大いなる存在は思考と同一化し過去、未来を泳ぐ

記憶の蓄積で振り返る過去が積み重なっていく

人間の脳が進化を繰り返し脳が思考をするようになり、言葉も覚え記憶力がついていきます。こうなるとこの人間としての人生が着実に記憶となって蓄積されていきます。本来は大いなる存在がこの思考、感情、体と同一化することでこの自分映画は始まるわけですが記憶がたくさん積み重なっていくことで「自分」は過去を振り返るようになっていきます。過去を振り返るということは記憶の中を探るということです。大いなる存在、一つの宇宙生命体が思考に同一化し記憶の中の過去を振り返るようになるとそこは今(大いなる存在そのもの)から離れていくようになります。大いなる存在がまさかの人間の脳の中に意識をフォーカスしている状態です。この状態は大いなる存在にとって非常に居心地が悪くなるのです。人間として今に在るならばまだ居心地の悪さは少なくても人間の思考に成り切りさらに脳の中の記憶、過去にフォーカスするなど大いなる存在の究極の遊びでしょう。遊びは遊びですが苦しい遊びです。

過去が苦しかったということで未来不安ばかりを思考する

人間の思考に同一化した大いなる存在は脳の中の記憶、過去にフォーカスし、、過去を悔やみ、過去を後悔し、過去を悲しむ経験を味わいます。そして次は将来不安です、過去がこれほど酷かったのだから将来も不安が尽きない、、こうなるのです、、将来とは想像の中でありこれも人間の脳の中に存在します。大いなる存在の過去、将来という脳の中のトリップを続けるのです。こんな狭苦しい旅はあるでしょうか。ということで大いなる存在の脳内トリップは窮屈、苦痛を極めるのです。過去を悔み将来を憂うという行為がなぜこれほど苦しいのか?その種明かしを今しました。宇宙全体、全存在が思考と同一化し脳内をトリップするという意味不明な遊びをしているのです。

新しいチャレンジをしない、、、脳内トリップジャンキー

大いなる存在が自我に完全に取り込まれ日々安定、日々現状維持の生活をし始めますと、、、今を生きているようで実は過去や将来のことをばかりを考える生活に入っていきます。新しいチャレンジをしようとすれば情報を取ったり、新しい行動をするのですがそれをしないということは過去を嘆き、未来を憂う生活に入る可能性が高い、、、この状態は大いなる存在が人間の脳内をトリップし続けるという地味な遊びに興じ続ける生活に入っていくのです。これが悪いわけではありません、そうではなくこれは今(本来)から離れる苦しい遊びです。

本当はバラバラではないのにバラバラであると確信を持って生きている人間ドラマ

この世界は今も一つの宇宙現象

我々が観ているこの世界は今も完璧なる一つの宇宙現象です。ですが我々にはそう見えていないはずです。完全にバラバラに解体されているように見えているはずです。目の前にペットの犬がいればその犬は完全に犬以外とは分離しているように見えているはずです。これが人間が観ている分離世界、分離映画、分離ドラマです。完璧なる一つの宇宙現象が人間というフィルターを通する完全に分離した世界に一変するのです。これを覚者は「人間は寝ていて夢を観ている」と表現します。人間は一つの宇宙現象に名前を付けることで分断し細分化し本当に分裂しているように見える世界に今も居ます。

名前を付けちゃったんだから仕方がない

一つの宇宙生命体が、人間という存在を作り出し人間に思考、脳を与えたわけですから人間が名前を付けて分離その世界を上映しそこに住うことに何の問題はありません。これは一つの宇宙生命体が営む遊びです。人間主人公の一つの宇宙生命体分離映画を楽しんでいます。ですが人間からしたら冗談じゃない、、一つの宇宙現象のままがいいに決まっている、、こんな面倒臭いこの世界は終わりにして欲しい、、それが本音ではないでしょうか。ですが実は違います、、多くの人間はそんなことすらも考えません、絶賛分離体験中です。実は見ている世界は一つの宇宙生命体であり分離しているように見えているだけだ、、、こんなメッセージはウザイの一言で終わるでしょう。

覚者は皆同じことを言う「目の前が全て」

覚者はこの分離の夢から覚めた時に、、皆同じことをいいます「今ここが全て」「これしかないんです」「これだけがある」と、、、、、何を言っているんだ??と言う話です。人間にはこの見渡す世界は完全分離、支離滅裂社会でありもはやジャングルと化しています。信じるものは自分だけ、頼れるものは自分だけ、、、同情するなら金をくれ、、のヤサくれ状態です。ですがこの分離壊滅社会を作り出したのはこの思考であり、一つの宇宙生命体には何の罪もないのです。人間の脳が発達しこの体をより確実に生き延びさせるために生命現象に名前を付け文明の進化に大いに貢献しました。そしてその副作用がこの分離壊滅社会です。

