たった一つのエネルギーがビッグバンを起こす

ビッグバンの大元はたった一つのエネルギー

我々の勘違いが絶対的なのは、、住んでいる世界、この宇宙はたった一つのエネルギーがビッグバンを起こし、、この変幻自在の世界をカタチ作っているという事実です。たった一つのエネルギーが爆発してこれだけの色彩ある世界を構築していますが大元が一つである以上、多に見える世界は絶対に幻想です。そしてあらゆる人格を持った他者も私と何も変わらないという事実があります。なぜならばたった一つのエネルギーが爆発してこのようになっているからです。ですがその事実を口にする人が少ないのは奇妙です。

錯覚の共通認識がこの世界を作る

事実だけを説明すればたった一つのエネルギーが爆発を起こしてこの宇宙ができたのですから、、全部同じエネルギーで形成されています、自分他人などの境界線はおろか、植物、動物、鉱物の間にも境界線などあろうはずがありません。あるとすればそう見ることができるように進化しただけです、人間が。そして苦しむことも、悲しむことも、楽しむこともできるのはこの分離錯覚している世界を人間が分離した存在として生きることができていだけです。事実はどこまで行ってもたった一つのエネルギーしか存在していません。

私の思考もあなたの思考も全く同じエネルギーでできている

思考もビッグバンが弾けて起きていますからこれも全く同じエネルギーの一つです。そのエネルギーが変幻自在にバイブレーションを変えているだけです。ということは私の思考もあなたの思考も全部同じエネルギーです。私の思考、あなたの思考という境界線などあるはずがなく、、自分と他人など存在するわけないのです。たった一つのエネルギーが織りなす究極のアートです。何もかもがアートであってそこから出ることなどできません。

人類は進化の後退ではない

苦しめるというとこまで進化がきた

自分という存在、私という存在、、これらは錯覚ではありますがこの感覚を持てたのは生命の進化です。この私は苦しみ、居心地の悪さを感じ、違和感を感じる苦しい存在ではありますが、、だからこそ全体を再体験するというとんでもない経験をすることができる資格を持っています。これを体験できる植物は存在しません。人間だけが苦しみの先に全体への再統合というビッグプロジェクトを抱えることができるのです。このプロジェクトの最重要事項は個人としての苦しみです。

苦しい、楽しいを超えて

二元のストーリーの中での苦しい、楽しい、、は全部夢の中での一瞬の体験です、楽しいと思っていたら苦しいに変わり、、また楽しいに変わる、、、この安定しない状況こそが「苦しみ」です。だから人間は無理くり安定を作り出すために知恵を集め終身雇用などの制度を作り出したりします、ですがこれが人間の不安感を完全に払拭することなど不可能です。人間がこの夢の中で作り出した制度が人間を幸福にできないことは明らかです。この楽しい、苦しい、面白い、つまらない、、、の二局の世界にいても真の幸福はない、、ここにいかに気づきそこから抜けることに意識がむく時に人は再び全体に戻る準備をします。

二局の世界への諦め

楽しい、苦しい、快適、不快、面白い、つまらない、、、この二局の世界に可能性を感じている限り人間は苦しみからは解放されません。この二局の世界には真の安定は存在せずどこまで行っても不安定です。そうです、この二局の世界にいる限り真の安定、安心、安堵はないことに気づくことこそがこの二局の世界の真の目的です。そしてそれに気付いた生命体「人間」は意識的に全体に戻るという神そのものの行為にたどり着きます。だからこそ人間社会では神という言葉が普通に使われているのです。これは偶然ではありません。

「私は在る」の上で全生命活動は行われている

全生命活動は「私は在る」の上で起こる

全生命活動共通の感覚「私は在る」この感覚の上で我々の生命活動は行われています。この感覚がない場所は一切ありません、この「私が在る」が全生命活動の基盤です、、、この基盤から離れれば苦しくなり、この基盤と近ければ平和、歓喜、安堵です。人間はこの「私は在る」の基盤の上で思考活動に入り、、「私は在る」から離れていきます、完全に離れることはできませんが、、そうなると苦しいが湧いてきます。動植物はこの「私は在る」から離れることができません、ですから常に平和の中にいるのです。

