悟りへの興味が起こる理由

悟りに興味がなければ悟りは存在しえない

悟りに興味が出るのは良いことです、悟りに興味が湧かないのならばその人の人生に悟りは存在しえないでしょう。認識すらないからです。そしてこの興味は根源から確実に湧いていますから悟りが起こる予感を感じます。悟りを開くのは個人ではありません、個人に悟りを起こさせる力は皆無だからです。悟りとは起こることであって起こすことではありません。ましてや悟りを開く個人など絶対に存在しません、個人はどこまでいっても思考でしかないからです。そしてその思考も根源からただ起こっています。

悟りを開きたいもただ起こる

悟りを開きたいという欲求があるならばその欲求は根源から起こっています、間もなく悟りが起こる可能性があります、起こらない可能性もあります。そこは全くわかりません、ですが悟りに全く興味がない人には悟りが起きない予感がします、それは私の思考です。事実ではありません。多くの人が悟りに興味が湧くのは、、この人生が苦しいからです、この人生は何を達成しても苦しいままなのでは??ビンゴです。我が人生はどこまでいっても苦しいのです。釈迦は悟りそれを伝えました。

悟りを閉じたいは起きない

悟りを開きたいは聞きますが悟りを閉じたいという言葉は聞いたことがありません、なぜか?悟りを閉じたいは湧かないからです、根源から。個人とは悟りが閉じている状態、その個人から悟りが閉じたいが湧いたらおかしいのです。個人は悟りが閉じて苦しんでいる存在なのです、その個人から悟りを閉じたいは湧かない、、悟りを開きたいという欲求は個人が苦しいからこそ起こるのです。個人というファンタジーに迷い込んだ人間から起きる欲求こそ悟りです。悟りたいという欲求は正しいのです、正否はないのです正しくもないのですが悟りたいは個人の永遠のテーマなのです。個人という存在が実は思考でしかないことを見破るが起きるまで延々とこれが続きます。

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