経験からしか気づきを得れない理由

実は悟っている

我々は最初から悟っているんですよ、、、スピ系の書籍にはこの言葉たまに登場します。これは事実で我々は景色を眺める瞬間実は何も名前がない世界を一瞬垣間見ます。名前が全く発動しない瞬間があります、これが悟りです。目の前には名前が一切付けられていない根源がそこに在るのです、毎瞬、毎瞬、、実はこの根源を我々は眺めています。ですが次の瞬間には名前がある世界に引き戻されるわけです。五感は毎瞬、毎瞬この根源悟りに触れているわけです。

経験するとは五感のこと

考えていても悩んでいても気づきを得れないのはその行為に五感が関与していないからです。五感がなければ根源に触れることができないのです、根源は五感でしか触れることができません。なぜならば五感は常に根源に触れることができる武器だからです。もしくは五感が無ければ根元は存在できないとも言えます。dont think ,feelこれはブルースリーの言葉ですが根元、悟りは感じるものなのです。

悟りなど大袈裟なものではない

我々人類は悟りをどこか遠い遠い場所にある未知の世界の場所に存在するものだと想像しました、ですがこれも思考の策略、この名前ドラマに閉じこもっているための仕掛けでしかありません。なぜ悟りを恐ろしく遠い場所、究極の境地にしたかと言えばそれだけ実は近い場所にあり誰でもこれは発見できてしまうからです。だからこそ遠い遠い場所にあると思い込ませたのです。実は我々は毎瞬悟りに触れています、そのことに自覚的になるだけです。

名前のない世界から名前のある世界へ

先ずは言葉ありき

イエスキリストは聖書の出だしで「先ずは言葉ありき」と綴ったようです。我々人類は言葉を開発するまでの間何も名前が決められていない世界に住んでいました。鳥も存在せず、虫も存在しない、農作物も、葉っぱも、木々も何も存在しない世界です。いやいや昔から動物、植物は存在していたはずだ、、そうではないのです。現代人が認識する形での固有の存在がないということです。木は土の上に育ちますが土と木という名前がない時代おいてはそれらは一体化しています。ですから木が枯れるという現象も木が育つという現象も古代にはないのです。ただ生命現象が移ろうのみ。

自分すら存在しない

そうだとすると自分は孤独だったのでは???違います。自分という言葉も自分を意味する名前も全くないのですから「自分」が居ないのです。ただ動く手や足があり動く口がある、、しかもそれらにも名前は存在しない、、自分が生きている、、という発想もなくただ毎日が移ろうだけです。自分の餌が取られた、、、こんな発想もない、、だから嫉妬や妬みも存在しえない、、現代人が抱える嫉妬、妬み、嫉みはありっこないのです。我々はには言葉を覚え「自分」と「あなた」という存在をこの世界に作り出し争いすらも発明したのです。

喜怒哀楽という発明

古代人には喜怒哀楽がありません、先ず「自分」という存在がないのですから「自分」が何かを達成した「自分」が失敗した「自分」が恨まれた「自分」が成功したという発想がないのです。このような世界でどうやったら喜怒哀楽が起きるのでしょうか?現代人が抱える感情「喜怒哀楽」は実は言葉の発明後に発達したものなのです。喜怒哀楽はそもそも存在しないのです。

苦しいなら「自分」を捨ててしまう

そもそも自分という存在などこの世にはなく誕生後に学んだアイデアでしかありません。このアイデアによって人生が苦しいのならば「自分」というアイデアを捨ててしまった方がいい、「自分」というアイデアを持ってしまったゆえに不幸になったならば「自分」などない方はいいのです。滅茶苦茶な発想かもしれませんが「自分」などアイデアでしかないのです。

とはいえこの社会で生きるには

とはいえこの社会で生きていくには名前が必要になります、住民票も免許証も名前が無ければ発行してもらえません。ということでとりあえずは名前を保持しますが実際にはこれはラベルでしかないことを思い出すべきです。「自分」も「あなた」もラベルでしかなく完全独立した生命体ではないのです。名前など暫定的に付けたラベルに過ぎないと腹を括ってしまうのです。

名前さえなければ何も起きていない

日本が今年は景気悪化、アメリカが情勢不安、ロシアが外交強化、、、全部これらはラベルに過ぎず、、本当は何も起きていません、、、人類が勝手に名前をつけてこの生命現象に意味をもたせただけです。事実は生命現象が移ろっているだけです。我々は生まれてこの方本当は何も起きていない世界に名前をつけさもあらゆる事象が起きているかのように生きてきました。そしててーへんだてーへんだと騒ぎ立て時に驚き、時に落ち込み、時に喜び、時に悲しむ、、というドラマを演じているのです。

