ショッキングな出来事

ショッキングな出来事が起きたら

例えば友人から裏切られたとして、、、通常多くの方はその裏切りという行為を自分ごととして捉えます。当たり前の話ですね、自分にその災難が起こったと考えるわけです。ですがこれを非二元の観点から説明するとこうなります。そもそも友人という存在、これは実在しません。宇宙生命現象、全体のアートの一部に名前を付けて居るということにしています。そしてそのアート作品の一部に名前を付けられた存在(友人)も自分が居ると勘違いしている存在です。その存在が「私」というこれも実際は実在しない存在に何かをしたということになります。そしてその何かも人間が後付けで付けた名前でしかないということになります。実在しないにも関わらず実在すると信じる役と役の間の中の経験が起こったということです。

その役に成り切るのもいい

相手は完全にその役になり切っています、ではこちらはどうか?これまでであれば役になり切って被害者という次の演技になるでしょう。ですが今回はそれをしないという手もあります。なぜならば被害者というのも実在しないからです。私は被害者だ、、、この私も被害者も実在はしていません、この宇宙に。人間の思考がそれを作り出すことはできます。もしも被害者ということにして相手に報復行為を考えれば瞬間的にはスッキリするかもしれませんがそれによって私の存在は強化されますから苦しみはさらに増大します。私というのは実は思い込みなので。

本当は何も起きていない、、、

本当は何も起きていないのも関わらず、、友人の裏切りに対し真剣に反応するというのは至難の技です。ですが実際には多くの方はこれに真剣に反応します。真剣に反応するという時代を何千年以上やってきました。ですがこれからは実は何も起きていないという非二元の視点からこの出来事を受け止めてみるのもいいかもしれません。何も起きていないにも関わらず何かが起きたと勘違いすることができる世界が人間世界です。我々は今新しい選択肢を手に入れることができるようになりました。

悟りとは二元世界究極の遊び

悟りとは二元世界のカラクリを見抜く究極の遊び

悟りは遊びです、そもそも非二元でしかないこの世界に二元の世界を作り出し人間はこの二元世界の中で生きてきました。人間というこの独自の存在も幻想、そして人間がみるこの分離世界もまた幻想です。幻想が幻想を体験するという完全なファンタジーこれがこの二元世界の特徴です。この究極の遊びの終わりが悟りになります。悟りとはこの二元世界の謎解き、ネタバラシ、解明になります。名探偵コナンもそうですがこの最後の謎解きこそがクライマックス、最も盛り上がるエンタメになります。

この二元世界にはヒントがたくさん

なぜか我々はこの二元世界にどっぷりと浸かりながらも悟りという言葉を昔から知っています。悟りとは何かは何も分かっていませんが「悟り」という言葉自体は知っている、、、意味不明です。人間の本質のどこかが悟りがゴールであることを知っているからです。悟りなど自分の人生とは何も関係がないと思いつつもこの言葉が周知の事実になっていることこそが人間の面白いところです。

自我は悟りへの興味を拒絶する

私もそうでしたがこの「悟り」というジャンルだけは自我がなかなか興味を示してくれませんでした。それもそのはず悟りとは自我の終焉だからです。他のことならなんでも興味を持つ自我が悟りだけは御免蒙るとなるわけです。無我の状態になると悟りの本質を垣間見れるので私はこの悟りへの興味を絶やすことなく続けることができました。

二元世界創造機、人間の意識

人間は名前を暗記するとそれをこの世から分離してみせる

この二元世界の創出は人間の機能あってこそです。人間は脳が極端に他の生物に比べて進化しその結果記憶機能、文字を扱う機能が発達しでありした。言語脳ですね。これによって共通認識で岩や花、滝、湖と、、、自然界の現象に名前をつけていったのです。そしてそれらを可能にしたのは記憶があるからです。共通認識で自然界に名前をつけることで生活は非常に便利になったと同時にその名前を付けた部位が完全に全体から分離することになります。これによってダイナミックなアートであるこの世が徐々に人間にとって生活しやすいただの背景になっていったのです。

