神が完璧ならばこの生命現象も完璧

神=生命現象

神は完璧です、神とは絶対、無、空の反映、影、意識を所有する全存在です。我ありです。この存在が完璧なのは予想がつくでしょう、となれば、、、神=生命現象、つまり我々の目の前の姿ですから、、、この目の前の生命現象は完璧であるということになります。いやそんなことはない、、ニュースを観ればあらゆる事件、犯罪、冤罪、戦争が今もどこかで起こっているではないか???家計は逼迫し、健康状態も悪い、、、何が一体完璧なのか???となります。ではどちらが正しいのか???答えは簡単、それでも目の前の生命現象は完璧です。つまり完璧ではないという我々の認識こそが何かがおかしいのです。何かを認識できていないのです、目の前の生命現象が歪んで見えているということになります。でなければ神は不完璧という結論になるからです。

目の前の生命現象が歪んで見えるという事実だけがある

今目の前の生命現象、現実が不完璧に見えるならばそれは紛れもない事実です。ですが事実はいつでも神ですから完璧なのです。事実、現実は神ですから完璧です。完璧に見えていないという事実も完璧なのです。そうなると今後の課題が見えてきます。完璧に見えないこの世界を完璧に見えるように認識を変えるということです。かと言って「私」の観念を変えてもそれは起きないでしょう、なぜならば観念とはこの世界をいかに分離するかという世界だからです。分離した世界に完璧はありません、完璧とは分離が完全に解消され統合された世界、たった一つのエネルギーがたった一つのエネルギーとして存在する世界です。

神はいつも完璧、完璧でないのは人間の観念

人間は太鼓の昔から、、自身の思考を進化させてきました、、科学技術、テクノロジー、歴史、言語学、、、あらゆるジャンルで学問を進化させてきたのが人類です。これによって人間は自身の思考に絶対的価値を見出し一見便利で快適な生活を享受しました。ですがこの思考偏重主義は危険な要素をはらんでいます。人間は自身が培った価値観が反映された世界に生きていることを知らないのです。当たり前ですが自身にとって最都合が良い価値観を採用し生きていますがこれがそのまま目の前の現実(神)に投影されているのです。そして映る世界に向かって不平不満を並べるのが事実です。神=不平不満に陥っています。

客観的な観察は不可能

我々が小さな神である証拠

我々は小さな神です、大きな神が全体ならば人間は小さな神です。小さな神はなぜ神なのか???それはこの人間活動を行うためのステージ、この世界は我々の脳が作り出しているからです。脳が??そうです、我々は間違いなくこの世界を脳で体感しています。見える世界は脳内で観察でき、触れるものは+触覚、香るものは+嗅覚、味わえるものは+味覚ということになります。ということは脳内でこの世界はいかようにもコントロールできるということです。そしてこの世界は人の数だけ存在するというミクロコスモスが量産されます。それを回収するのがマクロコスモス、大きな神です。

小さな神は分離の方法がカスタマイズ

我々は全く同じ世界を生きているつもりでいますが実は全く違う世界を生きています。それはこの脳内の分離がカスタマイズだからです。たった一つのエネルギー神に本来決まった形態はあるわけがなく、、このたった一個のエネルギーは人の数だけ変化します。それは脳内の解釈が違うからです。動物は動物で全く違う視界が広がりますし、人間も人種によって見える色彩が違うはずです。

小さい神の分離体験を収集する大きな神

人間は小さな神であり、人間は独自の世界を生きていきます。この独自の世界の体験を大きな神は全部回収します。人間とは大きな神の収集対象なのです。その証拠に「我あり」という永遠に変わらない感覚を所有すると思いますがこれは大きな神との共有です。この感覚は人間の思考では絶対にありません。全く変わらないこの感覚、「我あり」に基づき小さい神はあらゆる体験を積み重ねそれが大きな神に収集されていきます。