本当は何も起きていない

大きな魚が小さな魚を食べる、、これは事実でしょうか?違います。魚という名前がついた生命体などこの世には実在しません、そこには動く何かがあるだけです、もっと正確に言えば脳内映像が変化しているだけです、、その脳内映像に名前を付けて「大きな魚」が「小さな魚」を食べるというファンタジーを作り出したのです。そしてそのファンタジーを観察して悲しんでみたりするのです。「水槽の中に魚が死んだ」は事実ではありません。事実は「脳内映像が変化した」これだけです。

この世界が苦しい、、当たり前

苦しみも、悲しみも、何もない世界

なぜ人は悟りに興味があるのか???それは当たり前の話です、生命現象に名前さえ付けなければ人はその瞬間から至福の境地に戻るのです。全生命現象に苦しみなどありません、人間が勝手に名前を付け自分も作り出した時に初めて孤独、苦しみ、悲しみ、恐怖が生まれたのです。自分というこの世から完全独立した存在を思考の中で作り出したときに人間は苦しみを開発したのです。人間の脳が苦しみを発明したと言っていいでしょう。本当はただ生命現象が変わり続けるのみでそこには苦しみなど皆無なのです。

名前など一切ない世界に苦しみは存在しない

人間はこの体に名前を付けてしまったがゆえに自分がバカにされた自分が褒められた、自分が虐げられたという想像をするようになりました。事実はこの自分など存在しませんから自分が虐げられたなど空想の世界丸出しです、そして虐げられたと言って涙まで流すのです。思考にはそれほどの力があるわけですが事実は何も起こっていません。虐げる個人は存在せず虐げられる個人も存在しない、、これが事実です。

ユートピアなど大嘘

我々人類はどこか遠くにはユートピアのような平和な世界が在るのではないかと期待をしますが、、こんな滑稽な話はないのです。なぜならば今広がる世界には争いはそもそも全く起きていないのです、人間が勝手に名前を付けて争っているかのように見ているだけなのです。こんな自作自演はありません、本当に間抜けなことを人間はしているのです。この世から名前を無くしてみてください、襲われる個別生命体は存在せず襲う個別生命体は存在しないのです。ただ変化だけが起きています。

あらゆる生命現象に名前をつけてファンタジーにした

名前など何もない世界

この世の生命に名前など本来全くありません。草に名前を付けたのは人間で動物に名前をつけたのも人間です。人間は見える範囲の全てに名前をつけてさも独立した何かがあるかのうようにしました、事実では何もない、、ただ生命現象が移り変わるだけです、その中に居る人間にも名前などなく後付けで名前をつけその中に独立した何者かがいると勝手に想像しているだけです。この現象界に名前が最初から付いているものなど皆無です。

思考が紡ぐファンタジーの世界にようこそ

名前が一切ない全体、根源の現れに名前をつけて我々人間は進化していきました。生命現象に名前をつけてそれを記憶しそれを後進に伝えていったのです。そのようなことが起き続けていきました、その結果名前がつけられた独立した何かがこの世界には溢れまるで独立しあった存在同士の争い、共闘、和平、共存が繰り広げられているように見える世界が生まれたのです、人間の思考の中だけのファンタジーが誕生したのです。そもそも争うなど一切ない世界に名前を付けて独立した何者かが溢れたことによって争っているように見える世界が誕生したのです。

全ての生命現象から名前を取っ払えばあら不思議、、平和が鎮座する

試しに全ての生命現象から名前を取り除いてみてください、、、争いは無くなってしまいます。チーターがシマウマを襲ったという映像においてチーターが居なくなり、シマウマも居なくなれば何かが何かを取り込んでいるように見える映像に変わります、これが真実です。ここには争いが起きようがないのです。名前がない世界には争いが存在できないわけです。

勝手に名前を付けて恐ろしい世界になったと嘆く自分

体の中を観察すれば善玉菌が悪玉菌を殺す、悪玉菌が善玉菌を殺すなどの表現がありますが、、それもせ明現象に名前を付けただけんことであって変化が起きただけです、名前さえなければ争いは起きようがないのです。ただ変化が起きているのみ、、、これは人間社会も同じで名前がついたから争いと表現されますが名前がなければ変化がただ起こっているだけ、、、その変化に対し自分が居るという思考と感情という思考が湧き続けているだけです。全生命に名前を付けてファンタジーの世界にし自分も作って自分ストーリーを日々奏でているのです。自作自演にもほどがあります。