分離壊滅社会を抜け出したいならば

分離壊滅社会、分離生気皆無社会をもしも抜け出したいならば、、、簡単です。この分離は真実ではなく人間というフィルターがそう見せていることを見抜くことです。そうです、この分離壊滅社会は幻想、夢なのです。人間が見れば確実に分離分断壊滅意気消沈ですがそれは「自分」が見ているからそうなっているということです。目に目える世界がなぜそうなっているか?ここを完璧に見抜いてください。そうすると目の前に起きた現象にいちいち反応しなくなる「自分」が生まれ始めます。マトリックスをマトリックスと見抜く「自分」が出現し始めるのです。

名前をつけることで全体から分離させていく

先ずはこの自分に名前をつけて全体から分離させた

名前を付けるということを多くの方は何も考えずに行っています。全体、全宇宙の現象は本来分離は一切していなく個別の存在などありません。ですがその宇宙全体に対し人間は名前を付けていくことでこれを整理整頓させていきました。地面から上に出ている部分を植物と表現したり、その植物の緑の部分を葉っぱと表現したり、そこからできる丸い物質を果実と表現したりします。これらの命名は宇宙全体からその部分を分離させていく作業です。これにより我々は観ている宇宙全体を完全に分離した世界として眺めています。「私」が観る世界にはあらゆる分離した存在がたくさん存在するようになっていくのです。これは生きていく上では便利ですが同時に全体の宇宙を分断して切り裂き、生命力を失わせている作業なのです、「自分」が観る世界の。名前をたくさん覚えれば覚えるほどにこの世界は活気を失っていくのです、あくまで表面上。

名前を覚えれば覚えるほどにこの世界は活気を失っていく

全宇宙の中に「私」という個別の存在が誕生したことによってこの「私」はさらに宇宙生命現象に名前を付け始め見える世界を分断し、整理し、それを覚えるという行為をしていきます。これは一つなる生命現象を刃物で切り裂いていく行為であり見える世界は活気を失っていく結果になります、表面上。ですがこの「私」はそんなことはお構いなしにこの「私」を生き延びさせていくために名前の暗記に時間をかけていきます。名前を覚えれば覚えるほどにこの「私」を生存させて生きやすくなるからです。ですがそれと同時に生きる世界から活気がなくなっていくというおまけがつきます。

活気を失った世界を生きるのは苦しい

「私」という分離したこの存在(体、感情、思考)をサバイブさせていくには確かに最低限の名前を覚えていく必要はあります。ですがそれは同時に私を活気のない生気のない世界に放つことにもなります。要は生きていくことは出来るが居心地の悪い世界になっていくのです。「私」という存在をサバイブさせることができるようになったならば次はこの分離の罠を見破っていく方向にベクトルを向けてはどうでしょうか?名前をさらに覚えていくという感覚ではなく、名前を溶かしていく感覚です。全体を俯瞰して見ることで葉っぱと木は一つの生命他であった、人間も他の動物もたった一つのエネルギーで実はできている、、、人間というのは実は個別の存在ではなくそれは思い込みである、、、このように裁断されて粉々になってしまった宇宙生命現象を再結合させていきます。抽象度を上げていき上から眺めていく視点を取り戻していきます。活気、生気を失った世界に生気が戻ってきます。

記憶との同一化

記憶=自分

自分という個別意識、分離意識を維持するために重要な要素になっているのが記憶です。記憶があるからこそ自分、自我という存在を維持することができます。記憶なくして自分なしです。この体が体験した経験、それに伴って反応する思考、感情を全部自分のモノとして記憶していきます。この体、思考、感情そしてその記憶の全てを含めて「自分」というものをこの世に誕生させました。これは自我のメカニズム、記憶との同一化です。

年齢を重ねれば重ねるほどに記憶が積み重なり自分も強化されていく

自我は大いなる存在の記憶との同一化ですから記憶が大きくなればなるほどにこの同一化は強化されていきます。つまり年齢を重ねれば重ねるほどに自我は強化されていくことになります。自我が強化されるということは違和感、居心地の悪さ、退屈感、孤独感もより湧き起こりやすくなっていきます、そしてそれを思考で解消しようと思考も湧き上がります。これによって益々自我は強化されていくことになります。再度説明しますが自我、自分とは体、思考、感情、その記憶です。全部が増大されていくことになると同時にどんどん苦しみも感覚も増大していきます。