小さい子供がサッカー場に行けば

小さい子供がプロのサッカー選手を観たくなってサッカー場に足を運べば、、、そこにはダイナミックなゲームが展開されるアートになります。ところがです、大人がサーカー場に行くとそうはならない、、、ただのサッカー場です。子供が見ている世界と大人が見ている世界はハッキリと違うのです。大人はあらゆる名前を覚えてしまったのでサッカー場に行っても様々な物が目に入ります、しかも分離して。子供は名前を知らないからこそ目の前にダイナミックなサーカーの試合、スタジアムが目の前にあるのです。だから子供は終始ワクワクが止まらないのです。

人間は便利な生活を手に入れる代わりに生気、活気をこの世から奪った

人間は多くの生命現象に名前をつけることで便利な生活を手に入れることができました。ですが同時にこのダイナミックなアートは殺風景なガラクタ、活気を失った物質、人物に成り下がったのです。これは人間の進化においては必然なことであり良い悪いの話ではありません。人間が進化の途上でそのような道を選んだということです。だから釈迦はそのことに気づき、この世は苦であると伝えたのです。ですがそれも進化の途上ゆえです、人間の苦しみが解明されてきたこれからは全く違う進化を迎える可能性があります。

二元の世界を作り出すために進化した人間

人間とは二元錯覚製造機

人間とは二元錯覚製造機です。神が二元世界を楽しむために作られたと言い切っていいでしょう。本来は非二元です、たった一個のエネルギーがただタペストリーのように、オーロラのように輝いているだけです。にも関わらず完全に分離した世界がここにあると勘違いできているのは人間の五感、そして思考、感情、さらにこれらを記憶する脳が進化したからです。これらの進化の複合によって人間はこの非二元の世界の中で二元を楽しむというところまで進化したのです。

進化の結果が二元世界だからこれはもうより進化するしかない

人間という生物が、、他の動物に比べても圧倒的な進化を重ね、、、最終的にこの世は分離した世界であると誤解を起こすまで進化しました。進化の結果の分離世界ですからさらに進化を重ねる以外このトリック錯覚を見破る方法はありません。人間は進化を重ねた結果としてこの「自分は体、思考、感情」であるという思い込みをすることができるようになりました、これには記憶機能が重要になります。そしてこの分離感覚は人間を最強の動物にする代わりに居心地の悪さを常に生み出す結果になったのです、ですが人間は進化しておいてなぜこの居心地の悪さ、不足感が消えないのかについては理解できません。これが人間最大の不幸です。

人間の不幸はこの脳が作り出しているから

人間のこの不幸は脳が作り出しているとも言えます。記憶、思考、感情を司どる脳の機能こそが、、、たった一つのエネルギーしか存在しないこの世界を完璧なまでに分離して見せてくれます。人間は不幸の極限状態になった時に脳が機能不全を起こし、結果記憶障害などで「自分の存在」が実は思い込みであることに気づくことができます。これはあくまで事故ですがそれでもこれによって分離のシステムを解消してしまう人が現れるのです。これらの人々が話す内容は非二元をそのまま話すことになり多くの方は全く理解ができません。ですがその方々が言っている内容は紛れもなく真実でありそれゆえそのことをかつては分かっていた人間は徐々に気になるようになっていくのです。

分離の錯覚の終焉

分離した世界を結合させていく

世の中で名前を覚えていきますと分離が進んでいきます。あらゆる種類の花の名前を覚えれば覚えるほどに花畑に行けばあらゆる花が存在することに気づきます。これは分離が進んでいることになります。例えばサーファーは波の形に対して名前をつけることで海に行くと専門用語のよう今日の波を解説しています。サーファーには波が波ではなくより具体的な名称を伴う波なのです。サーファーには波はもうそのように見えてしまうのです。これが分離が進んでいく傾向です。ですが世の中には分離してしまった宇宙現象を再び結びつける情報があります。例えば波は海が形を変えてそう見えるだけ、、この情報を得ますと波が海に見えてきます。波という分離した存在が無くなってしまいます。抽象度をあげる、高い視点から見る視点を覚えると途端に情報量が少なくなるのです。

