悟った状態が人間のデフォルト

そもそも悟っていた

人間は悟った状態で生まれてきています。生まれてきて直ぐに自分を形成している赤ちゃんはいません、つまり悟っているということです。悟りが閉じている状態とは自我と大いなる一つが同一化している状態もことです。この状態でないとき同一化がされていませんから悟っているのです。赤ちゃんとは悟っているのです。ですが問題が起こりました、、、育てている親が悟りが閉じているのです。そうです、思考との同一化を起こしている存在が両親なのです。ということで赤ちゃんは徐々に思考と同一化していき悟りを閉じます。

悟りを閉じて苦しみの人生が始まる

我々は悟りを開いた状態で生まれてきて悟りを徐々に閉じていきます。思考との同一化が完璧になると悟りが閉じ切ります。この状態はこの体にとっては絶対王政時代です、どんな手を使ってもこの体の存続を維持しようと思考がフル回転します。ですが非常に苦しい、悟りが閉じ窒息状態です、思考を自分としその思考をフル回転されせればさせるほどに苦しい、窒息しそうになります。それでも生き延びたい、、、

苦しみフルマックス

悟りを閉じて、苦しいからとさらに閉じてを繰り返しているうちに苦しさがフルマックスになっていきます。こんな人生ならばもう生きていなくていい、、、急にこの人生を俯瞰する存在が登場します。ここまで苦しいならもう辞めちゃえば?大いなる存在と自我との同一化に日々が生じ始めます。共産主義が内部崩壊するように、、この自我と大いなる一つの共存も内部崩壊が生まれてきます。そこからが悟りを開くことへの意識転換です。

「どうでもいい」これは自我崩壊の声

自我は不安に駆られてあの手この手を尽くす

自我は基本不安です、最も危ういもの思考、感情、そして体を自分とすることで常に不安定に生活をします。今日の体調、メンタル、、何もかもが不安定。だからこそ圧倒的な安定に常に憧れます、圧倒的収入、貯金、地位、職業、、、強いモノに対する憧れは自身の不安定さゆえです。ということで自我は小賢しくこららを集めようとするわけです。自我の本音に任せておけば基本どこまでも拝金主義、安定主義です。それを手に入れるためなら魂だって売ってやるの覚悟です。

自我同士の取り決めは細かい

会社へ入れば分かると思いますがルールが恐ろしく細かい、、、人間という自我と自我の集団の取り決めは細部に至ります。なぜならば自我にとって永遠、絶対は皆無、基本的に全部をルールで縛らないと不安でしょうがないのです。結果どこまで行っても細かいルール契約が続きます。ルールを守ることが仕事なのか?というぐらいにルール厳守が続くのです。自我はそれでいいかもしれません、ですがその奥にある本質、無我、大いなる一つは「どうでもいい」と感じています。

何をするにも約束、約束

アメリカのメジャーリーガーがチームと契約する時、百科事典並の書類の契約をまとめるようです。これには怪我について取り決め、肖像権、家族の不幸、成績不振のケース、次のチームに行った時の決め事、、、全ケースに対しての取り決めを行います、これが悪いと言いたいのではありません。これが自我同士の契約んです。どうでもいい、、と言いたくなるような山のような契約を約束しないと将来的に問題にあるということです。ですが実際にはここまで契約を結んでも問題は常に起こり続けます。これが自我同士のコミュニケーションです。

「どうでもいい」が頻繁に湧いてきたら、、、

全宇宙存在、大いなる存在はこの自我分裂ゲームを楽しむのは、、、全体では絶対に体験をするためこそです。とはいえあまりに下らない細かいルール、取り決めに1日を縛られ続けると不快感、欠乏感、居心地の悪さが泉のように湧いてきます、自我から。。。。それでも思考はこの感情をなんとか処理していきますが、、、ある時どうでも良くなります、もうどうでもいい、、、苦しさの爆発です、苦しさで自我が内部崩壊を起こします。