記憶がお互いの自我を強化する

人間は皆記憶を持っていますから人に会えば会うほどに相手の記憶にこの「自分」という存在が刻み込まれていきます。相手が思っている「自分」とはこの体、思考、感情、記憶のことであり人間関係とはこの認識をお互いに強化する行為なのです。多くの方から名前を覚えて貰えば貰うほどに自我は強化されていきますから苦しくなるのです。自我とはどこまでいっても錯覚、思い込み、勘違いですからそこから負の感情が湧き出してきます。

体、思考、感情という安定しない存在を自分とする危うさ

自我とは体、思考、感情という不安定な存在を自分とするメカニズム

なぜ人生は苦しいのか?それは自我のメカニズムそのものにヒントが隠されています。自我とはこの体、思考、感情という毎日揺れ動く、不安定な存在を自分とするメカニズムです。朝起きて何一つ自分でコントロールできなものを自分とすることは非常に苦しいモノです、明日の体調、心情、何もかもが未知でありこれほど不安定なモノを自分としていたら将来不安が起こるのは当たり前なのです。メカニズム的に危うさしかありません。ですから人間とは基本不安定、恐怖、不安に牛耳られた生物なのです。思考、感情、体という不安定なものを自分としているわけですから当然です。

不安定だからこそ取り込まれる

若者がサーフィンにどっぷり浸かるのはサーフボードというものに波の上で乗るのが恐ろしく不安定だからです。不安定だからこそ意識をそこに全集中できます。この人間も同じで体、思考、感情という恐ろしく不安定な存在を自分自身であると意識することは全集中しなければできません。だから気づきの意識、大いなる存在はこの「自分」に全集中できるのです。思考が湧くたびに、感情が湧くたびに、体調が悪くなるたびに、、全意識はこの「自分」に取り込まれていくのです、全集中させられます。

自分に全集中すれば全体に無集中

自分に全集中すれば全体には無集中になります。自分はこの自分だけがこの世で自分であるとし、その他を自分以外であると完全なる分離の世界に入り込んでいくのです。サーフィンに没入する若者が他の全部を忘れ去るのと同じです。体、思考、感情が不安定だからこそ「自分」に全集中するのです、全意識が。ですがこの揺れ動く体、思考、感情に全意識が意識を向け続ける状態は居心地が悪いのも事実、常に不安定なものに自身を同一化し続けるのは苦しいモノ、、そこで人間には睡眠という「自分」から離れる時間が必要になるのです。そしてこれだけ不安定な要素全開の自分を生きていくのはしんどいことなので途中からこの「自分」脱却に興味が出てきます。

極端な価値観は映画に没入している証拠

人は全員信用できない

主人公がとんでもない悲惨な事故に巻き込まれたとき、その人はとんでもない経験からのとんでもない価値観を構築します。人は絶対に信用できない、、という信念、観念です。この価値観が強固に構築されますとそれを通した映画が上映され、、その人の周りには確かに信用できない人が多くなっていきます、街を歩けば信用できなそうな人がやたらと目につくようになります。その人の価値観がそのような風貌な人を探し当て見つけるのです。こうしてその人の人生は必然的にそのような信用できないような人々に囲まれるようになり屈折した人生を生きるようになります。

価値観に優劣はないが没入具合は人それぞれ

そもそもその人は被害者にも関わらずなぜさらに歪んだ価値観を刻み込み、歪んだ人生を歩まなくてはならないのか?不公平だ、、、これを気持ちがよく理解できます。ですがこの映画の目的とは最終的にこれが映画であることを見抜くことだとすれば、、、ハッピー映画を延々と観るよりも悲惨な映画を観る方が気づきが早いのは事実です。そういう意味では全ては完璧に平等です。ハッピーほのぼの映画よりもミッションインポッシブルのような敵しか登場しないような映画の方が、、これは映画だと見抜けるかもしれません。

その人がどのような価値観でどのような映画を生きているかを観察する

人間関係すらも目覚めのチャンスです。出会う人がどのような価値観でどのような映画を観ているのかそれを観察します。全てを観察対象にしてしまうのです、そうすれば人間関係に集中しそこから無我に入れます、そこから悟りへの入り口になります。その人がどこまでこの映画を映画と見抜けずに生きているか、もしも見抜けるチャンスがあるとすればどんな言葉がいいか?全てが無心、無我へ入り込むチャンスです。映画に入り込みすぎて自分の映画のことしか話さない人、映画に飽き飽きし早くこの映画を卒業したい人、、あらゆる人がこの私の映画には登場します。