起業するために、、、

例えば起業するために起業ハンドブックを読めばあらゆる情報があります。もしもこれらを暗記していったら頭はパンクしてしまうでしょう。ですが起業のプロが現れ、、、要は起業とは、、自身のサービスをより多くの人に知ってもらいサービスを受けてもらうことなのだと解決が入ると、、、意識を向ける方向がそこだけに集約されます。プロのドライバーは運転のコツを掴み少ない情報量だけで卒なく運転しますが、初心者は何が重要な情報か分からないので目線を左右前後に忙しくなるのです。かといってプロのドライバーが周囲を見ていないわけではありません。意識の向けるポイントは少ないだけです。このように完全分離した世界を改めて融合させていくそんな情報の先に悟りはあります。というよりも究極の融合こそが悟りです。つまり分離は何もないということに気づくことです。

分離が悪いわけではない

分離意識全開で生きている人は苦労が絶えなくはなります。見てる世界に活気は一切なく、生気もない、、人生終わっているがデフォルトです。ですがその状況すらも悪くないのです、それも分離ゲームの醍醐味なのです。その分離状態がなければ融合されてその中に生気が取り戻されていく感覚を楽しめないのです。これがしたくて神はこの世を作ったのですから。分離は苦しくなる、融合は楽になる、、、その最終融合が悟りです。全ては実は一つのエネルギーだったという気づきです。

神はその段階での遊びをしている

身内であればあるほどに

身内の人間、家族や、親、子供など、、、親しい人であればあるほどに苦労しているように見えると知っていることを伝えたくなります。もっとこうすればいいのに、もっとああそればいいのに、、、ですがこれは大いなる存在のパテストリーアートを否定しています。大いなる存在、宇宙の現れにおいて間違いは何一つありません、ですから当然そこに改善しなくてならない現実は一切ないのです。赤の他人であればそれもできますがなかなか親しい人間となるとこれができない、、何かアドバイスをしたくなるもの、、、ですがこれはあくまで宇宙の表現、たった一つのエネルギーは織りなすアートです。本当はそこに分離した何かは存在しないのです。

何か言いたくなる、、、身内には

何かをアドバイスすのが悪いわけではありません。ですがあなたの目の前にはたった一つのエネルギーが織りなすパテストリーがあるだけ、、この事実を忘れてしまいます。我々の目の前には後付けされた名前によって分離された幻想が広がっています。これに当然身内の人間も騙されているわけですがかと言ってそれすらも完全な宇宙の表現です。何一つ間違ったアートはないということを認識した方がいいです。もしも身内が苦悩に打ち拉がれているならばそれすらも完璧な宇宙の現れです。

少なくとも、、、自分は人間であるという勘違いを解消させてあげることは不可能

究極的なことを言えばこの体、思考、感情を「自分」と捉えている間は苦しみから解放されることはありません。それがいかにハッピードリームに見えても夢は夢です。この自分がいて他人がいて、バラバラの物質が配置してあるというこの人間の大前提は思考が作り出した幻想です。この幻想の中にいる限りはどこまで行ってもこの居心地の悪さは解消されないのです。ですから下手なアドバイスをしてもほぼ意味がないということになります。

人の人生を否定する度に苦しくなってくる仕組み

人もその人の人生も存在していない

我々の自我は人の人生を否定することで自分の人生を上にあげるという芸当を行います。自我にとって真の幸福は一切ないので偽りの幸福であもって幸福感を味わうしかありません。そのため人との比較の中で自我はそのば限りの幸福を手に入れようとするのです。結果人の人生を否定して、、あんな人生の何が面白いのか?という意見を言うようになるのです。これで確かに一時的な快楽を得ることはできますが実はこれは自身をさらに苦しめることになります。何かを否定するということはこのたった一個のエネルギーが織りなすタペストリー芸術に対して否定と肯定という分裂を作り出すことを意味するのです。こういう生き方は良くてこういう生き方は良くない、、、真っ二つにこの宇宙現象を割ってみせているのです。その瞬間に宇宙現象は真っ二つに破られますから生気を失うのです、活気を失うのです。みている世界が。目の前で宇宙が分離して見せてくれるわけです。幻想として。

