名前のない世界から名前のある世界へ

先ずは言葉ありき

イエスキリストは聖書の出だしで「先ずは言葉ありき」と綴ったようです。我々人類は言葉を開発するまでの間何も名前が決められていない世界に住んでいました。鳥も存在せず、虫も存在しない、農作物も、葉っぱも、木々も何も存在しない世界です。いやいや昔から動物、植物は存在していたはずだ、、そうではないのです。現代人が認識する形での固有の存在がないということです。木は土の上に育ちますが土と木という名前がない時代おいてはそれらは一体化しています。ですから木が枯れるという現象も木が育つという現象も古代にはないのです。ただ生命現象が移ろうのみ。

自分すら存在しない

そうだとすると自分は孤独だったのでは???違います。自分という言葉も自分を意味する名前も全くないのですから「自分」が居ないのです。ただ動く手や足があり動く口がある、、しかもそれらにも名前は存在しない、、自分が生きている、、という発想もなくただ毎日が移ろうだけです。自分の餌が取られた、、、こんな発想もない、、だから嫉妬や妬みも存在しえない、、現代人が抱える嫉妬、妬み、嫉みはありっこないのです。我々はには言葉を覚え「自分」と「あなた」という存在をこの世界に作り出し争いすらも発明したのです。

喜怒哀楽という発明

古代人には喜怒哀楽がありません、先ず「自分」という存在がないのですから「自分」が何かを達成した「自分」が失敗した「自分」が恨まれた「自分」が成功したという発想がないのです。このような世界でどうやったら喜怒哀楽が起きるのでしょうか?現代人が抱える感情「喜怒哀楽」は実は言葉の発明後に発達したものなのです。喜怒哀楽はそもそも存在しないのです。

苦しいなら「自分」を捨ててしまう

そもそも自分という存在などこの世にはなく誕生後に学んだアイデアでしかありません。このアイデアによって人生が苦しいのならば「自分」というアイデアを捨ててしまった方がいい、「自分」というアイデアを持ってしまったゆえに不幸になったならば「自分」などない方はいいのです。滅茶苦茶な発想かもしれませんが「自分」などアイデアでしかないのです。

とはいえこの社会で生きるには

とはいえこの社会で生きていくには名前が必要になります、住民票も免許証も名前が無ければ発行してもらえません。ということでとりあえずは名前を保持しますが実際にはこれはラベルでしかないことを思い出すべきです。「自分」も「あなた」もラベルでしかなく完全独立した生命体ではないのです。名前など暫定的に付けたラベルに過ぎないと腹を括ってしまうのです。

名前さえなければ何も起きていない

日本が今年は景気悪化、アメリカが情勢不安、ロシアが外交強化、、、全部これらはラベルに過ぎず、、本当は何も起きていません、、、人類が勝手に名前をつけてこの生命現象に意味をもたせただけです。事実は生命現象が移ろっているだけです。我々は生まれてこの方本当は何も起きていない世界に名前をつけさもあらゆる事象が起きているかのように生きてきました。そしててーへんだてーへんだと騒ぎ立て時に驚き、時に落ち込み、時に喜び、時に悲しむ、、というドラマを演じているのです。

本当は何も起きていない

大きな魚が小さな魚を食べる、、これは事実でしょうか?違います。魚という名前がついた生命体などこの世には実在しません、そこには動く何かがあるだけです、もっと正確に言えば脳内映像が変化しているだけです、、その脳内映像に名前を付けて「大きな魚」が「小さな魚」を食べるというファンタジーを作り出したのです。そしてそのファンタジーを観察して悲しんでみたりするのです。「水槽の中に魚が死んだ」は事実ではありません。事実は「脳内映像が変化した」これだけです。

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