いつか悟りが開く時を待つの誤解

時間軸の延長線には悟りはない

悟りとはこの時間が幻想であることを見抜くことです、この自分、自分が動く空間、時間、、これらが幻想であることを見抜くことであり、、それゆえいつの日か悟りを開ける日が来るだろうという思い込みは「自分」と「時間」というものを大前提にした考えでありこの考え方は逆に悟りを閉じます。ですが路頭に迷う探求者であるならばいつの日かという発想を持つのは当然のことでありこの誤解の事実をただ認識するのみです。

誤解を解き続ける結果として突然気づきが起こるのみ

思考を使いこなす自分としてではなく、、思考が抜け落ちた無我としてただひたすらに「自分」「自我」のメカニズムを理解していきます。どのように自我が構築されてどのようにこの分離の世界が出現したのか、、、我々の誤解を解き続けていくしかありません。自分という視点が作り物であるという深い理解、分離しているというこの世界の思考によるメカニズムの深い理解こそが「自分」から全体へのシフトを起こします。

時間とは?

時間というのはこの「自分」がこの世界に誕生することで生まれました。この自分が経験することの積み重ねを記憶した際に時間の認識が起こります。ですがこの「自分」が幻想である以上、時間も幻想ということになります。移り変わりを記憶する「自分」がいることで時間というアイデアを共有しているだけのことです。ですからいつの日か悟りを開ける日が来るという考え方は多くの矛盾を秘めているのです。

自分をなくすための努力は自分を強化する

残念ながら悟ための努力は自我を強化する

苦行、瞑想、お経、霊的向上、座禅、、、あらゆる悟るための努力の多くは自我を強化していきます。なぜかと言えば悟ろうとするのが「自分」だからです。どうしても「自分」は悟ることすらも自分が成し遂げようとするわけですがこの努力は逆に自分を強化する結果に終わります。自分を維持する自我のメカメニズムは自らそのメカニズムを放棄するわけがなく結果「自分」が行おうとする行為は逆に自我を強化します。

自己認識を変えるのみ

悟りとは視点の転換です。自分として何かを達成するのではなく、自分が居ないという認識です。では一体この在るというこの感覚は何なのか?間違いなく「在る」という感覚は確実にあります。自分が仮に幻想であったとしても「在る」というこの感覚に嘘はなく、、いくら幻想であると言われても幻想しかないということには納得できません。この自分が偽りであることを腹落ちできた時この在るという感覚だけが残るのです。これが答えです。

物も自分も全ては幻想

我々は生まれてきてから何度も両親に名前を呼ばれ続けてこの体を「〇〇ちゃん」と認識するようになりました。名前を呼ばれ続けることで脳がその名前を記憶し、、、この体がどうやら〇〇ちゃんであると意識し始めます。全体意識の個別意識化の成功です。全体からこの体、思考、感情が分離します。そしてそこからあらゆる見える物に対して名前を記憶していき名前が付けられた物が全体から分離していきます。この事実を理解することで自分、その他の物の分離のメカニズムが理解できます。この理解が分離のトリックを解消します。

自分というものが幻であるのになぜ自由意志があるのか?

自分=思考、感情、体

自分とはこの体、感情、思考を自分自身であるとした意識です。これによってこの自分は全体から分離しました、この感覚がなければ全体からの分離はありません、つまり分離は分離意識が起したものでありこれが無ければ全体のままです。分離しているという錯覚がこの分離意識を起こしているだけであって本質は全体のままです。分離はあくまで錯覚でありゆえにこの自分の中に起こる思考は全体からの現れであることに違いはありません。そういう意味では個人の自由意志はないと断言できます。ただし全体からの意思の現れはあります。

自分を命名した瞬間に全体から分離が起こっただけ

我々は生まれてから、、、両親からどのように扱われるか、、、、とても重要なここポイントです。名前を呼ばれ続けるのです、、、ひたすらに名前を呼ばれ続けます、、、太郎くん、、太郎くん、、、、これを1万回ぐらい呼ばれ続けます。。これにより子供はこの体、思考、感情を太郎君であると認識します。この1万回の声かけによって我々はこの体、思考、感情を、、、全体から分離させることに成功するのです。意識にはこのような力があります。他者からの声かけによって分離錯覚が生まれます。。

