仮面ライダーとして生きていく

自分とは仮面ライダーのこと

自分というのは実は仮面ライダーと同じです。子供の頃に仮面ライダーに成り切って色々な遊びをするわけですが、、、仮面ライダーとして喧嘩や戦いごっこをします。この仮面ライダーになりきる感覚こそが、、、全体が自分に成り切っている感覚と全く同じなのです。子供は仮面ライダーとして喧嘩をして負ければ泣き叫びます、、仮面ライダーとして遊具でジャンプしてみたらつまずいて転んで泣きます、、、仮面ライダーになったつもりだからこそこの失敗はあるわけです。そしてこの自分も全く同じです、自分という存在があるという大前提があるからこそあらゆるチャレンジをし失敗を重ねることができるわけです。ですが本当はこの自分は居ないのです。

自分が居ると思うから、、、本気で受験も、就職も結婚も子育ても、、全部やってこれた

自分という存在が居ると真剣に思えたからこそ、、、全体はあらゆるチャレンジをしてきました、サッカー選手を夢見てみたり難関高にチャレンジしてみたり、上京してみたり、、、就職してみたり、好きな仕事にチャレンジしてみたりです。ですがこれもそれも「自分」が居るという思い込みが成功したからです。ですが本当はこれは思い込みです。全体が起こした錯覚です。

本当は自分が居ないということを自分だけ分かっても、、、

本当は自分がいないということを分かったところで周囲は自分が居ると思って生きていますから一体全体どうすればいいのか???仮面ライダーごっこに途中で冷めたところで周囲は夢中で懸命仮面ライダーに成り切っています。どうすればいいのか???どうすればもこうももう「自分」を真剣にやることはできません、実在しないにも関わらずどうして真剣にそれをできるのか?という話です。ただそれだけの話です。

今日からは仮面ライダーではなく演者として生きる

仮面ライダーごっこに飽きた子供は普通に本人として生きていくことになります。これは人間同じ、自分という存在が実は居ないということが分かったら後は居ないことを認めて生きていくしかありません。自分というのは思考が作った錯覚なのだと自覚して生きていくだけです。そしてそれでも思考は次々に湧いてきます、自分という存在が居るという前提で、ですがもうそこには本気で構えなくなるという話です。自分はなぜ孤独なのか?自分はなぜ理解されないのか???これが湧いてきても相手をしないことです。いずれこのような思考は湧いてこなくなるはずです。なぜならばその思考に構えなくなるからです。

今から5分前までの行動に自分がいたか?

5分前から遡ってみる

5分前から遡ってみて果たして「自分」という存在が自覚的に行なった行動はあるでしょうか??もしも食事をしていたとして本当に自覚的に箸を動かす自分はいたでしょうか?箸の動きの細部にわたって自分が自覚的に動かしてきたでしょうか??間違いなく自覚がないはずです。自分というのは思考ですから自分が何かを自覚的に行うのは不可能なのです。「自分」がやったという後付けぐらいしかできません。

自分が思考ならば、、自分が何かをやるなど不可能

自分という確固たる存在がこの世界に居るわけがなく、、、自分とは思考です。そうなると自分が何かをするって不可能ですよね???自分がいないのですから、、思考はありますよ。私は仮面ライダーだ。。。こう真剣に信じていてもそれは思考ですから、、、何かを行う仮面ライダーは実はいないのです。仮面ライダーがやったという錯覚は常に作れますが、、、

自分は仮面ライダーと一緒

子供の頃は小さい頃仮面ライダーになり切って何かをしたりしますが、、、何かをする仮面ライダーは実際にはいません。何かをした仮面ライダーが居るという錯覚を起こすことはできます。これは自分も同じです。何かをする自分は存在せず、、何かをした自分が居るという錯覚を起こすことしかできません。本当は全部全自動で起きていますがそれを自発的にやったと思う「自分」が居るだけです。落ち込む仮面ライダー、悩む仮面ライダー、楽しむ仮面ライダー、全部思い込み、錯覚、偽りです。ですが本気で自分を仮面ライダーと思い込むことはできます。それでも。

幻想に触れると重くなり、真実に触れると軽くなる

真実は軽い

今が重い時、、、今苦しい時に多く方はどうしたらいいだろと考えます、考え続けます、、、するとどうでしょう、、どんどん重くなっていきます。これはなぜか??思考の世界に入り込んだからです、酸欠の世界に入り込んだからです、「非二元」欠の世界、「神」欠の世界に入り込んだからです。「大いなる一つ」欠の世界に入り込んだからです。真実欠の世界です。真我欠の世界です。ワンネス欠の世界です。さすがに理解できたでしょうか?笑そうです、、、思考の世界というのは、、、、楽な世界からガンガンに遠ざかる世界ということです。