完全な知、経験、感情の先に気づき

先ずは知ること

非二元、悟りに関して重要なこと、それは究極の目的に目覚めることです。これによって究極のエネルギーが入り込んできます、ですがこれだけでは究極の気づきには至りません。重要なことはそれをこの体を通じて体験していくことです。究極の世界を体を通じて感じていくことです、何かに集中することで無我を知る、体の感覚に集中することで無我に入る、あらゆる体験の中から究極に触れていくことです。

無我に入ると歓喜が襲ってくる

無我に入ることに慣れていくと、、歓喜、平和、安堵が襲ってきます。その状態こそが目指すべき究極の場所であることを体、感情を通じて分かってきます。その場所はホームであり、神であり、大いなる一つであることを肌感覚で感じていきます。自身が小さな神で小さな神体験を今はやっているだけ、その事実を体験を通じて感じていくことが出来ます。

究極の気づき

先ずは知識として大いなる存在の世界を理解しそこから体を使ってそこに近づいていきます。そしていかに長い時間をその場所で過ごせるかをやっていきます。小さな神体験での大きな神への帰還を自主的に行っていきます。体は徐々に大きな神に馴染んでいきます。すると大きな神の方から小さな神に近づいてきます。これが究極の気づきです。打ち震えるような感動、感嘆、衝動を覚えるようになると究極の気づきは早いです。

量子物理学は観察者が結果に影響することを解いた

観察者の価値観が結果に影響する

量子力学はこの世界を物理学の視点で紐解きました。観察者が結果に影響を与えるというものです。当たり前ですがこの世界は観察者の脳内で観察されます、脳内はこの大いなる一つ、全体を分離錯覚させる機能です。観察者の価値観がこの一つなるエネルギーを分離して見せているのです。観察者の心理的影響を物理実験が影響を受けないわけがないのです。

人間とは神のミクロ体験

人間生活、人間人生は、、神のミクロ体験です。大きな神が全体だとすれば小さな神は人間です。小さな神はこの脳内に世界を作り出しました、大なる一つ(神)を人間が眺めると、、人間の価値観が如実に影響する世界が誕生します。人間の価値観に準じた分離の世界が目の前に広がるのです。この体験を大きな神はやってみたかったのです。小さな神は独自の世界をクリエイトしその世界の中で大冒険します。

小さな神は冒険に疲れると大きな神に再吸収される

小さな神は大冒険をこの世界で続けていくわけですが、、、本当の大冒険は自身が実は大きな神だったという気づきです。小さな神として活動を続けてきましたが、、実は大きな神こそが自分だった、、そしてこの広がる世界こそが自分だったという発見が起こります。まさかの自分の中を動き回っていたという大落ち、ギャグ、ジョークをしていたことに驚愕します。

海と小波の関係

波は神の人間体験

波は神の人間体験です、波は海の一部です、これが神です。波は独自の意識を獲得し日々波として生きています。ですが本当は全部海からのうねりです、思考も感情も行動も海からのうねりですが、、波は独自の意識を獲得したと錯覚し日々波体験を行います。波体験は如何せんサイズが小さい故に困難を伴います、ですがサイズが小さいからこそ自由気ままにこの大海を動き回れるという特典が付きます。小さいからこそこの小さい立場での視点で大海を遊び尽くせるわけです。魚と一緒に動き回ったり、太平洋から大西洋に移動してみたり、北極付近に遠征したりです。

波はあらゆる体験を積み最終的に大海に吸収される

波はあらゆる体験を繰り返し多くの経験を積みました、波としての成功体験失敗体験を積み重ねていきました。あらゆる欲求を満たしていき最終的に気づきます、「自分」って本当は誰なんだろう???これが波の究極の質問です。波としてこれまで生きてきたが、、本当に波は波なのだろうかと、、、その時ふと自身が実は海であったことを思い出します。散々動き回ってきたこのフィールドこそが自身であったという気づきが訪れます。