事実、血液の流れ、細胞の生まれ変わり、心臓の動きも自分がやっていない

自分とは面白い

自分というのはこの体の王様としてのさばっていますが、、、本当のところ唾液の分泌、胃腸の動き、排泄までの流れ、心臓の動き、発汗作用に至まで何一つ自分の意思では行っていせん。全部自動操縦、唯一、思考、体の動き、感情の処理などを意識的に行うことができますがそれ以外は何一つ「自分」の意識では行っていません。にも関わらず「体、思考、感情」を自分でコントロールし行っていると勘違いしています。だからこそこの「自分」は思考の制作を積極的に行います、思考が湧いていれば自分という存在を強く意識できるからです。

いっそこの「自分」が居ないことにして暮らしてみては、、

自分という認識などなくても放っておいてもこの体は動くし、思考も感情も意識しないでも勝手に湧いてきます。例えば料理をする時など、、全部を無意識で行うことができます。計画を立てるという行為は必要になるかもしれませんがそこに「自分」は必要ないのです。ただ美味い料理ができたときは「自分」が作りましたとインスタにアップしたくなります。「自分」がやることなどその程度のことです。

この体で起こるほとんどをノータッチなのに、、なぜ偉そうにしているのか

心臓などの内臓を思考(自分)の部下としたら内臓は自分の命令など一切関係なく動いています。感情をもしも思考の部下とするならば感情など全く上司(思考)のコントロールが効きません。ましてや思考そのものすら自動反応で止めることができません。にも関わらずこの私は体、思考、感情を「自分」と認識できているから凄いことです。これほどまでに不安定な要素をかき集めて「自分」と認識しているところが面白いのです。

悟りという言葉こそが自我の策略

悟りは遠い世界にあるという作為的思い込み

自我にとって悟りとは自我の消滅です、こんなことが頻繁に起こってしまったら自我は壊滅状態に。自我は考えました自我の壊滅を「悟り」という言葉で表しこんなことは釈迦やキリスト以外達成できない代物という印象を与えようと。「悟り」などこんな胡散臭い世界は遠い先にあると思い込ませようと。自我のこの策略は完全成功し悟り、自己超越などという言葉をTVで聞くことなど先ずありません。自我は臆病ですからみんなが話をしないことなどに興味を持ちません、怖いからです。

この体、思考、感情を自分だと思い込む思い込みを思い込みだと見抜くだけ

ギャグのようなタイトルになってしまいましたが上の文は真実です。我々人間はこの体、思考、感情をひっくるめて三点セットで自分であると思い込むことに成功しました。自我の完全勝利、自我何千年間の勝利です。人類が生まれてきてこのかた自我はこの思い込みを完璧に人間に刷り込み勝利を収め続けてきました。大なる一つ、全存在、全宇宙の「自分」体験です。この自分体験はもちろん幻想ですが一度この幻想に取り込まれたら最後多くの方は死ぬまでこのトリックを見抜けなくなります。

ではこの確実に湧いてくる思考、感情は誰のモノだ?

誰のものでもないのです、、それがこの体の中で起こっただけです。ですがこれを自分のもの、自分だと思い込むことで次から次へと思考感情が湧き出してきます。鶏の卵が先か鶏が先か?理論のように、、、この思考、感情を自分であると思い込むことで、、次から次へと思考感情が湧き出してくる、、泉のようです。そしてこれは不思議なことにこれは自分ではないと気づくと自然と思考、感情の泉が少なくなるのです。そうですこの感情と思考は自分を維持するために湧いてきていたということです。

坂本龍馬の行動は自己超越

「自分ごと」がない

坂本龍馬の行動は自己超越を上手く表現しています。彼は「自分」の損得を完全に超越して行動を取り続けていきました。もしも彼が「自分の損得」にこだわっていたらあのような偉業は達成できなかったはずです。自我とは損得でしか動けません、この自我を超越しなければ損得を超えた行動を取れないのです。彼は日本という国が海外の列強国に狙われていると危機感を感じ国のために行動を続けていた結果「自己」「自我」「自分」が消えてなくなりました。自我は放置しておくと消えてなくなります、なぜならば実在しないからです。そうなるともう全てを「自分ごと」にできなくなります。

