探求をやめない限り全体は見えない

先ずは探求をやめる

自分とはこの居心地の悪さを常に解消すべく動き回る存在です。自分とは孤独感、喪失感の根本を見ようとはせず常に何かしらの行為でこれを解消しようとする存在です。自分に行動、探求を許せば自分はひたすらにこの行動を続けていくことになります。なぜならば今というここにただ居るのは非常に苦しいからです。だかこそ先ずは探求、行動を辞めなくてはなりません。いかに苦しくても先ず行動を止めること、ここがスタートです。

行動の先に真実がない

先ずは動け、、、これを人間は真理のように言います。ですが全体は自分の行動の中では絶対に見えないようになっています。なぜならば自分が動けるのは時空間の中だけだからです。目を見開いて全開で行動すればそこから時間、空間が生まれ出し、、幻想の世界にどっぷりと浸かることになるのです。そこには全体、神は居ません。

全体は個人が動くのを辞め、個人を解体すると現れる

全体とは個人が動くことを諦め、個人という構造を解体することでそこから現れます。個人という存在が全体を隠しているのであってその個人が全力で存在を探すのがギャグになります。個人という存在が抜け落ちた時こそ全体が出現します。個人が実は幻想であることを見抜くことで見える世界も幻想であり、、ゆえに動くことでは何も掴むことはできず、そしてそこに気づくしかありません。

自分とは外部情報の集積

両親や友人の反応で自分を決めている

自分とは外部情報の集積です。友人や両親から言われてきたこと、、名前、性格、性別、年齢、、、ETC 、、それらの情報を集めて「自分」を形成します。全情報の集積が「自分」になる、ということは自分とは外部情報の集積ということになります。内部情報ではない、、、外部情報のみ、、、自分とはつまり実態がないモノなのです。

全く違う環境に生まれていたら

おかしな話ですが、、、全く違う両親に育てられ、全く違う友人に囲まれていたら、、、自分とは全く違う存在になっている可能性があります。名前、性格、長所、短所、特技、髪型、、、全部違うのです。そうなると「自分」とは本当に実態のないモノであることが理解できます。自分とは外から決められた情報をかき集めたに過ぎないということです。

自分とは幻想である

ここまで来ると理解できると思いますがこれこそ「自分」が幻想と言われている所以です。実態がないのです。外部情報をかき集めただけの「自分」中身がないのです。自分とは幻想であり、、そして見ている世界もまた幻想です。自分という幻想が所有する思考、価値観がこの見える世界を作り出し実態があるかのように見せてくれます。この事実に気づくと急に重さがなくなります。

全体から突如現れた個人は全体に飢える

個人は実は全体に飢えている

この全体しかない世界において個人が突然生まれるわけですが生まれてきたわいいがなぜ生まれたのか?なぜ生きなくてはならないのか意味がわかりません。全体でしかなかったのが突然個人になってしまったわけです、寂しいし、居心地が悪いし、絶望感が湧いてくるしで苦しくて仕方がありません。そこで個人はこの世界の中に何か自分を満たしてくれるものはないか?と日々貪るように生活していくのです。

ですが何にも満たしてくれない

突然全体から個人になっても何が苦しいのかさえ分かりません。全体だった記憶は全く消え失せてしまいないのでただ苦しいだけ、ただ寂しいだけ、、、何が起きたのか全く分からないのです。これが大人の真の姿です。どこまで行っても何がこの苦しみを解消してくれるのか見えてきません。友達をたくさん作っても、恋人を作っても、ゲームをたくさんやっても、スポーツに興じてもいつもどこかで不安を抱えています。これが人間の真の姿です。

神仏に頼る

大人になってもこの居心地の悪さの真意が見えないことで人は神仏に頼るケースもあります。この心の大きな穴を埋めてくれるのは神や仏ではないか?ということです。ですがこの「自分」という大前提を壊さない限り、、この大きな穴は絶対に埋まらないのです。なぜならばこの自分という存在が全体を真っ二つに引き裂きそれこそが苦しみを生み出しているからです。

残念な社長(私)同士の世の中

実は全部部下が決めている

残念な社長って世の中にいます。実は部下が全部決めているのですが表向きは社長が絶対的に決めていると装っている社長、、、部下言いなりになっているが表では自分がしっかりと決めていると言い張る社長、、これが人間の姿です。この私(自分)が全部決めていると思い込んでいますが本当は何も決めていない、、、神(潜在意識)が決めたことを私が決めていると錯覚させられているだけ。これが私です。

本当は全く決めてないのにいがみ合う社長同士

なぜあなたの会社はこんな決断をしたんだ???私がこんな決断をしてしまい本当に申し訳ありません、、、こんな茶番が日々繰り返されています。本当は全く誰も自分では決めていないのに。大喜利、コント、落語の世界の話です。誰も何も決めていないにも関わらず決めているという大前提で人間同士、残念な社長同士が罵り合うという悲劇がこの現実です。