五感に集中していく

今が苦しい、、、そうしたら真実が足りていないのです、こう考えます。真実が足りない??そうです、今が足りないのです。体に意識を向けるのです、運動したり、食事をしたり、友人とおしゃべりしたり、、、、五感の活動に専念します。体はいつでも今にありますから体に意識を向ければ真実が押し寄せてきます。幻想の世界がぶっ飛ぶのです。運動を習慣化する、全ての作業を無心になって取り込む、思考を放置する、、、とにかく思考と距離を置く生活に切り替えるのです。幻想、分離を徹底的に排除していくのです。

反復に集中する

多くの方は自身のタスク処理に思考を使ってしまいます。どうやったら効率良くできるか、どうしたら無駄なくやれるか???タスクに思考を入れてしまい苦しみます。そうではなく単純に反復反復で処理していきます。一切の思考を排して思考の介在を抜くのです。1日に何度も取り組んで反復でタスクを処理していきます。最後までやり切る、、思考はこんなことを言ってきますが無視です。ガン無視です。思考は思考を使わせようと必死です、そこを反復で処理していきます。公文式です。これで全ての作業を思考抜きで行えます、五感のみで行えます。無我、無心、非二元が押し寄せてきます。

TV番組では朝から晩までタレントが喋くり尽くす

思考は今でもエンタメになっている

多くの方がなぜいまだにこの思考の罠から出ることができないか???それは我々のエンタメの主流がまだそのレベルにあるからです。我々はタレント、識者が話す独自の思考、価値観を観て聞いては楽しんでいます。私はこのニュースをこう解釈する、私はこの事件をこう解釈する、、、これを朝から晩まで行っています。このような番組を観て人々は楽しんでいるわけです。思考することを全く何も考えずに未だに行っているのはこのような大衆文化を見ても明白です。思考すれば思考するほどに世界は分裂を極め重く苦しくなっていくにも関わらず。

あの考え方を聞いて楽になった、、、、

あの考え方を聞いたら、、非常に楽になった、、、あの本を読んだら本当に心が落ち着いた、、、、これは何が起こったのか???それは散らかった思考がその事実によってまとまったことを意味します。その事実のお陰でしばらくの期間思考しなくても良くなったのです。思考の動きが緩んだという程度のことです、、、この事実を人は理解できません。思考のフル回転が実は苦しみの根元だったのです。

分裂製造機、思考はこれからも幅を利かせる

思考がこの自分を作り、思考が見える世界を作り出しているという事実を多くの方は知りません。自分も友人も、学校も、会社も、何もかもを思考が実は作り出しています。どうやって、、、モノの名前を暗記したからです。これがなかったらその人の人生にはそれは登場できないのです。我々はあらゆる現象の名前を付けることでそれを現実化しこの人生に登場させているのです。そしてそこから様々なドラマが生まれ人生劇場が始まるのです。

神は人間に化け、モノに化け、自然物に化け、、、

覚者はこの事実に気づいた

悟った覚者が話す言葉には多くの共通点があります。その一つがこの世は幻想であるという言葉、、ですが同時に違う覚者はこうもいいます、これしかない、、、なんのこっちゃです。この世は幻想なのにこれしかない???意味不明です。幻想にも関わらずこれしかないならば何もない、、になります。事実はこうです、、我々人間がみている世界は神が何かに化けた世界なのです、自分に化け、友人に化け、机に化け、コーヒーに化け、お金に化け、、、、全て神の化身ということです。化身ですからそこには実態がなく全て幻想ということですね。ですがその化身であるいう事実を見破った時に、、、ここに神が居るということになります。これしかないです。

絶対絶命の時にこれを見破っている

バンジージャンプをやった人ならわかると思います、、、終わった後に恐ろしい安堵感、歓喜、平和が襲ってくることを、、あれは何か????意味不明ですね、、、なぜバンジー後に平和が襲ってくるのか???バンジー中に思考が完全に抜け落ち、五感全開になり、、、今に強烈にある状態に、、、、それこそが非二元、神、無我です。その残滓が残っているため平和、歓喜、安堵に浸れるのです。だから多くの方はあの感動を求めて何度もバンジージャンプをやりに行くのです。なぜ30メートルも落ちて平和に襲われるのか????意味不明ですよね、意味完璧なのです。

思考が抜けたら平和安堵ならば、、、思考を放置せよ

思考が抜けると、、、平和、安堵、歓喜に襲われるならば、、、思考を放置すればいい、、、思考こそが苦しみの世界、幻想の世界に意識を導く道具ですからそこに乗ってはいけません。何もバンジージャンプをやる必要はないのです。思考が湧いたらそのまま放置です。山に籠もって修行などしなくても日々思考の湧き出しに意識的になり放置すればいいのです。毎日をバンジー後のように生きることができます。そこが無心、無我、非二元の世界の入り口です。