無我が行動している

自分ごとがない人の行動とは自分がいない人の行動です、自己超越した行動、宇宙全体の行動の現れです。そこには体や思考、感情はありますがそれを「自分のもの」とする感覚が抜け落ちています。そんなことは出来るわけがない、、いや出来るのです、、、優秀な役者さんは演技中「自分」を完全に忘れています、なぜそんなことが出来るのか?それは元々「自分」はいないからです。「自分」がいるという思い込みはあります。坂本龍馬は国ためにと動いていたら「自分」という思い込みが完全に外れ「無我」「大いなる存在」になってしまっていた、、こんなところでしょうか。

「自分ごと」がない人は気持ちがいい

「自分ごと」に溢れている人は苦しい、、自分こそが苦しみを湧き出す根源ですからこれが強化されればされるほどに苦しみが湧いてきます。ですがこの「自分ごと」が抜け落ちている人は気持ちがいい、、苦しみを携えていないからです。これは人畜無害とは違います、本当に本人の中から苦しみが湧いていないのです。なぜならば苦しみを湧き出させる「自分」が抜け落ちているからです。「自分」という思い込みが壊滅状態にあります。

10人の子供を育てるお母さんは自我が皆無

戦後の日本では一人の女性が五人、六人と子供を育てていましたが、、その当時の母親には自我が欠落していたはずです。朝起きて寝るまで子育てに追われ「自分」に構っている時間など皆無だったはず。「自我」は構ってもらえない、注目されていないと自然消滅してしまいます。なぜならば本当はそんなモノはないからです。この体、思考、感情を「自分のもの」と思い込む認識があるだけです。この認識が吹っ飛べば誰でも自己超越に入ります。この世界が認識する自己が居ないならば全体、全宇宙、大いなる一つ、神ということになります。「自分」をうっかり忘れた神になります。

自分=体、思考、感情の罠から抜けると自分ごとにできなくなる

他人から何か言われても自分ごとにできない

芸人が舞台で他の芸人からいじられる、「お前太り過ぎや!!」これに対して真剣に怒る芸人はいません。なぜならば自分に言ってはいるが「芸人としての自分」にいってきていることを理解しているからです。この体、思考、感情を自分と捉えなくなっていきますと他人から色々言われても自分ごとにできなくなります。どうやら他人はこの体の中の思考、感情を含めた「私」というものに意見があるらしい、、こんなノリになっていきます。色々「私」に不満があるらしいがその私は実は幻想でいない、、こんなすれ違いコントのような状況になります。

自分ごとにしない「私」に周囲はイラつき次々と罵詈雑言を

多少の皮肉を言われれば怯むのが「自分」人間ですがその自分が実は幻想でいないことを理解してしまうと皮肉ぐらいでは止まることができません。そうなれば周囲はさらなる皮肉を言って行動を止めにかかるかもしれません。「あなた」にしっかりと届くようにとより強い口調になるかもしれません。すれ違いコントがギャグでは済まなくなっていくということです。そうなったならばここで初めて思考を使いその皮肉、雑音に対応すればいいのです、冷静に。

全てを「自分ごと」にする周囲とは基本すれ違いだが

全てを「自分ごと」にできない覚醒者と、全てを「自分ごと」にする周囲とはすれ違いが当たり前になっていきます。ですが覚醒者は周囲が全部を「自分ごと」にしていることを百も承知ですからそこは冷静に対応できるようになります。自我を超越した人が自我を超越できていない人の対応を間違えるわけがないのです。自己を超越した人が自己を超越していない人をコントロールできないわけがないのです。

自己超越とは自己を散々味わった人に訪れる

この分離の世界は基本「自分」「自己」を味わいにきています。ですからここではこれが基本、ほぼ全員が「自分」「自己」「自我」からスタートします。ですから散々にこの自分にが苦しまされています、これに苦しんでいない人は100%いません。よって自身に自己超越が訪れたとしても自己に苦しむ人の気持ちが分からないわけがないのです、むしろ誰よりもその苦しみに敏感でもあります。