だから人は悟ると何もないと言う

覚者は全員こう言います、何も無かった、、、当たり前の話です。名前は人間が発明した技術であって名前が発明されるまではこの生命には何もなかったのです。そこには生命現象しかなくそして今もそうです。人間が発明した名前の技術が継承され続けているだけです。この世の苦しみとは名前を付けまくった人間が自分という存在(ファンタジー)を作り出しこの自分という檻の中に完全に閉じ込められてしまった錯覚を生きているからです。元々は何もなくそして今も何もないのです、独立した何者かが確実にあると信じ合う世界、独立した何かがあるという共有の中で生きる時のみ苦しみが湧いてきます。

どんより重い、空想の世界に居るから

爽快、全快、至福の世界の住人

我々は全員が今も爽快、全快、至福の世界の住人です。というよりもしれしかない世界に住んでいます。にも関わらずなぜ多くの人はどんよりと重い空気を漂わせているのでしょうか。それが空想の世界に片足を常に突っ込んでいるからです。今年は景気が悪い、日本は壊滅状態、要介護者が漠増する、、こんなニュース(思考)を真剣に信じこれに対策をしようと思考し続ける、、我々は事実ではなく常に空想、思考の世界に片足をどっぷりと突っ込んでいるのです。会社を辞めたら生きていくことはできない(思考)老後に備えて2000万円を貯めなくては(思考)将来性ある人と結婚しなくては(思考)どれもこれも思考です。事実(至福)では全くないのです。

なんで日本は生きづらい国になってしまったんでしょうかね(思考)

日本という国が在るというのは思考です、生きづらい国なってしまったというのも思考です。思考思考思考、、、どこまでいっても我々は思考の中に足を突っ込んでいます。事実は日本という国は存在しません、日本というのは人間が名付けた名前でしかない(思考)国というのも名前です、これは事実ではない、、、事実ではない思考に注力するとその場所が苦しいのです。いい加減気づかなくてはならないのです。事実では国もなければ会社もない、将来も存在せず、老後があると思うのも思考です。この思考の中が苦しいのです。

将来性のある人と結婚したら幸せ(思考)

将来性のある人と結婚したら幸せになるだろうというのは思考です、ですからそのために一生懸命婚活をするのも苦しいのです、事実ではないから。将来性のある人は実在せずこれは思考が勝手に思いついたものです、事実ではありません。将来性があるだろう人の中にが自己は実在せずこれも空想、思考です。その人と結婚するために努力する自分も実は実在しないのです、これも思考です。目の前に至福が在るにも関わらず一生懸命思考(地獄)に生きようとするのが人間です。

この人はこんな人、苦しみの世界にようこそ

この人はこんな人だろう、、

新橋の赤提灯に行けば、、、上司の悪口、部下の悪口、同僚への妬み、、、様々な会話が聞けますが、、その多くは人の性格、能力の話です。なぜ新橋の話題は何十年経っても変わらないのでしょうか、、、これだけ毎晩悪口が轟けば解決策を発見する人が現れてもおかしくはない、、、誰かがこの話題を辞める方法を見つけてもおかしくはない、、、結論を言いましょう、、、あの人はこんな人だは、、、全部思考です。あの人の中に特定の人格を形成する何かがあるというのは予想、思考でしかありません。あの人の体の中をかっぽじってそれを発見した人は皆無なのです。にも関わらずなぜこんな話題がエンドレスに続くのでしょうか、、、

実在しない何かを話題にする愚かさ

憎たらしい上司の体の中には実在するだろう何か(人格を形成する)があるはずだ、、そしてその何かがどうしようもないから俺は苦労をさせられている、、これが人間関係の全てです。ですがこの何かを発見した人類は皆無でこの俺を発見した人類も皆無なのです。事実では何もないのです。となれば空想、思考の世界、推測の世界に一日中思考を巡らせているから苦しいだけなのです。農家が楽なのは農作物の中に何かしらが居ると信じていないからです。漁師が楽なのは魚の中に何かしらの存在が居るという思考がないからです。人間の中になにかしらの存在が居るというこの発想を捨ててしまえばいいのです。