そして視界に入る全てのモノの名前を覚えていくことで全てを全体から分離させていく

そこからはモノの暗記が始まっていきます、目に入るあらゆるモノの名前を暗記していくことでそのモノが全体から分離していきます。これをそこから何十年とかけて行なっていくのです。自分が先ずは他者からの声かけで分離し、あらゆるモノの名前を覚えて視界に入るあらゆるモノが分離していきます。これにより分離幻想のストーリーが完成します。自分の分離に関しては何万回と名前を呼ばれることでこの分離意識を解消するには恐ろしいほどの気づきが必要になります。それゆえ多くの人は生まれて死ぬまでこの分離錯覚を見破ることができません。

知性では非二元は理解できない

言葉での理解を超えている

非二元は言葉によって二元の世界に豹変します。言葉こそが二元を支える土台です。その言葉で非二元を理解しようというのが人間の試みです。言葉で非二元を二元に表変させておいてその言葉で非二元を探すというこれはとんでもない矛盾行為を行なっています。それでも人間はなんとか非二元、真実を求めてそれを指し示す言葉を探すのです。

詩を読むように世界観に触れていく

私がお勧めする方法は詩を読むようにこの世界観に触れていくことです。ピカソの絵の素晴らしさを理解したければあらゆる「絵」に触れるしかありません。おそらくこれを言葉で理解するのは不可能でしょう。そうです、良い音楽も良い小説も、良い絵画も言葉で説明できるわけがない。非二元も同じです、これを言葉で理解するのは本来不可能でありゆえにこれは触れて触れて真実を掴むしかありません。

良い詩を作るのにマニュアルがない

良い詩を作るのにマニュアルがないように、、、非二元を掴むマニュアルなどあるはずがありません。ただ非二元は常に今ここにあり逃げることは絶対にありませんから少しずつでも触れていくしかないのです。ですが非二元に触れると言ってもこれは実態がない世界ですから焦れば確実に空振ります。ピカソの絵の素晴らしさを理解するマニュアルがないように非二元を掴むマニュアルがないこと、このことを理解すること、これが言葉の限界です。

今ここに故郷があることを探求者は認めない

今ここにあってはいけない

遠い未来に故郷はあるべきで今ここに故郷があってはならない、、なぜならば遠くにあるという大前提で今まで来たのだし、これからもそうだ、、これが探求者の思考です。今ここが不満足、欠乏、居心地が悪いから探求を続けてきたというのに「今ここ」が故郷だと言われてしまったらもう何もできないではないか、、、という理論です。ですが本当のことを言ってしまえば、、、故郷はここにしかありません。なぜならば今我々が見ている本質は宇宙のアートそのものだからです。にも関わらずそう見えていないのは宇宙のアートを切り刻んでしまった「自分」が存在するからです。

幸せの青い鳥は真実

幸せの青い鳥、、この童話の真意は分かりませんが、、、今ここに全部、故郷があるのは紛れもなく真実です。なぜならば今ここに動く空、色が顕現しているからです。ですが我々はそれを見ることがっできません、我々ができることは切り刻まれた色の世界、色の残骸のみです。今目の前に灰色の景色が広がっているならばそれがあなたの切り刻んだ世界です。覚者は一切の切り刻みを見抜きありのままの色を見ているのです、ありのままの色とは動く神、宇宙のアート、ダイアモンドの変容です。

足を知ろう、、、は間違い

欲を捨てろ、、、これは仏教の常套手段ですが、、、真意を知らないでこれを忠実に守ろうとすればただ絶望的な人生を歩むことになります。確かに故郷はこの目の前にあります、桃源郷は今目の前にあります。ですがそれが見えない、、、、その見えない理由とは何か?それを見れていない「自分」とは何か?ここまで掘り下げていきますと「足を知る」の真意が見えてきます。この「自分」が貪って貪って今ここ以外に幸福を求め歩き続けてもこの不足感が解消することはない、、、これが真実です。この貪る「自分」の欠落、分離の真相を見抜くことで目の前に故郷が再び現れます。

こちらの認識とは何も関係なく、、色は動く

分離の世界を生きていようといまいと、、

こちらの認識とはうっさい関係なく色は動き続けなす。修行無常の世界はただ動き続けます、変わり続けるアート作品のように、神が作ったクリエイティブ作品のように。私という視点がどのような分離の世界を見ていようとそこには何の関係もなく色の世界はただ動いていくわけです。そこに人間の脳は分別、解釈を加えていき一人一人違った世界を見せるだけです。ある人の解釈する世界ではそこには争いが絶えず、ある人の見る世界では罵詈雑言が飛び交っているかもしれません。