「私は在る」の上で思考活動が続く

覚者は悩める迷い人に「何もするな」と提案します。なぜならば何もしなければ「私は在る」しかないからです。ですがこれを多くの人はすることができません、思考し、行動し、、、、どこか満たしてくれる場所を目指すのです。ですがそんな場所は存在しません、「私は在る」が既に土台に在るからです。にも関わらずどこか遠くに満たしてくれる場所、桃源郷が在ると夢見るから我々は夢の中に居ると言われます。覚者はそこを指摘します「今ここに全部ある」と。

「私は在る」はどこにも行かない

我々は最初から最後まで「私は在る」以外の場所に行くことができません、ここがホームです。これ以外の場所で活動は絶対にできないのです。一度たりとも平和、歓喜、安堵というホームから離れたことがないのです。ですがその中で思考は思考します、、これを達成すればこれが叶えばこれさえ手に入れれば、、私は幸せになれる、、と、、そして思考が湧き続け行動が湧き続け慌ただしい生活を続きます。足元には常にホームがあるにも関わらずです。ですがこの人間活動こそを「私は在る」が経験したかったことでもあります。

「私は在る」は思考???

「私は在る」は思考ではない

「私は在る」という感覚、これは生まれてきてから今まで一切途切れることはありません、こも感覚、、この世界に間違いなく「在る」というこの感覚こそが我々をhuman ではなくhuman beingにしている根拠です。何をしていても何を考えていても、、この「在る」という感覚だけは不変です。不変のものが思考であるはずがなく、、「ある」とは神の意識です。そうです、我々はいかに人間活動をやっていても神の「ある」という感覚の中でそれが行われているだけなのです。

「私の在る」と「他人の在る」は同じ

「私は在る」と友人が感じている「私は在る」は別人の在るなんでしょうか、、、、違います同じ人の在るです。そうです神の在るです。世界中80億人の「私は在る」は全部同じ存在が感じているのです。それを神、ワンネス、大いなる一つ、、と呼称します。個人は皆この「私は在る」の存在を深層心理では認識していますからここに戻りたいのです。恐ろしく楽しい時も恐ろしく辛い時もここに戻りたいのです。そして戻ることを「目が覚める」と表現します。

「熟睡時」の感覚は楽しい夢よりも偉大

夜、夢を見る際には皆わかっています、、、楽しい、楽しい、エキサイティングな夢を見るよりも熟睡後の恍惚感の方が間違いなく上であると、、、大金持ちになり、大有名人になり、全てを手に入れた男の夢を見るよりも、、熟睡後の幸福感が上であることを。。これは全員が気付いています。そうです、、この人間人生でいかに楽しく最高で快適な生活をしようとも、、「私はある」の感覚の場所に戻ることの方が偉大であることを皆知っています。だから多くの方が太古の昔から宗教を求め神を求め続けてきたのです。

全力で神を追い求めることで神が隠れる

行動が個人を強化するという矛盾

ある時人はこの苦しみに終止符を打ちたいと神を求めるようになります。世の中に宗教がこれだけ多いのには理由があるのです。多くの方は神を求めます。ですが矛盾するようですがこの神を求めるという行為そのものが「個人」「私」を強化することになり「神」が隠れるという結果になります。なんという皮肉でしょう。ですがこれが事実です。個人は何かを叶えたい時に行動に移します、行動するのは「個人」「私」です。ですが神とはこの「私」という意識が欠落した状態です。私という収縮したエネルギーが解放された状態のことです。

我々はこの「個人」が何かを達成するよう訓練されてきた

悟りというものがなぜいかに難しいことかと言えば、、、これまで個人がやってきたこと、成し遂げてきたこと、成就してきたこと、努力してきたことと全く逆ベクトルな場所にあるからです。目標を達成した「自分」、周囲から評価を得ることができた「自分」、地道に努力して何かを築いた「自分」この自分というエネルギーが居なくなった状態が「神」意識です。このカラクリに気付ける「自分」こそが神です。