ということで否定は苦しい

とはいえこの分離ゲームを楽しんでいる人にとっては自身の生き方の否定は他人の生き方の否定でもありますからこれはデフォルトで行われていきます。無制限に。こういう生き方を目指そうと決めればこういう生き方は目指したくないが生まれます。このようにこの分離大前提の人生とはどこまで行っても苦しみの罠から抜けることであるができません。犯罪者の事件をまな板の上に載せて人間性を切り裂いてみればその瞬間に我々がみている世界は切り裂かれているのです。生気を失っていきます。ご意見番と言われTV 番組で全ニュースを切り裂いているタレントさんは切り裂けば切り裂くほどに人生が苦しくなっていくというおまけがつきます。

本来はたった一つのエネルギーが渦巻いてアートを作っているだけ

本来我々の前にあるのはたった一つのエネルギーが織りなすアートです。このアートに名称をあちこち付けていくことでこのアートを細切れに引き裂きました、そして自分という存在も当然切り抜きます。これで先ず生気を失わせた状態でさらに否定否定の連続を繰り返していくと見える世界、アートはもうアートではない、、、殺風景な景色に成り下がっていきます。たった一つのエネルギーが織りなすアートに否定も肯定もない、、それがノンデュアリティーです。

覚者とは映画のバラシ監督

映画の途中で「バラシます」と言っている人

映画業界では「バラシ」と言って完成した撮影用セットを解体する時に使う言葉があります。撮影が終わったら当然この撮影セットは必要なくなりますからこれを解体する必要があるからです。バラシ、、、撮影中の役者さんからすれば完全に役に入りきりその舞台で演技に興じていれば、、いきなり舞台がバラされてしまうと変な気分になるはずです。この「自分」という存在が舞台がバラされていくことで同時に無くなっていきます。この自分は舞台、セットあってこその話、、、セットが解体されていくのに役に没頭したままというのは先ず不可能でしょう。覚者と呼ばれる人々はこのバラシ監督です。本当は名前なんてないんですよ、全部後付けで名前を決めてみんなで覚えてさもそれが実在しているかのようにみんなで共通認識しているだけなんです、、こんな言葉でバラシを行います。当然その中の映画に出演中の人々は何を言っているんだ?という話です。なぜならば見えている世界に本当は名前もなく何もないならばこの「私」も居なくなることになってしまうからです。

この現象界のバラシは簡単

この現象界のバラシは簡単です、、、名前が後付けで人間は名前を暗記するとそれがさも実在するように見る力があるということを説明するだけです。人間の特殊能力、現象に名前を付けさらにそれを記憶することができる。この特殊能力ゆえに人間はこの現象界にあらゆる物体、人物が居るかのように思えるのです。覚者はこれを解説していくバラシ監督です。最終的には役に飲めりこんでいる人間に「ということであなたも居ない」と言い放ちます。セットが実は作り物であるように、、あなたも役になり切っているだけですと。これで解散となります。私主人公の映画が。

「バラシ」が終わって深刻さが抜けたら映画と分かった上での人生がある

この映画、自分主人公映画は「バラシ」が終わって何にもなくなった後に再び映画と分かった上で映画を組み立てるということができます。全部分かった、確かにこれは映画で本当はセットも他の役者もいなく、自分もいない、、、それは分かったからまたこの映画を楽しみたい、、、ということです。そうなるともうこの劇中で深刻になることも落ち込むことも驚くこともできない、、、ですが今度は役を演じているという大自覚の元何かしらをやりたいという衝動が生まれてきます。映画だと分かっているからこその衝動があります。