人に興味を無くすのではない、居ないことを見抜く

俺がこれだけ世話をしたのにあいつは不義理な奴だ、、、、この思考こそが苦しみそのものです。不義理な奴の体を叩き割ってみればそこには奴は全くいないのです、答えはその行動がただその奴を通じて起こっただけ。そしてこれだけ世話をした「俺」を叩き割ってみてもそこには俺が存在しないのです。俺の存在も奴の存在も発見できない、つまり空想予想の世界の住人同士でコミュニケーションをとっていただけなのです、この世界こそが苦しいのです。奴も俺も苦しい世界に居ただけ、これが事実です。

事実に触れれば幸福になり空想に触れれば不幸になる

あの人は素晴らしい、、、でも苦しい

私の会社の社長は素晴らしい、だからこの会社に勤めていて幸せ、この幸福は一瞬で終わります。なぜならばその素晴らしい社長であるというのは思考だからです。絶対に事実ではない、その社長の体の中に独立した自己は存在していませんからあくまでそれは予想です。予想とは空想ですから空想の世界に顔を埋める行為をすればそこは息が苦しい場所なのです。

素晴らしい人も、酷い人も存在していない

事実はこうです、素晴らしい社長など存在しません、酷い社長も存在しない、、、事実を注意深く見ますと社長の体の中に誰かが鎮座しているだろうというのは推測であり事実ではないのです。あの体の中に独立した人格があるというのは予想です。つまり思考なのです。褒めても貶してもそれは事実ではない、、事実ではない世界に入ると苦しくなります。事実こそが絶対幸福、安堵、安心です。

私の旦那は本当に優しい人、、、

私の旦那さんて本当に優しくて素敵な人、、、こんな言葉を発する人の表情をよーく観てみてください。不安で震えているはずです。旦那さんの体の中に人格を形成する何かは存在していませからその人は空想にどっぷり依存しています。事実ではなく空想予想という思考の中に住んでいます。心地よさを感じる、居心地の良さを感じる、良い雰囲気を感じる、、、ただそれだけが事実です。こんな感情を湧かしてくれる素晴らしい人格が旦那の体には住んでいるというのは空想ですからその場所は苦しいのです、事実ではなく思考に意識が向いているのです。

人に依存しない

人に依存している期間は本当の穏やかさには出会えないのです。なぜならばその人の中には誰も居ない、、つまり空想に依存をしているから常に苦しいのです。人の中には何もなくこの先に何があるかは全くわからないことを悟ったら人に依存すたいという思考は湧かなくなります、これが幸福です。ただありのままの現象に触れ続けることこそが真の幸福なのです。そして先のことは全部決まっていることに気づくと特定の誰かに依存するという思考は湧かなくなります。

今ここで悟りを開く

今この場所が爽快

爽快であるのに条件が必要ならばそれは私というストーリーの中にい住んでいます。幸福であるのに条件が必要ならば私というストーリーの中に住んでいます。我々の本質は爽快そのものですから爽快であるために条件など全くいらないのです。覚者と呼ばれる人々が穏やかそうに見えるのはそれは本質が穏やかそのものだからです。自分を手放した覚者とは穏やかそのものにシフトした状態、もはや人間ではありません。人間という器を通じて全体が語りかけているだけです。

開く自己がいない

悟りを開くという言葉は人間が覚醒するイメージがありますがこれは間違い、体に住んでいるはずの自分は実はいなかった、自分が居るという思考が湧いてこない状態を言います。人間の体を通じて自分が居るという思考が湧いていなのがその思考がもはや湧いてこない、、この状態が悟りです。悟りを開く自己はいなかったという気づきが湧くことです。

嬉しい、楽しい、幸せを掴む自己がいない

嬉しを感じるのに自分は必要ありません、楽しいを感じるのに自分は必要ありません、幸せを感じるのに自分は必要ありません。ただその感情が湧くだけで何も問題はない、、、ところが嬉しい、楽しい、幸せを感じる自分が居るという思考が湧いてくる、、、感情を所有する自分が居るという思考が湧き続けます。これが苦しみを湧かせます。この嬉しい、楽しい、幸せを永遠に感じたいという思考が湧くのです。これで苦しくなるのです。なぜならばそんな自分は居ないからです。自分とは事実ではなく空想だからです。空想に顔を埋めると苦しくなるのです。水に顔を埋めると苦しくなるように空想に顔を埋めると苦しくなるのです。苦しいという完璧な感情が湧いてくるのです。ではどうしたらいいか?空想という場所に顔を埋めるのを辞めることです。