生命の全記憶があるDNAが、思考の中で生きることに矛盾がある

細胞の一つ一つに全記憶がある

我々の細胞の中にあるDNAには生命の全記憶が蓄積されています。全部を知っているそのDNAを我々はこの体の中に所有しています。全記憶があるにも関わらず我々は完全なる無知として生きています。そしてこの体、思考、感情を自分自身であると錯覚して生きるという大いなる矛盾を抱えた生命なのです。全記憶を持った細胞を寄せ集めてこの体は出来ますが思考はこの体、思考、感情だけが自分自身であると錯覚しています。ダイアモンドで構築された宝石にも関わらず思考が私はガラスだと思い込んでいるような状態です。思考がいくら我輩はガラスであると信じてもダイアモンドであるという事実は変わらないので矛盾を抱えます。これが人間の苦しさです。

人間として生きる意味

では人間として生きる意味は何なのか??大きな神が居るならば、人間とは小さな神です。小さな神として我が人生を生きていきます、この人生では自身で決める(錯覚)という自由がありそれを行使していきます。この小さな体での小さな神体験です。神は人間を進化させることでここまで進化しました。この小さな体を使って独自の世界を作り出していきます。価値観がそのまま見える世界になります、そして経験がまたさらなる価値観を作りそれが見える世界に反映します。これを大きな神はやってみたかったということになります。そして本当は大きな神と小さな神には境目は一切なく、、全部が神です。

小さな神は至福には至れない

小さな神には問題点があります、それは小さな神は小さな神のままでは絶対に至福には至れないということです。永遠の幸福を得ることは出来ません、この体、思考、感情を自分と定義している間は、、ですから小さな神の大冒険は最終的に大きな神に吸収されることで決着を迎えるのです。小さな神としてあらゆる経験を積むと大きな神に再吸収されます、それは死ぬ時かもしれません、もしくは生きながらかもしれません。

夢を見ている自分の不在

何かに夢中になる時、自分はいない

本当に自分っていつも感じているのでしょうか?そんなことは全くありません、日常生活の多くは自分は不在しています。料理を作り時に本当に自分はいるだろうか???いないはずです。料理を作る自分っている意味がないんですよね。自分なんて必要ないんです、ほとんどの場面で。ですがあらゆる物事が起きた後に自分が突然現れて自分にとってこれって良かったのか?自分にとってこれは有りか???と突然出しゃばってきます、、そしてこの出しゃばりが苦しみを生み出すのです。

自分なんて実はほとんど居ない

自分というのが居るという大前提で多くの方は過ごしていますが、、、自分を常に意識してなんて物事を進めることは不可能です。むしろ思考が湧いてきた時に自分を思い出しているはずです。時間が腐る程余っている人ほどに自分は頻繁に出現するでしょう、そしてそれに自分は安心します。ですがその状況こそが苦しい時間だったりすることを本質は分かっています。だが自分を消え失せることも苦しい、、自分を永続させたい、でも苦しい。

自分なんて存在しなくても全部うまくいく

自分という存在を意識しなくても物事は全部うまくいきます、むしろ自分という存在を忘れている方が上手くいきます。ですがそれでは自分が納得しない、、自分は消えてなくなってしまします。なんとかしてこの自分が価値があることを証明したいのですがそこを主張すれば主張するほどに苦しくなります。でも自分を捨て去るなんて冗談じゃない、、これが人生のパラドックスです。でもはっきりといえば自分など消えて無くなれば全部うまくいきし楽で楽しいのです。この自分というアイデアは自分ゲームを味わうために誕生した概念でしかないのですから。

「我在り」として存在するか、その中の「自分」で居るか

ストーリーの中では自分が出しゃばる

この自分ストーリー、この人生劇場の中に居れば、、周囲はこの「自分」に話しかけてきます。そのため自分はその度に再起動し「自分」を強化します。この体の中の思考、感情を含めた「自分」がこのストーリーの中んではデフォルトですからそれは当然です。ですがこれによって「自分」という存在が錯覚から実在になるわけでは絶対にありません。あくまでこれは錯覚の世界を抜け出さないのです。「自分」という思考が強化されるだけです。

ではこのストーリーの世界から抜け出るには???

