悟りすらない

今ここしかないから

悟りとは幻想の世界に入り込んでしまった個人もこの見える世界も全部幻想であったという全体の気づきです。そもそも幻想こそが全体の突然変異ですから悟りすらありません。いまここしかないのです。そこに幻想が起こっただけです、その起こった幻想が終わることを悟りと言います。幻想が主で全体が従ならば悟り後の世界があってもいですが我々は生まれる前から全体だけがあったので悟り前も悟り後もその中で起きただけです。

悟りがある、、、も思考の策略

この世界には悟りという境地があってそこにたどり着くととんでもない奇跡が起こる、ただしそれは何百年に一人しか成し遂げられないらしい。これが悟りに関する共通認識です。これによって自我は悠々自適に自身の存在を維持できます。誰も本気で悟りなど目指さないから。悟りなんていうものを目指すのは気が狂った人間だけになります。ですがまさかまさか思考が湧いていない時は非二元、悟りが既に目の前にあります。ですが目の前を景色を眺めた瞬間に過去に暗記したモノの名前が自動反応で湧いてきて悟りを切り刻みます。空、雲、風、花、小鳥、犬、木、、、これらの単語が悟りを切り刻むのです。概念、幻想の世界に引きずり込みます。

子供は切り刻まれていない

子供はなぜ大自然に触れて感動できるのか??それは大自然を大自然のまま見ることができるからです、人間は大自然を眺めた瞬間から木、林、森、太陽、風、声、川、落ち葉、キノコ、、、とこの宇宙生命をガツガツに切り刻んでいきます。これで生気を失った景色の出来上がりです。子供は切り刻まれていませんからそのまま生命現象が入ってきます。ピカソの絵がピカソの絵そのものの偉大さで入ってきます。

世界が全てピカソになる

悟とは簡単、世界が世界のままでピカソの絵のような偉大さに変わることです。小鳥の声がモーツアルトの楽曲のような神秘性を持ち、川の流れがダイアモンドの輝きを放ちます。大人になるとこのように全く感じることができないのは全てに名前をつけて偉大な生命現象を切り刻んだからです。つまり人間とは偉大な生命現象を目の前にして霞んだ景色を見ているということです。これを幻想と称します。ピカソの絵が目の前にあるにも関わらず落書きに見えているのです。

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