「悟り」と「自分」の綱引きに勝つ

五感全開で悟り、自分への呼び戻しを見抜く

悟りを学んでいきますと徐々に思考の仕組み、自分の仕組みが分かってきて五感中心、事実中心、根源中心の生活にシフトしていきます。思考のサイクル、悩みのサイクルが理解できてきますと悩み続けるということが逆にできなくなります。なえならばその思考こそが苦しさを生み出していることが腹落ちできるからです。するといつも爽快、いつも軽快という覚醒状態になっていきます。ところがこの状態は周囲からの評価も高いのでここでこの評価は「自分」が得たという思考が再登場してきます。この流れで多くの人はまた思考に振り回されていきます。

悟りが開きかけた時思考が大量流入してくる

この自分ゲーム最大の山場は悟りが開きかけたその瞬間、思考が大量流出して「自分が居る」を維持しようとする場面です。映画マトリックスでもネオが覚醒する瞬間までエージェントスミスが大量投入されてきます。覚醒を阻もうとエージェントスミスが大抵抗を続けるのです。この大抵抗こそが思考の大量投入、「自分」は凄い、「自分」はもっと評価されるべき、「自分」はついに悟りを開くぞ、、、です。気を抜いている間に「自分が居る」という最強の思考が湧いてきます。

爽快な状態に周囲は評価で「自分」を思い出させようとする

自我が薄れ爽快な状態が湧いてきますと、、この体に向かって周囲は最大限の評価を送ってきます。あなたはなんて素敵な人なのだろう、あなたの近くに居たい、あなたからその方法を教えて欲しい、という連打を浴びせてくるのです。これによってこの体は再び自分を思い出し自分への評価に酔いしれるという思考に取り込まれていきます。自分は評価されるなーという一瞬の酔いが覚めますとまた苦しみの人生が続くのです。これが思考(エージェントスミス)の悟り阻止メソッドです。

エージェントスミスの手の内を掴む

エージェントスミスの目的は、、、「自分が居る」を維持することそれだけです。これが目的ですからそのためにあらゆる思考が湧いてきます、例えばあいつはお前の悪口を影で言っているのでは?友人Aはお前を騙そうとしているかもよ、周囲から評価されているお前はいつか叩き落とされるかもよ、、、と、、するとそれは困る、それは腹立たしい、それはムカつく、、、という思考が再び湧いてきて、、、自分が再浮上するのです。まさか湧いてくる思考がエージェントスミスだったとは、、、、これは見抜けない。ただこれもエージェントスミスの手の内が最初から分かっていればスルーできます、思考が湧いたらバッサバッサと切り倒せばいいのです。

外に居るだけで五感が開き悟りが開く

五感をフル稼働させるだけ

そんな簡単な方法で????そうです人は五感が開けば悟りが開きます。悟りが開くとは五感が開くことなのです。めちゃくちゃ美味しいケーキを食るその瞬間、悩むことは不可能です。素晴らしい映画を観ながら悩むことは不可能です。五感をフル稼働しながら不幸になることができないのです。ということは自然に触れて五感をフル稼働すれば不幸になれない体になるということです。感じれば感じるほどに思考から離れてしまうのです。大切なことはこの事実を知っておくことです、五感全開、悟り全開の状態を覚えた思考はこの功績を自分のものにし自分を評価されたいという思考を湧かせこれに争います。

悟りが開いた「自分」をみろ

五感全開は悟り全開であり、、この状態は覚醒状態です。この覚醒状態をキープしよう、評価されたい、目立ちたい、人に教えたいという思考が湧いてくると覚醒状態が終わります。思考の波に襲われるからです。こんな覚醒した「自分」は評価に値すると思考するからです。これが思考の罠です。この思考を無視してさらに五感を開いていきますと悟りが開いてきます。五感がこの事実をより深く感じていくからです。

悟りを開いた「自分」を殺す

五感フル稼働状態は悟りフル稼働状態ですが、、この状態は周囲からの反応も良いのでこの状態を「自分」が独り占めしようとします。この状態すらも「自分」は所有しようとすることで自分を維持しようとします。覚醒を所有する自分が居るという思考が湧いてきてこの思考を維持しようとします。ここを見抜きます、思考の最終サバイバル術です。五感がフル稼働し思考が薄まったからこそ覚醒しているということが腹落ちしますともう「自分」という思考へのしがみつきも薄れていきます。