思考って何??化けの世界を作る道具

神は神のままでは何も苦しむことができませんでした、神は神のままでは孤独も喪失感も孤独感も居心地の悪さも感じることができませんでした。そのため神は考えました、この神の中にゲームを作ろうと、ゲームならば孤独、喪失、絶望、不足を経験できると、、そしてその反対の快楽、面白さ、新鮮、友情、親しみも経験できる、、こんな素晴らしいゲームを作ろう、、、そのために思考を利用しました。人間の脳をさらに進化させてし思考を作り出し、、先ずは人間に「自分」というアイデアを授けました、、これによって自分がこの神の世界に誕生したのです。さらにこの延長線上であらゆる現象に名前をつけてそれを個別分離した存在に作り上げていきました。神の分裂現象です。これによって「自分」は神の中を歩いて歩んでいくという体験を積むことができるようになったのです。

簡単に終わってしまっては困る

せっかく作り出したゲームですから簡単に終わってしまっては困ります。そのため自分には次々に思考が湧いてくるように設定しこの自分を維持していく工夫がされています。何かを「自分」が経験したら思考が湧く、その思考に取り込まれるとさらに苦しくなりさらに思考が湧くのループです。「自分」というのは基本苦しい存在なのでその苦しみの解消を思考でやってもらうという無限地獄を作り出したのです。これで神が考え出した「自分」は生きて死ぬまであらゆる経験を積むことができます。放置しても勝手にあらゆる経験を積んでくれるのです。神の完全自動人間自分体験です。

このシステムはさすがにどこかで気づかれる

人間として最初にこのシステムに気づいたのがゴーダマシッダルータです、彼はインドのある地域の王様で贅沢三昧な生活をしていました、にも関わらずなぜこれほど満たされないのか???頭の良い彼はそこから悟りの世界に入っていきました、そしてそこで悟りを開いたのです。彼が気づいた事実とはまさに上記のこと、人間とは苦しみのメカニズムから抜けない限り苦しみが永続するというモノです。人生とは苦である、です。ヨーロッパ地方でこれに気づいたのがイエス・キリストです。彼は人間は原罪と称しました、この罪という言葉は勘違いを意味しています。

思考を放置するのは現実逃避ではない

思考こそが現実逃避

多くの方はここを勘違いします。思考こそが現実逃避なのです、現実とは思考以外の世界のことであり思考の世界こそが幻想の世界、虚の世界です。実の世界は思考が介在しない世界なのです。ですから苦しくなったら先ずは運動、、みたいな発想は本質を突いています。苦しくなったら人間は思考の世界に入っていきますがその世界こそが現実逃避です。虚の世界の住人になり結果苦しみの世界のドツボにはまります。

でも苦しくなるとさらに思考が湧いてくるのはなぜ????

ですが実際には苦しい時ほどに思考が湧いてきます、これが事実です。そのため多くの方はそのまま思考に取り込まれていきます。ここで何とか思考に取り込まれない、思考を放置する、、、この習慣をつけましょう。思考とは苦しみの世界を自ら作り出しその世界に意識を取り込む道具なのです。この事実を多くの方は知りません。思考することを善とまで勘違いしています。悲劇、喜劇です。

現実とは思考が全く介在しない世界

現実とは非二元です。現実とは神です。現実とは大いなる一つです。この世界が現実です、この現実に対して思考で持ってモノ??に名前をつけてモノ化し対象化し、顕現化し、、全部の現象を化させた世界こそが偽りの世界、人間が現実と呼んでいる世界です。この世界は思考によって化けた世界のことです。我々は言語によって化けた世界に生きています。この化けた世界こそが苦しみの世界なのです。にも関わらず何か苦しいことがあると考えてさらに化けの世界に入り込んでいきます。

人間とは考える分裂切り裂き機

切り裂いて切り裂いて重苦しい世界を生きる

人間とはこの世の切り裂き魔です。人間すらもこの世から切り抜きました。そしてその切り抜きは自分に留まらずあらゆる分野に及びます。TVニュースを一日中見てみてください、世界が重苦しくなりませんか???これが切り裂きです。ニュース、そして解釈を暗記することでその分世界が切り裂かれます。このニュースは果たして人を幸福にするのか??しません。ですがその分人間という体を生き伸ばす情報にはなったかもしれません。ですがそれだけです。

