理論としては簡単

自分もあなたも全部ラベルだけ、ラベルが剥がれれば全体だけが残る

理屈はこれだけです、悟りは超シンプルな理論なのです。名前がついていた物など何も無かった、自分もあなたも、コップも、机も、、、ただそれだけ、、この目の前に在る全体だけがあった。音を聞く自分も、話をする自分も、生活する自分も居なかったというこれだけです。これをどんなに頭に入れても我々はこれを実感できません、これが悟りの難しさなのです。話しかけられれば一瞬で自分が戻ります、スーパーのレジでもお釣りを渡される瞬間に自分を思い出します。悪口を言われてしまえばその瞬間に自分を思い出します。こうして我々は自分から縛られ続けて死にます。

自分が居ないという事実をどこまで実感するか

例えばAさんという友人から悪口を言われた時、事実ではAさんという存在は居なく、言われた自分も事実としては絶対に居ないのです。悪口という言葉が在ったという事実しかないのです。これをどこまで実感として感じれるかが鍵になります。Aさんと呼ばれる人の体の中にはAさんは絶対に居ないのです、居るというのは居るはずだという思考が土台になっています、Aさんとの会話はAさんが実在するはずだという思考が湧いただけということになります、そしてそれを聞く「自分」も間違いなく実在せず「自分が居るはずだ」という思考が湧いたという事実しかありません。

自分が居るはずだという思考とあなたも居るはずだという思考がただ湧いただけ

自分と友人が会話をするためには自分が居るはずだとAさんも居るはずだという二つの思考が湧く必要があります。これを我々は毎日行なっています。自分も居るし、自分に話かかけるAさんも居るはずだ、、がエンドレスに湧き続ける。逆にいえば湧き続けなければ会話が成り立たないのです。事実としては自分もAさんも居ないのですから、ということでこのストーリーに埋没し続けるには思考の湧き続けが絶対に必要になります。これが事実です。