「体験の主体」が「価値観」という「フィルター」を通じて映画を見ている

価値観は全員違うから見ている映画も違う

この世界は大変優れていて思考が変わると見ている世界が変わります。そして主人公も全員違いますから世界も主人公も異なる千差万別な映画が毎日上映されそれを「体験の主体」が楽しんでいるということになります。主人公の体験は記憶に蓄積されていき、さらに体験は思考と感情という反応を得ていきます。これら全てを脳は記憶して価値観を日々変換していきます。この価値観はこの映画のフィルター、映写機です。価値観が変われば映写機が変わり見える世界は確実に変わっていくのです、我々は生きて死ぬまで毎日変わり続ける価値観(映写機)で毎日移り変わる映画を見ているのです、そしてそれを体験しているのが体験の主体、気づきの主体、全存在ということになります。

映画だと気づいて生きているのはもう卒業間近

例えばあなたが強盗に遭おうとしましょう、すると次の日から強盗っぽい人間、風貌の人間があなたの視界に入るようになっていきます、それまでは全く気にもしなかった風貌の人間があなたが生きる世界に頻繁に登場するようになります。例えばあなたが白人の女性と大恋愛をしたとします、するとあなたの生きる世界、視界において白人がその日から頻繁に登場するようになります。街を歩いていても目に入るのです、確実に。同じ世界を生きているしこれからも同じだと思っていたら大間違いです、人間が大きな体験するとその日から確実に見える世界が変わっています。これを覚者は映画、夢、幻想と表現します。このメカニズムを理解するには人間として体験が必要になります、これを学校の授業で生徒に伝えても恐らく意味が分からないでしょう。

あまりにこの映画は優れている、、、

主人公の価値観で見える世界が変わってしまうような映画は巧妙すぎてこれを知ってしまうともうハリウッド映画を観ていられなくなります。この私が観ている映画の方が確実に完成度が高く緻密でエキサイティングです。ですからこれを映画と確実に見抜いた今でもこの映画への関心が全くなくなるということはありません、むしろ今後映画に出てくるだろう脇役の登場、ドラマの進行にワクワクします。ただし私自身は価値観の変換にはもう興味がなくということで見える世界が様変わりすることもないはずです。

眠るに入るから目覚めがある

思考との同一化は眠りに入ること

目覚め体験、覚醒体験、気づきの一瞥、、、、悟りを開く時にこの言葉を使うということからも我々は通常眠っている状態に似ています。起きているのに眠っている???意味がわかりません。要はこういうことです、気づきの意識、目覚めの意識がこの思考と一体化、同一化している状態は役に入り込んでしまった役者のように本来の自分を忘れてしまっている状態なのです。起きているけど、、寝て夢を見ているような状態なのです。夢を見ていることを気づいている気づきの意識はハッキリとありますがハッキリと寝ている状態なのです。ですからこの同一化に気づくということは目覚めると表現するのです。

目から鱗が落ちる

目から鱗が落ちるって全く自分では予期できません。いつのまにか勝手にそれが起きます。これと目覚めは全く一緒、夢を見ている時にこれって夢ではないか?という急激な気づきが起きます。この目覚めを誘発する行為こそが無我に入ることです。全作業、全行為に対して集中してことにあたることでいつでもどこでも無我に入る癖を付けていきます。これは起きている状態を最初に経験してしまう方法です。起きている、目覚めた状態が分からなければそこに意識的に入ることができません。思考の雑音に関しても意識的になることです、思考の雑音を意識して観察することで雑音が無くなります。この状態が無我です。これを毎日意識的に行うことで眠った状態で目覚めた状態を日々疑似体験できるようになります。

昔の覚者が山に篭ってそれを成し遂げた理由

昔は悟りを開くというと山に篭ってというのが通説でした、、、人間は俗世間に居るとどうしても情報に溢れ人間関係に縛られ思考のフル回転を制御できなくなります。それを避けるために意識的に人を避け、無我に入りに行ったのだと思います。今の世の中でそんなことをすれば社会復帰するのもままならなくなってしまいますから先ずは全行為に集中する、思考の雑音に意識的になる、、、これらから無我体験をするのがいいかと思います。毎日無我体験をしていると無我が強烈に目覚めたくなっていき自我を叩き起こします。