皆は分離の世界を生き、私は非二元を生きる

ただし非二元を生きる「今までの私」はいない

街を歩けば多くの人が「自分」が先ずそこに確実に居てその自分がこの分離の世界を確実に生きています。自分という体、思考、感情の寄せ集めである存在を生きながら他の人々の中で生きています。全員がこの「自分」に確信を持ち、名前がついた分離した物、人の存在にも確信を持ちながら生きています。これが幻想の中に住んでいると言われる所以です。ですが本当はこの自分も、、あの人も、この人も全て勘違い存在物であって実は何もにというのが真実です。真実とは何もない、、これだけです。何かが起きて、誰それがいて、、、全部後付けの空想劇です。私も他人にも実は境界線は皆無で境界線があると信じ込む後付けの存在達がいるだけです。実は何も起きていないのです、今目の前に広がる世界には実は何も起きていないのです、信じられない話です。自分にもその他にも名前を付け合って何かが起きているということにしているだけです。

非二元のみ

非二元のみがあるだけです、これがあるだけです。そこに名前が後付けで付けられ何かがあるように何かが起こったかのように表現する後付けの「私」がいるだけです。我々が見ているこの世界は名前が付けられた世界だというだけであり名前がついているから何かが起こっているように感じることができているだけです。このあり得ない解釈、解釈も後付けですが、、、この真実に気づいた人は唖然とします。この真実に気づいた人はこれを他の人に伝えたいと思うかも知れませんが思わない可能性も高いです。なぜならば伝えたいその人は後付けだからです。つまり誰もいないということが分かってしまうからです。

ピカソの絵をパズルのようにバラバラにしてみたらそれが動いているように見えた

もしもピカソの絵が流動的な物体であったとしてその各部分に名前を付けてみたとしましょう。そうすると毎秒、毎分ごとにそれが動く、、、元々何も存在せずただ動く絵があっただけだったのがその中の名称がついた物たちが毎秒ごとに動くように見えるようになります。そしてその動きの中でトラブルや衝突が起こることもあれば吸収や合体が起こることもあるでしょう。これらのドラマは名前が付いたから起きたのです、名前を付けなければドラマなど起きようがないのです。あるのが絵の中の動きだけです。これに気づくことを「悟り」と呼びます。悟りとはなんてことはない、、人間の活動の根源を明かしただけです。

ノンデュアリティーには何も起きない

何かが起きるためには名前が必要

この世界では実は何も起こっていません、、、何かが起きるには名前というのが必要になりますが名前とは人間が後付けで決めたことでありそれがもしも無かったら何も起きようがないのです。そうですこの非二元の世界には何も起きていないのです。何も起きていない世界に何かが起きたということにしたのが人間です、あらゆる生命現象に名前をつけていくことで何かが起きたということにしたのです。

誰もいない

本当はこの世界には誰もいません、生命現象の一部に名前をつけて人間と称し、さらにその人間に個別の名前をつけました。これにより誰それなにがしがこの世に誕生したのです、、、本当は何も誰もいなかったのです。か覚者はこれに気づいてしまった人達です。誰も何もない世界が本来であり全部は後付けで名前をつけてそのような出来事、自分が居るということに無理くりしているのです。そしてあらゆることに名前を付けまくることで宇宙の生命現象を分断化し分裂かし、支離滅裂化し、、、居心地の悪い世界を作り上げたのです。全部は無理くりの話です。

誰も何もないならば何が問題なのか?

世の中に問題がるなんていうのは、、人間が勝手にあらゆる物、ことに名前を付けてそういう問題というものが起こったとしているだけです、本当は常に何も起きていません。何かが起こるには名前が必要ですがその名前は全部後付けですからその出来ごとに意味などあるわけがないのです。意味があるためには名前が必要になるのです、どうしても。ということでこの私のブログにも意味など何もないということになります。これが本当の事実です。