所を経験できないと体感できない、、ということです。

思考が先か、行動が先か

全ての思考も全ての行動もただ湧き上がるのみ

本当のことを言ってしまえば行動が先でも思考が先でも実はどちらでもいい、なぜならばどちらもただ湧き上がるだけだからです。ただ湧き上がる思考、行動に委ねるしかなく人生とはこれを堪能するだけなのです。思考も行動も湧き上がるだけならば我々はそれに従うしかありあせん。ではその思考と行動に因果関係はあるのか?ということですが実は何もありません。湧いてくる思考も適当、湧いてくる行動も適当、、ということになります。

湧いてくる行動に先んじて思考が湧くこともある

アメリカに旅行に行く、その行動が湧いてくる時に、、、その前にアメリカに行こうが湧いてきます。思考は好き勝手に湧き続けますがそれが行動に繋がるか否かは何も分かりません。ただ行動が決まっている場合にはそれに合わせて思考が湧く場合がある、、これだけです。どちらにしても「自分」にはこれを決める力などあるわけがなく、、そして自分など居ません。居ないのだから「決める」などあり得ないのです。

もっと良い方法があったのでは、、という苦しみ

人生とは後悔の連続です、あの時もっとこうしとけば良かった、、あの時あの選択をできていれば、、、常時このパターンです。ですがこれはありえないのです。先ず大前提として全ての行動は根源からの現れでありそこに自分は完全非関与です、そしてその決断に関してあらゆる思考が湧きますがその思考すらも非関与です。つまり全ては根源の成すがまま、、個人などそこには何の関与もできない、、そして個人は居ない、、これが答えです。我々は個人の人生に関して責任を持って運営してきたという自覚を持っていますがそれは大きな勘違い、、何一つ個人は関与していないのです。これを絶望と取るか無責任と取るか、お気楽と取るか、、それすらも根源から湧いてきます。