それでも「個人」は神を追い求める

ただしこの「個人」が神を追い求めるのは全くもって自然なことでありそれが間違っているということではありません。それが普通です。個人は常に欠乏感、不足感を抱えて生きていますから、、それをどこかで解消したいと心底では強く願っています。そしてそれが何かを達成することでは成し遂げられないことも実は知っています。そうなるとその解決を神に求めるのは当然のことです。ですが真の理解とはこの当たり前に認識し続けてきた「自分」という存在こそが神を見えなくしていたという気づきです。「自分」という認識エネルギーの消滅が神を顕現させます。

思考は真理を見つけることはできない

思考こそが真理を隠す

これはもう本当にギャグです、何か苦しいことがあった時に思考が必ず湧いてきてこの問題を解決しようとします。これはもう自動反応として起こります、何も問題はありません。ですが多くの方がなぜ苦しんでいるかと言えば真理から離れた人生を生きているからです。それが苦しみを生み出します、そして真理から遠ざけるメソッドこそが思考なのです。これが自分自身であるという思考こそが自分を全体から切り離し、あらゆる単語を記憶することでこの幻想の世界を成立させています。その思考が苦しい時に湧いてきて、、、今回の問題はこうではないか??と囁くのです。借金を作り出す金融業者が借金返済のためにお金をさらに借りて事業をしたらどうか??と嘯く感覚と同じです。

思考が苦しみを生み出し、思考がそれを解決する

思考とはリボ払いを勧めるカード会社と全く同じです。リボ払いを勧めておいて実は返せなくなことを画策しています。思考もこれと全く同じ、思考こそがこの苦しみを湧き出す根源であるにも関わらず苦しい時は必ず出てきて思考を使ってこれを解決しようと呟きます。とんでもないメカニズム、闇金融業者、詐欺師です。ですがこの経験を願っていたのが全体です、全体の確信犯的な思考しようということです。そういう意味では思考は何も悪くないのです。

思考は闇金業者

闇金業者というのは実は借金を全体に返済させません。借金を返済させてしまったら利子を取れなくなります。そこで闇金業者は借金を意図的に返金させないようにして利子を延々と取り続けるということを平気でします。思考もこれと全く同じでこの体を自分であるという認識を思考で作っておいて苦しめ、その解決方法を思考で行おうとします。これによって自分=思考という隠密関係を絶対に壊さないようにするのです。自分に根本解決をさせない、、どこまでもしゃぶり尽くす、、これが思考の罠、闇金業者の罠です。

マインドは目の前のリアリティを隠すのに必死

目の前には常にリアリティがある

目の前には常にリアリティがあります。リアリティはどこか遠くにある桃源郷ではなく、、今ここに広がっています。ですがマインドはこの事実に気づかせないように必死です。今マインド越しに見ているこの世界はリアリティには見えません、なぜならばマインド越しのこの景色は自分にとって間違いなく曇っているからです。ですから私はこれを真の自分、真の世界、望んでいる世界だとは絶対に認めないのです。

そんな曇った世界を私は見て、、、

なんだこの現実は、、しょうもない、、、本当の私が望む現実はどこにあるのか????こうして思考ががっつりと湧いてきます、この思考こそがリアリティを曇らせる張本人です、自分はこの思考と完全に同一化し益々目の前の世界を曇らせていきます。これによって個人は目の前に広がる真実、リアリティに気づかなくなっていくのです。

もっと、もっと、、

私が望む世界はこんなもんじゃない、、もっと違う良い環境が、、もっと違う良いパートナーが、、もと違う良い仕事が、、、、このもっともっとは思考の特徴です。私の目の前に広がる環境を曇らせている張本人が思考です。ですが目の前の現実が曇っているのも事実だから「自分」はまた思考にしがみつき、思考に変化を期待するようになるのです。これが人間を夢遊病者に閉じ込めるメカニズムです。

人間とは夢遊病者のこと

人間は夢の中を必死に生きている

人間とは夢遊病者です。夢の中を生きています、そんなことはないはっきりと意識がある、、、その通りです、はっきりとした意識で夢を生きているです。夢を見ることを全力で行っているわけです。そしてその夢の中があまりにも居心地が悪いのでドラッグやお酒、タバコなどで脳を緩めこの夢から覚めることをしています。ですがこれもそれが切れればそれで終わり、そこからまた夢の中の住人に戻ります。