誰も何も決めていないのだから、、、

誰も何も決めていないのだから、、、いがみ合うのは無意味です。かと言って何も相手に責任を求めないのもおかしい、、相手を残念な社長だと理解すれば、、、(本当はあなたが決めていないのは知ってるけれど、、、)このようにお願いします、、、と大人の対応ができるようになります。残念な社長を相手するように全てを対応していけば万事平和にことは進みます。

顕在意識(私)は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたと錯覚を起こす

顕在意識はただひたすらに錯覚を起こす

顕在意識とは私のことです、この私は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたとひたすらに錯覚を起こし続けます。本当は全部潜在意識が決めているにも関わらずただ健在意識はそれを私が決めたと錯覚を起こします。全部が全部このパターンで行われています。だからこそ無自覚であっても料理、掃除、食事、トイレなどの日常生活の行為は勝手に遂行されます。今私はタイピングしていますが自分が打っているという自覚は後付けでしかありません。

顕在意識が私が決めたと錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めている

ということは顕在意識がこの錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めているということになります。大変面白い事実です。結局のところ「覚者は全て自作自演であると言う」のはこの事実からです。潜在意識から昇ってきたきた衝動を顕在意識が自分が決めたと錯覚を起こし続けるメカニズムが人間(私)です。

何も決めていないならば何も反省できない

このメカニズムを知ると、、顕在意識(私)に決定権は何もなく、、、決定権が何もないにも関わらず慢心したり、反省したりするのは無茶苦茶な行為です。人間(顕在意識)に決定権が何一つないならばこの世界で行われている責任の擦り付けに何か意味はあるのでしょうか。ただしこの責任の擦りつけすらも潜在意識が決めてそれを顕在意識が錯覚を起こしているだけですのでそれすらも顕在意識には関与できません。この世は神の遊び場というのはどこまで行っても本当のようです。

全ての価値観はトリック

全価値観はトリックである

価値観とはこの体、思考、感情が「自分」でありその自分が体験した経験こそを土台に構築されています。人は信用できない、、、という価値観を強く持った際にはそれが土台になりますし、その思考で世界を分離して見ますから街を歩けば信用できなそうな人間ばかりが目に入るようになります。ですがこれはその人がそのような思考を通じてこの世界を見ていることによって成り立ちます。ということで全価値観とはトリックです。本当はこの世はたった一つのエネルギーしかなくそれゆえ分離は一切ありません。価値観を所有する個人は実はいないのです。

では価値観には意味がないのか??

価値観は悪ということもありません、価値観を所有すればその価値観に沿った世界が分離をして見せそのような世界が広がるという事実だけがあります。それに良い悪いはありません。神はこのように人間体験をしているというだけです。人間は独自の価値観を構築しその価値観を通じてこの世界を構築します。その世界が苦しすぎる場合その人間は新しい考え方を取り入れていき価値観を徐々にシフトさせていきます。すると見える世界が変化をしていきます。それでもこの苦しさ、居心地の悪さが完全になくなることはないのでそこからも価値観は徐々に変わっていくということになります。そして苦しみが完全に解消するまでこの試みは続きます。

どんな価値観を所有するか、、その人の世界

どんな価値観を所有するかが、、その人の生きる世界になります。その世界はあくまで分離世界ですからどこまで行ってもそれは嘘、幻想です。世界はたった一つのエネルギーで構築していますから分離して見えている時点でそれは価値観に支えられた世界です。真実ではありません。真実はこの世は一つこれだけです。これ以外は全部幻想、妄想です。その人がどのような価値観を所有しどのような幻想の世界に今生きているか、というだけです。

価値観と事実は全く異なる

価値観とはこの人間の独自の体験でのみ成り立つ

価値観というのは事実とは全く異なります。この違いこそが苦しみ、孤独、喪失感、絶望感を生み出します。もっと言えば価値観自体が個人という自分が居るという絶対条件で成り立っています。ですがこれ自体が事実は異なります、個人という全体から分離した存在はいません。ですから個人という人間が体験したことによる価値観は常に苦しみを生み出す源泉になるということになります。

事実は「この世界はたった一つのエネルギーで出来ている」

事実だけを説明すればこの世界はたった一つのエネルギーで形成されていてそのエネルギーが変幻自在で動き回っている。その中に人間という現象が起こり、この人間は独自の進化を遂げ分離世界を構築しているということです。ですが実際には分離は起きるわけがなく分離している錯覚だけが起き続けるということです。この分離体験の総集編が価値観です。大誤解から起こったものが価値観です、この価値観こそが人間に苦しみの感情を湧かせ続けています。

価値観こそは人間を神に戻す道具になる

価値観が事実と同じになるまでこに苦しみは延々に続いていきます。なぜならば勘違いをすればそれは反映されるからです。ということで価値観は変わり続けていきますしその間は苦しみが湧き続けていくのです。価値観から発生する苦しみは人間に気づきのヒントを与え続け自身が実は全体だったという究極の気づきにまで誘います。