幻想の世界に降り立った自分

自分という存在をまずはこの全体から思考は切り裂いて見せました。そしてこの自分はこの存在を維持すべくさらに情報をかき集めて維持させていきます。どこに収入があるか、どこにお金になる仕事はあるか、どこに安定はあるか、、と情報をかき集めていきます。そして情報をかき集めれば集めるほどに世界は重く苦しくなっていきます。ですがこの自分は維持しやすくなっていきます。

生きるための情報は手にした、、だが苦しい

生きるための情報は手に入れてきた、、自分を老後まで生き伸ばす方法はわかった、、だが苦しい、、、これが幻想の世界に降り立った人間です。この苦しみはどうすればいい???この苦しみは自分、自我が生き延びるためにかき集めてきた情報、知識、解釈がそうさせています。先ずはこの親しみまくってきた思考を手放すことからしてみてはどうでしょうか、、この分裂世界を作り出した思考と距離を置くことからスタートします。思考が湧いても放置です。

目の前にピカソがあるか落書きがあるか

悟りとはこのこと

ピカソとは目の前の生命現象を生命現象のまま絵にしました。ゴッホも目の前の生命現象を英明現象のまま描きました。モーツアルトも神秘的な音色が頭の中を流れそれを楽譜にしました。いずれも目の前の生命現象に気付いていたかいないかの違いです。我々人間は生き抜くためあらゆるモノに名前をつけまくり、自身の中は思考フルスロットルにして、、生命現象を切り刻み尽くして見ています。ピカソの絵が落書きに成り下がるまで切り刻んで見ているのです。

切り刻み方が異常になると自死を考える

この切り刻み方が異常レベルになると人はうつ病になったり自死を考えるようになります。考えれば考えるほどにこの生命現象を切り刻むことになり世界は重く曇っていくのです。思考の恐ろしさを知らない極限状態です。人は苦しければ苦しいほどに思考の入り込みます、これによって世界はより重く曇っていくのです。その世界では何をやっても面白くない、、こんな人生を続けて何か意味があるのか?となります。

思考は放置する

思考の凄さは、、、ピカソの絵が落書きに見えてしまうとこまで生命現象を曇らせることができることです。これが思考です、これでも思考を信用しますか、これでも思考を使いますか、これでも思考と一緒に生きていきますか、、となります。思考とはこの全体、神、ワンネスを切り刻んで切り刻み体験をするための道具です。どこまで切り刻み体験をするか??そこは注意が必要です。

悟りすらない

今ここしかないから

悟りとは幻想の世界に入り込んでしまった個人もこの見える世界も全部幻想であったという全体の気づきです。そもそも幻想こそが全体の突然変異ですから悟りすらありません。いまここしかないのです。そこに幻想が起こっただけです、その起こった幻想が終わることを悟りと言います。幻想が主で全体が従ならば悟り後の世界があってもいですが我々は生まれる前から全体だけがあったので悟り前も悟り後もその中で起きただけです。

悟りがある、、、も思考の策略

この世界には悟りという境地があってそこにたどり着くととんでもない奇跡が起こる、ただしそれは何百年に一人しか成し遂げられないらしい。これが悟りに関する共通認識です。これによって自我は悠々自適に自身の存在を維持できます。誰も本気で悟りなど目指さないから。悟りなんていうものを目指すのは気が狂った人間だけになります。ですがまさかまさか思考が湧いていない時は非二元、悟りが既に目の前にあります。ですが目の前を景色を眺めた瞬間に過去に暗記したモノの名前が自動反応で湧いてきて悟りを切り刻みます。空、雲、風、花、小鳥、犬、木、、、これらの単語が悟りを切り刻むのです。概念、幻想の世界に引きずり込みます。

子供は切り刻まれていない

子供はなぜ大自然に触れて感動できるのか??それは大自然を大自然のまま見ることができるからです、人間は大自然を眺めた瞬間から木、林、森、太陽、風、声、川、落ち葉、キノコ、、、とこの宇宙生命をガツガツに切り刻んでいきます。これで生気を失った景色の出来上がりです。子供は切り刻まれていませんからそのまま生命現象が入ってきます。ピカソの絵がピカソの絵そのものの偉大さで入ってきます。

世界が全てピカソになる

悟とは簡単、世界が世界のままでピカソの絵のような偉大さに変わることです。小鳥の声がモーツアルトの楽曲のような神秘性を持ち、川の流れがダイアモンドの輝きを放ちます。大人になるとこのように全く感じることができないのは全てに名前をつけて偉大な生命現象を切り刻んだからです。つまり人間とは偉大な生命現象を目の前にして霞んだ景色を見ているということです。これを幻想と称します。ピカソの絵が目の前にあるにも関わらず落書きに見えているのです。