真面目な人も不真面目な人も夢の住人

真面目に見える人はこの夢の中で真面目に生活しています。不真面目に見える人は夢の中で不真面目に生きている、、ここに何も違いはありません。どちらも同じです。真実はこの夢の中にはなく、、この夢の中は居心地が悪いというだけです。真面目な人はなんとかしてこの居心地の悪さを解消しようともがいている人とも言えます。

夢遊病者を卒業する

ではどうしたら夢遊病を卒業することができるか??これが夢であると疑うことからスタートします、その視点で人間、自分というものを観察していきます。人間を自分という檻の中に閉じ込めているシステムを理解していきます。自分とは全体をこの体の中に閉じ込めこの体の外に居心地の悪さ解消を求める夢です。体の中に全体を閉じ込めておいて体の外に不快感解消を求めていく夢です。そこに真摯に向き合うことでこの夢が壊れてきます。

真理は信念ではない

信念の中に真実はない

真理は信念ではありません、信念こそが人間を人間たらしめている存在です。信念が今見える世界を構築します、そしてそこに人間は閉じ込められているのです。真理とはその信念による閉じ込め行為が嘘なのだということを露わにすることです。真理がこの信念のメカニズムを壊すのです。真理は信念ではないのです。過去の偉大な偉人たちが、、、生前に何かしらの信念を残していきますが、、、これはまだ真理に行き着いていない証拠なのです。

信念こそが我々をこの幻想の世界に閉じ込める

信念とは間違いなくその人の人生に基づいて打ち立てられます。その人が歩んできたことをベースに作り上げられていきます。これこそが実は見える世界、本質の世界の脳の解釈を構築します。脳がその信念をベースに本質のエネルギー、本質の世界を変化させるのです。本質のエネルギーはただそれだけです。それを信念が脳内で書き換えるのです、デフォルメします。

大きなことを成し遂げた人には信念がある

信念とはこの人間社会では大人が持つようなモノと称されます、ですが信念とはこの個人が確実に居てその個人が歩んできた人生が確実にあるという大誤解がベースになっているのです。ただしこの誤解が悪いということではありません、大誤解こそを真理がむしろやりたかったのですから。真理が大誤解のメカニズムを作り遊んでいるのが事実です。

苦しみの本質は真実ではないものを真実と思っていることから生まれる

苦しみとは回答結果

今苦しみがあるならば簡単、それは真実ではないことを信じている証拠です。苦しみとは真実が教えてくれる警報みたいなものです。真実ではないことを真剣に信じたり誤解することから生まれます。逆に言えば真実を理解できたら苦しみは湧いてこないのです。ではその真実は一体なんでしょうか、、真実とはこの個人という概念が概念に過ぎずそれが錯覚であることを見抜くことです。逆に言えばこの個人という存在を強く信じてれば信じるほどに苦しみは湧いてきます。自分を信じる、こんな綺麗な言葉が実は真実ではないのです。

世の中99.99999%の人は実はこの誤解を真剣に信じている

世の中のほとんどの人はこの誤解を完璧に信じています、ですから自分自身が今苦しいんだ、他の人は楽しそうだ。。。そういう孤独感に苛まれているなら安心してください、、、ほぼ全員が苦しんでいます。もしも今楽しいと思っている人がいればそれはその苦しみを上手く回避できているだけです。例えば夢中になれる対象や趣味、人が生まれた時などです。もしくは夢中になれる対象がたまたま続く時なのでしょう。ですがこれはラッキーでしかなく本質的な部分では常に不安を抱えています。なぜならば苦しみの根本原因を知らないからです。

苦しみから逃げるか、苦しみに向き合うか

苦しみから逃げ続けるのもよし、苦しみに立ち向かい苦しみを根本的に解消するのもよしです。私は昔から本質的に部分に入っていくのが好きなので常に戦ってきました、時には苦しみから完全に逃げてきた時期もありました。今は苦しみの本質に常に触れることを楽しんでいます。苦しみは湧いてくる場所、こここそが我々の本質です。本質は我々が誤解をしている期間はいつでも苦しみを湧き出してきます。