思考と一体化した自分と思考を観察する自分

多くの方は思考と一体化した自分のみ

多くの方は思考と一体化した自分として生きています。思考=自分です。思考が湧いてきたらその思考とは自分自身のことです。そこに何にも疑いを持ちません、そして人と関わるときも相手の思考をそのままその相手と判断します。要は人間関係とは思考関係なのです。相手はこんな思考をしておる、私はこんな思考をしている、相性がいい、悪いを判断していきます。ですが思考とは損得を図る道具ですから人間関係は=損得関係とも言えます。これが一般的な方の生き方です。

思考を観察する別の自分を作る

思考と完全一体化した自分ではなく、、、思考を観察する自分、、というのを今後は作っていきます。思考が湧いたらそれを自分とするのではなくそれを観察する自分を作ります。思考の声=自分の声ではなく、思考の声を観察する全く思考とは関係ない自分を作り出します。この自分、思考を観察する自分こそ、、、大いなる存在、全存在、気づきの意識です。

湧いてくる思考=自分の声、で生きるのは修羅の道

世の中の99.9999%の人は湧いてくる思考=自分の思考で生きていますが、これが修羅の道、地獄の道、苦悩の人生の入り口です。湧いてくる思考は湧いてくる思考です、、、、これに本来自分という定義はありません。ですが人間はこれを自分の声とすることに決めました。これによって人間は思考=自分として生きています。何にも疑わず無意識にそれを受け入れています。そして湧いてくる思考を自分の声とし、、、大切に大切にその声を聞き入れようとするのです。ですが本当はこの湧いてくる声を自分とするのは後付けです、湧いてくる声はただ湧いてくる声であり、、、それが誰の声という定義はないのです。

湧いてくる声、思考を観察する自分を作る

湧いてくる声を自分の声として生きていくことが苦しみを生み出します。この宇宙全体である存在が、湧いてくる声を自分と定義することで居心地の悪さが生まれます。そうではなく宇宙全体は、この湧いてくる声、思考をただ観察するという本来の存在に戻る必要があります。これによって宇宙全体は宇宙全体に戻ります。何を言っているか分からないかもしれませんが本来ここには宇宙全体の意識しかなく、その意識がこの体、湧いてくる思考、湧いてくる感情を自分と勘違いすることから苦しみが生まれました。だったらもう一度宇宙全体に戻ればいい、、、この体、湧いてくる思考、感情を宇宙全体として観察するという初期設定に戻すことで苦しみが解消されます。これは正しい間違っているを伝えているのではなく事実をのみ伝えています。

なぜ我々はこの「体、思考、感情」のみを自分として生きていかなくてはいけないのか?

人間の相互洗脳

人間は長い歴史の中でこの体、思考、感情を「自分」と決めて生きてきました。生まれてきた子供にこれを教え伝え当たり前のこととしてこれを伝承してきました。ですがこの取り決めを継承し続ける限り人間の苦しみを解消することはできません。人間はどこまで行っても苦しみ、孤独、退屈、不足感を携えて生きていくことになります。この体、思考、感情を自分とする決め事を解放してしまうことを悟りと称しますがこれも一種のひっかけ問題で悟りというとんでもない難しいこと、チャレンジとすることでこれを不可能にする自我の策略が垣間見えます。

これは全く難しいことではない、、

この体、思考、感情を「自分」としそれ以外を「自分以外」とする人間としての共通認識はそれが当たり前過ぎて誰もこれを疑いません。ですがこの共通認識を受け入れている限り、苦しみから解放されることは絶対にありません。それでも人間続けますか?という話です。苦しみから絶対に解放されないことが分かっていて人生を延々と続けていけるとしたら完全なるマゾです。私は絶対に嫌です、そんな分かり切っている人生を歩むのは。この体、思考、感情を「自分」とするのは個人の自由でありそれをしないと決めて生きていってもいいわけです。

誰も至福に至れないこの人間同士の取り決めは辞めていい

この体、思考、感情を「自分」とする取り決めで国家は成立し、法律も成立し、全ては動いていますから突然それは勘違いであるというメッセージが共有されても迷惑千万、意味不明です。ですからこれは個人的にこれを理解すればいいだけの話です。あまりにも当たり前の大前提、この体、思考、感情を「自分」とすることで人間は苦しみから延々と解放されない宿命を抱えています。もしもそこから脱却したいならばこのトリックを見破ることです。