こちらの思考の解釈がただある

思考の解釈に優劣はありません、ただその「自分」というものが体験した積み重ねが記憶に構築されそこから価値観が生まれだします。その価値観に基づき分別が生まれ、この大アートを切り刻んでいきます。この切り刻み方が人によって全く違うということです。どこをどう切り刻むかによってこの分離の世界は姿を変え続けるということです。どのような分離の世界を生きるか、、これは全員が違いますが唯一同じことがあります。それは分離の世界はどこまで行っても苦しいということです。だからこそ分離の世界にお腹いっぱいになった順番で悟りを目指すようになります、分離した「自分」が。

宇宙のアートはただ動く、それぞれが自由に切り刻む

本当の本当はどう個人がこの宇宙アートを言葉で切り刻むかすらも決まっているのですが、、そこは横に置いておいて我々個人はこの神のクリエイティブ作品、宇宙アートを独自の言語、単語で切り刻んでいきます。「自分」を切り刻み、見える世界を八つ裂きに切り刻んでいくのです。切り刻み方によって見える世界は変化していきます。切り刻んで切り刻んで切り刻み尽くした時に分別のある大人が誕生しているかもしれません。ですがそこにはアートはすでに存在せずアートの残骸、背景に化した世界が広がっているかもしれません。

何一つ否定するものがない=ノンデュアリティー

否定するためには否定する対象が必要

何かを否定するためには先ず否定する「自分」が必要になります。さらに否定するための「対象」が必要になる。そして否定する対象があるならば肯定する「対象」も必要になる。こんな具合で否定とは分離世界でしか成り立たないということです。つまり否定をしている時点でそれはノンデュアル、非二元ではないということになります。非二元とは「対象」となる分離した存在が何もないということです。非二元を生きるとは対象が何も無い世界を生きるということになります、つまり完全なる一なるエネルギーそのもになるということです。これが究極の悟り、大悟です。

何十年間分離を学んできたのだから

我々は生まれてきてからひたすらに分離を学んできました。物に名前を付けてひたすらに分離を続けてきた、、結果相当数の名称を覚えその分だけこの見える世界は分離を極めたのです。何十年間かけての分離マスターです。そしてそれに辟易したならば、、融合マスターになればいいのです。融合マスターとは悟り、覚者です。徹底的に学んできた名称をカテゴライズしていき俯瞰していきます、俯瞰して俯瞰して情報が整理されていきますと、、つまり情報が融合されていきますと、、最後はたった一つのエネルギーに見えてきます。たった一つのエネルギーが秩序を持って最高のアートを描いていたのが理解できます。目の前に常に最高のアートが現れた状態になります。

分離マスターから融合マスターへの道

悟りを目指すということは単純に融合マスターを目指すことになります。これまで学んできた情報の究極の整理です。「要は、、」「端的に言えば、、」「とどのつまり、、」情報を伝えるのが上手い人は必ずこれをします、、分かりやすい説明とは、、情報の整理のことです。このマスターになっていくのです、、、悟りを目指すとはこのことです。覚者は、、、見ている世界をそのまま表現しますが、、、あれを理解できたら苦労はしない、、、我々分離世界を生きている人間は徐々に情報を整理していくことで同時に見ている世界を整理していきます。情報整理、情報融合の行き着くところは悟りです。

究極の分離から究極の融合へ

究極の分離とは自立した大人

自立とは自らで立つと書きます。自ら立つ、、、この自らというのがポイントでこれこそが宇宙アートから完全に分裂し分裂した身としてしっかり立つことを意味します。自立とは自我の完璧な分裂でもあるのです。この状態は逞しくはありますが日々不安感、喪失感、恐怖感、欠乏感が湧いてきます。なぜならば宇宙全体からの完全分離は苦しいことだからです、本当は分離していないから。役者が役になり切っている状態はある種全部が偽りの状態、快楽もないもかもが嘘です。

役に入り込みすぎた役者は、、、、

役に入り込みすぎた役者は、、、食事の趣味も、性格も、好きな娯楽、好きな音楽すらも、、、本来の状態を忘れ全く別人格になります。これは全部が全部偽りの状態、、、どこかで無理がくる、、おかしくなる、、、居心地が悪くなっていく、、、、何かがおかしい、、、が常に頭をノックする、、、、、これが完全分離した大人の精神状態です。宇宙全体は完璧なまでに人間になり切った姿、これが自立した大人です。これが究極の分離です。