意識がこの体に入り込むことで「自分」が生まれた

「自分」とは体+意識

自分というものが幻想なのは、、体に意識が入り込むことでできているからです。体に全存在が入り込んで「自分」という感覚、メカニズムが起動しました。これはあくまでメカニズムですから意識が体から抜ければそれで終わり、死ねばそうなります。「自分」というものは体+意識のメカニズムのことです。体がなくては自分ができないし意識がなくても自分はできません。そういう意味で自分というのは体と全意識の複合体ということになります。「自分」という感覚は後付けてできたものですが「居る」「在る」という感覚が絶対にあるのは「意識」ゆえです。

「体+思考+感情」を「自分」とする思考を「全意識」が意識する

自分とは全意識の中の突然変異です。全体の中に独自の個別の意識体が存在するかのように錯覚できるプログラムです。全意識はこの体の中に入り込むことで「自分」体験をするわけですが、では「自分」以外を全意識は意識できないか?と言われればそんなはずはありません。全意識とは全部を意識するからこそ全意識なのです。ではなぜこの「自分」は意識しているのに自分以外は意識できていないかと言えば自分以外は全意識そのものだからです。「自分」だけが全体、全意識から分離しているシステム上なっているのでこの体で五感することを意識できているのです。全意識はこの「自分」のみを異物化し「自分」の中で起きることを意識できるようにしています。全意識は異物化した「自分」で全意識(自分以外)を生きるという自分体験をしています。

「自分」はいつも居心地が悪い

全意識が異物化した「自分」は思考というフィルターを通じて全意識(自分以外)を生きます。思考というフィルターを通じて見ますからそこには価値観が投影されます。人間は目に見える世界に名前をつけてラベルを貼り名前が付いていないものは背景化します。ありのまま(全意識)を見ているのではなく思考によってラベル化された独自の世界を見ているのです。全意識が「自分」を経験しているわけですからこの経験は大変エキサイティングになります、そして自分の構成物質は全意識ですから「自分」は同時に全意識そのものに常に戻りたいというストレスを抱えています。「自分」を楽しんでいる全意識と全意識に返りたい「自分」のせめぎ合いが常に起きています。これが人間の面白さであり苦しさです。

湧いては消えていく思考が真実を捉えられるわけがない

思考は雲のようなモノ

湧いては消えていく思考はまるで雲のようなモノです。この思考が真実を捉えることなどできません。この思考が全く湧いていないときに真実が現れます。ですからこのブログで散々お伝えしているように思考のメカニズムを理解して思考がない状態を実感していく以外にありません。思考はあくまでも現れては消えていく雲であり真実はこの思考、雲がない空にあります。思考をグルグル回す行為は空に雲がたくさん現れて空を隠している行為であり思考・雲が湧けば湧くほどに空は曇っていきます。真実が隠れていきます。

思考・雲ができることはこれらがない状態が真実・空であることを伝えるだけ

朝から晩まで思考をグルグル回すことは空に雲がガンガンに湧いている状態のこと、、、思考・雲が出現すればするほどに空は曇っていき空が見えなくなっていきます。この状態は居心地が悪く辛くなっていきます。にも関わらずく空が曇れば曇るほどに思考・雲がフル回転することで空は真っ黒に曇っていくわけです。そして真っ黒になって意気消沈し疲れ果てて考えるんを諦めた時にまた空・真実が現れるという皮肉なことが起きます。ですがすっかり思考はそのことを忘れまた一日中考えるという行為を没頭します。思考中毒とはそのようなことです。

どうしたら思考が湧かないで1日を過ごせるかを考える

思考というものが雲ようなモノで出現すればするほどに空を曇らせる、そして曇れば曇るほどに真実の光が遮られ苦しくなることは理解できたと思います。そうなれば答えは簡単、1日を思考抜きでいかに過ごすかだけを考えればいいのです、何かに集中する時人は思考を忘れます、全作業を集中して行うことだけを考えす、集中して行えれば思考は湧いてこなくなるので空が晴れてきます。さらに負の感情が湧いてきた時に思考が自動反応で起きないように観察します。負の感情からの思考自動反応が起こったら直ぐにそれを観察することで思考の湧き出しを止めることができます。すると空は一日中晴れた状態を維持できます。空が晴れている状態を意識的に作れるようになりますとその状態が当たり前になり思考・雲の自動反応に鋭敏になっていきます。