思考、感情、体を観察し続けると、この三つと同一化できなくなる

思考が湧いたら観察し、感情が湧いたら観察する

思考、感情、この体を自分と思い込むシステムを自我と呼びます。思考、感情、体そのものであるという思い込みが自我ですから「これを観察する存在」を別に作り込むことで自我を観察する無我を強制的に作り出します。多くの人は思考が湧いてもそれに気付いてもいません、なぜならばそれが当たり前過ぎるからです。思考が湧いて何が悪い?終始このパターンです。何も悪くありません、ですがこの習慣を継続する限り苦しみのメカニズムを脱却できません。

思考、感情が湧くスペースになる

思考、感情は常に湧き続けます、この思考、感情が湧き出したらそれが湧くスペースになり切ってこの湧き出しを観察します。思考、感情が湧くというならば絶対にそのスペースがあるわけでこれに成り切るのです。これによって思考、感情が湧くことが同時に観察する無我を作りだすというとんでもない状態になります。これまで自我にのみ同一化してきた全存在が自我と同時に無我(全存在)になるという新しいメカニズムが誕生します。これによって無意識の感情フル回転、思考フル回転がなくなります。無我が意識的に観察する感情フル回転、思考フル回転にシフトします。

思考が湧けば平和(無我)が訪れ、感情が湧けば歓喜(無我)が訪れる

今までは思考が湧くと自我が肥え太り苦しくなり、感情が湧くと自我が肥え太り苦しくなっていました。ですがこれから思考が湧くとそれを観察する無我が湧き出し平和が訪れます。感情が湧き出すとそれを観察する無我が湧き出し歓喜が訪れます。思考、感情が苦しみの根源ではなくなりむしろ平和、歓喜、安堵(無我)の到来になります

宇宙全体の動きへの抵抗

自我は宇宙全体の動きに抵抗する

宇宙全体の動きは今ここで起こっています。宇宙全体の動きは現在起こります、この瞬間にです。今ここというのは時間ではなく時間を超越した瞬間、ここというのは空間ではなく空間を超越した瞬間です。思考と同一化した宇宙全体は脳の中の過去や未来を行ったり来たりすることで全体の動き、宇宙全体の動きと調和できなくなります。この人間だけが時間の中に住うことで今というこの瞬間からタイミングがズレていきます。宇宙全体の進化の動きから外れていく、、、これが人間の苦しみです。人間は思考を持ち過去や未来の中で思考をグルグルと回転させるようになりそのことでこの瞬間から乖離していきます。全体のリズムから外れた行動を取るようになり苦しみが湧いてきます。

自我の抵抗も遊びの一つ

だからと言ってそのことが悪いわけではありません。脳内の記憶の中を宇宙の全存在が行ったり来たりするのは面白い遊びです。それをすることで全体との乖離が起きそれは苦しみ負の感情を生み出しますがそれすらも遊びの一つです。ですがその遊びに疲れ果てたならば脳内の思考トリップから離れ無心、無我に入ることを心がけましょう。無心、無我に入れば自然と宇宙全体の動きと調和していきます。無心、無我がそのリズムを教えてくれます。苦しいという感情は自我が全体から抵抗をしている時に自我から発生するのです。宇宙全体の中で人間が宇宙のリズムと外れた動きを取る時苦しみが自然と湧いてきます。

思考と同一化し一生懸命将来を不安視すればするほど宇宙全体のリズムから外れていく

宇宙全体が人間の思考と同一化し、、そこにフォーカスした時、、脳内の記憶を辿りこれからの将来を憂うようになります。過去にはあんな酷いことがあった、だから将来はもっと酷いことが起きるに違いない、、、この状態は今と完全に分離した状態です、今にあって今に意識がないのです。今起こっている宇宙全体の動きから完全に外れた行動を取っていることになります。この宇宙全体とのギャップこそが苦しみを生み出します、、この事実を理解するようになると脳内の思考をフル回転して将来を憂うことがバカらしくなります。なぜならばその行為そのものが苦しみを生み出しているからです。