ストーリーの世界の中に居る限り「自分」を強化する要因が多くあります。この「自分」がデフォルトのストーリーが延々と続いていきます。ではどうやってこれが錯覚であることに気づくのか???自分というのがいかに錯覚であるかを理解していくことにあります。トリックとはネタバレしていないからトリックであってネタバレしてしまったらトリックはトリックとして成立しないのです。ひたすらにこのネタバレを理解していくほかありません。もしくは事実にのみ向き合っていくこと、事実に向き合い続けることで事実に馴染み、究極の事実が向こから出現します。究極の事実とは本来の自分、エネルギー、大いなる一つです。

自分のメカニズムを理解したら、、もう自分に集中できない

自分とは圧倒的な錯覚がより集まって絶対的なものになっています。錯覚の寄せ集めがこの自分ですからこの錯覚のカラクリを暴き続けていけばいずれはカラクリに引っかかることができなくなります。カラクリとは裏側を知らないから騙されるのであって知ってしまえばそれは不可能です。ということでこの錯覚の仕組みを理解していくことは重要です。

完全が不完全に見える世界

完全は不完全に完全に見せる

完全が完全な理由は我々にこの完全な世界を不完全に完全に見せることができるからです。しかもその不完全さは完璧なほどにその人の観念を映し出します。不完全さが完璧なのです。我々が思う完全とは自我にとって最も都合の良い完全ですが実は脳内の観念を完璧に映し出し人間に不完全で在ると完全に認識させます。つまり完全の意味がまるっきり違うということです。だから自分、自我は完璧を常に追い求めるという皮肉が起こるのです。

不完全であることが完璧に起きる完全さ

何が起きようとどんな悲惨な事件が起きようと、、、脳内の観念によって完璧に分離されているという意味においてこの宇宙は完璧です。完璧に脳内の観念が映し出されているからこそ「自分」は常に不足感を感じることができます。自分=不足感が完璧な方程式で形成されます。そういう意味では全くの例外がない完璧な世界です。それに対し自分が不平不満が起こりますがそれ自体が完璧な反応なのです。

不完全に見えることが完全であることに注目する

今目の前に見える世界の不完全さは完璧です。不完全だからこそ我々は今幻想の世界、分離の世界にいることを証明してくれます。今目の前の世界が完璧ならばもう分離幻想の世界には我々は存在せず解脱しています。自分というエネルギーが解消されています。幻想の世界に住む「自分」が居ないのです。今目の前の世界がどれほど居心地が良いか、違和感がないかは、、分離統合の世界で統合が進んでいる証拠です。世界に全体の気が充満してきているのです。

「我あり」の中に生まれたエゴ

エゴは後天的に生まれた

エゴは最初からあったわけではありません、「我あり」の中で人間という生命体が進化を重ね脳が発達することで「自分」が形成されました。この自分こそがエゴです、自我です。全体からこの体、思考、感情を切り離すエネルギー、言語、プログラムです。このプログラムはエネルギー、パワーですからこの存在を維持しようとします、強化しようとします。そして自動再生機能を持っています。このパワーが強い人を「自我」「エゴ」が強いと表現します。これは良い悪いではありません、これによってその人の自我人生の抑揚が決まります。自我が強ければ苦しみ、酸欠状態、居心地の悪さも大きくなりますからその解消に向けるパワーも大きくなります。

「自我」が弱ければ、、、

自我が弱いということは全体から切り離された力が弱いということですから不快感、欠落感、居心地の悪さも少なくなります。比較的穏やかな人生を歩むことができるでしょう、ですが不快感、不足感が少ないということでこの自我人生を永続させる可能性も高くなります。「全体」が「全体」に気づくきっかけがないからです。とはいえこれも良い悪いはありません。

「自我」が強ければ、、、

自我が強い人は苦しみが大きいのでその解消方法を間違えると苦しい時期が続きます。自我が強い人が自我が弱い人と同じような浮き沈みのない人生を歩もうとすれば居心地の悪さに襲われます。自我が強ければその分、目標を達成するなどの目先の成就、結果を追い求め、、それでは何も満たされないことを悟らなければただ絶望と共に居ることになってしまいます。