究極の分離に疲れたら究極の融合を目指す

究極の分離は周囲からは讃えられるでしょう、素晴らしい、責任感がある、真面目だ、、、ですが実際には本人は苦しい、どこかで違和感を感じています。もしも完全なる分離体験に疲れたら、、、究極の融合体験を目指すべきです。究極の融合体験とはこれまでバラバラに分離してきた情報を再び融合していくことです。情報を整理していくのです。バラバラに散らばった机の中をカテゴライズして整理していくことで頭の中が整理されていきます。頭の中が整理されていくということはこの見える世界が整理されていくことになります。そうなるとどうなるか見える世界が融合していくのです。見える世界が融合されていき見える世界に活気が再び戻ってくるのです。そして究極の融合とは何か?ご想像通り悟りです、要はこの分離して見せてきた世界が実はたった一つのエネルギーだったといういう理解、気づきです。

色と空に境目はない

色と空は一つ

ノンデュアリティーとは非二元ですから色と空が別だ、、と言ってしまったら矛盾します。色と空は二つで一つです。色とは動く空であり空とは静止した色です。おそらく人間という体を持った状態でこの事実を完璧に腹落ちさせることは不可能でしょう。少なくとも我々はこの動く空の中で個別意識を持ち分離体験絶賛行動中の身であることは間違いありません。分離全開、分離上等です。家庭教育、学校教育でモノの名前を丸暗記していくことでこの大宇宙をバリバリに引き裂き分離してみせその中を生きるという芸事をやっているのがこの人間です。この人間の視点から色と空の双対を否定し切るのは難しいものです。

一瞥体験者は色の世界を馬鹿にする

色から空の境地、、、絶対無を理解した一瞥体験者、覚醒体験者は、、移りゆく世界、移り動く世界、諸行無常の世界を意味のない世界、、そこで右往左往する我々人間の動きを嘲笑います。本当は絶対的無しかないのだから何を慌てて生きているのだ、、、ということです。何も達成しても無駄、何を成就しても無駄、、という結論に走るわけです。ですがこれはこの広大な宇宙アートを創造した意図を組めていません。我々はこの偉大な宇宙アートが人間という視点からこの宇宙アートを体感するという偉大なゲームをしているのです。このゲームに虚無感を感じのは幼稚な解釈です。

私を通じて見る世界を楽しむ

そもそもが壮大な宇宙アート、完璧な神のクリエイティブ作品であるこの世界に人間が個別意識、分離意識をもて降り立つことでバランバランに引き裂き生気、活気、芸術性を切り裂いて生きているのが我々に生活です。だからこそ人間はアートを再び求め、偉大な音楽に聞き惚れます。なぜならば本来は全部がそうだからです。このバラバラに切り裂かれた世界に再び神を再発見したいのです。ゴッホやピカソ、べートーベン、モーツアルトには見えていました、聞こえていました、神のアートが。だから彼らはそれを神や楽譜の上に表現したのです。

否定とは分離の錯覚の中でしかできない

もしもこれが宇宙のアートだと分かっていたら

もしもこの我々が見ている世界が宇宙のアートだと分かっていたら、何も否定するものは在りません。あろうはずがないということです。なぜならばアート作品に分裂はなく全部で一個です、このアートの全体性が完璧であるならば部位部位に分けてこれを否定するんど起きようがないということです。ということで我々が日々行ってい否定とはこの大宇宙アートをバランバランに分裂させ部位別に否定するという行為をしているのです。まず「自分」を分裂させてから自分以外を分裂させ部位別攻撃をしているのです。

宇宙アートから切り抜いた時点で生気を失っている

ピカソの絵のごく一部を切り抜いて否定批判をする行為は滑稽です。なぜならばピカソの絵は全部で一つであり切り抜いた時点で価値は激減しているのです。バラバラに切り裂いて部位別批判をしてもその行為には意味がないのです。あるとすれば「自分」を優位に立たせるための戦略でしょう。我々は本来は最高傑作の宇宙アートを切り裂いてお互いに批判し競争し罵詈雑言を言い合うという意味不明の行為をしているのです。ですがこれも神の遊び、宇宙全体の遊びですから完璧です。

子供から無邪気が失われていくのは当たり前

大人になるということは無邪気が失われていくことです、元気が失われていくことです、、なぜならば宇宙全体の偉大なアートを思考、言語で名前を付けて徹底的に切り裂いていき生命力を奪っていくからです。奪っている「自分自身」も当然生命力が奪われていきます。徹底的に切り裂かれた世界を孤独に生きていくことになるのです。ですがそれも神が考えた遊びです、小さく切り裂かれた自分からこの世界を眺めてみたいという神のゲームです。どこまで切り裂かれても神は神ですからいずれは神に全員戻ります。