この世界では自らを殺める自由すら与えられている

間違えることができるのは愛

本当の意味では間違いというのはないのですが、、この人間ゲームでは間違うという自由すら与えられています。これはゲームですからどの行動も完璧です、ゲーム上で行える行動は全部許されているからその選択肢があるわけです。そうなれば我々の行動には一切間違いはありません、マリオゲームでのプレイに失敗は全くありません。クリアする上で非効率に見える行為があるだけです。この人間ゲームも同じ、このゲームでは自らを殺めるという自由すらも与えられています。

なぜそのような自由があるかと言えば、、

なぜそのような自由があるかと言えばそれこそが愛、神、ワンネスが舞台の大元だからです。この人間ゲームではあらゆる失敗をすることが完璧に許されているのです。そして失敗とは人間が考える価値観であり宇宙には失敗という概念すらありません。人間という存在が苦しむ自由が与えらえているので自らを殺めるという選択肢を取る自我も現れるということです。

苦しむ自由が与えられている、、

この人間ゲームの特徴は苦しむという自由が大前提にあるということです。神が人間になり切っているわけですから基本が苦しみです。あとはその苦しみをいかに回避しながらも苦しみの根源に迫っていくゲームです。ゲームの特質上、途中で自らを殺めるという選択肢を取る自我も現れるでしょう。ですがそれすらもそのような行動をとる自由が与えられているというゲームの寛容性なのです。

面白いも苦しいの一つ

TVゲームは楽しいの次の日に退屈が襲ってくる

TVゲームが好きな人は分かっていると思いますが昨日まで楽しかったゲームが次の日に全く面白くないということが起きることが多々あります。突然飽きて全く面白くなくなる、、、これ人間の本質を突いています。人間にとって楽しいはある日突然飽きるに変わる可能性があるのです。これは非常に辛いもの、苦しいものです。人間関係ではこれは顕著に出ます、、それまで楽しいの関係がある日突然苦しいに変わる、、、、絶対に誰でも経験したことがあるはず。人間の快不快は常にコインの表裏、快不快はどちらも苦しみの次元にあります。

人間の快不快が苦しみならば、、

芸能人の売れる売れないはどちらも苦しみです。自殺者が出ればそれは容易に理解できます。人間にとって他者評価の高低はどちらも苦しみです。人気者も不人気者も実はどちらも苦しみです。そうです「自分」という存在が引き起こす快不快はどこまで行っても苦しみにつながるです。これが人間の本性です。いかに早くこれに気づくかです。神が人間になり切ってこの人間ドラマを生きていますがこのドラマの卒業以外にこの苦しみを解消することは不可能です。

楽しいを追い求めるのではなく、、

楽しいを追い求める=苦しみの世界に移住です。そうではなく全作業から歓喜、平和、安堵に入れることを知ります。掃除、食事、仕事、エクササイズ、全作業が無心、無我に入る入り口になります。このことを知るのです。何かをしたら面白くなるかもではなく、、、全作業に集中して取り組みそこから無心、無我に入っていきます。全作業を花道、書道、剣道のように無我への入り口に使います。

朝嫌なニュースが届いた、満員電車が窮屈だった、、全部嘘

不快な出来事は全部嘘

朝起きて早速TVを観たら嫌なニュースがやっていた、、そして通勤のために満員電車に乗ったら窮屈で不快だった、、コンビニでコーヒーを買ったら冷めていて不快だった、、、、人間はあらゆる原因で不快感を味わっていますがこれ全部嘘です。神が人間活動をしている時点で基本不快なのです、、、その不快さをあらゆる出来事が表面化しています。あらゆる出来事が現実に落とし込んでいるのです。基本に不快感、居心地の悪さ、窮屈感があり、、それをあらゆる出来事が表面化させている、、、これが答えです。

神が人間をやっているという違和感が変化しているだけ

あらゆる人間同士のトラブル、争い、紛争、、、これらの根源は神が人間をやっていることによる違和感、絶望、孤独です。皆ここから来るストレスと闘っています、このストレスが苦しすぎて、でもこの事実に気づいてもいないので人に対してそれをぶつけるのです。仕事が辛い、仕事の人間関係が苦しい、家族の人間関係も辛い、、、違います。。神が人間をやっているのが辛いのです。

この事実を受け入れると悩みがぶっ飛ぶ

この事実を受け入れますと悩みがぶっ飛びます。今まで様々なことに悩んできたかもしれませんが全部それは違和感の代替作業だったのです。神が人間をやっているこの違和感が大前提にあって、、、それが人間活動の悩みに置き換えられてきただけだったのです。受験が辛い、学校が辛い、塾が辛い、部活が辛い、会社が辛い、暇が辛い、結婚が辛い、一人が辛い、、、全部嘘です。