自我は「悟り」以外に興味を持たせ続ける

いつか〇〇になったら私は幸せになる、、、自我の常套文句

自我はいつでもこう言います。いつか〇〇になれたら幸せになれるよ、、いつか〇〇が達成したら楽しくなるよ、いつか〇〇を買うことができたら最高だよ、、こんな調子で延々とこの私に耳元で呟きます。私が今不幸なのは〇〇のせいなんだ、私が今満たされて居ないのは〇〇が達成できてないからだ、、、全部が全部この調子、いやこれ以外の手口を自我はできません。こうして我々は生まれてこの方ずっっとこのやり方で生きています。ラットレースのように。途中で「あれ、もしかして今回の問題が片付いても、、結局同じなのでは?」この疑問が湧くまでは延々とこの手口です。

いつか悟ったら「私」は幸せになる

悟りに興味を持ち始めた私は悟りの勉強をするようになります、悟りこそが自分を幸福にしてくれる、、、悟りだけは私を裏切るはずがない、、、そんな理由で悟り系の本を読むとビックリします。そこには「あなたは実は居ない」こう書かれているのです。これで99%の人は撃沈します、自分が居ない???なんのこっちゃです。悟りは意味不明、、、これは辞めとこう、、、、こうなるのです。自我は悟り以外には何にでも救いを求めますが「悟り」だけは意味不明、、これは頭に入りません。

そうではない「私の否定」こそが最後の真実

ですが本当に眼を開いて、、真実を眺めて見てください。。。成功者と呼ばれている人の自殺、幸福だと思っていた家族の遺産相続、、DV、夫婦喧嘩、、、世の中のトラブル、惨事は常に普通だった人々に起こっています。まともと思えるような人々が次の日は犯罪に巻き込まれ、巻き込んでいる、、、人間が生きていくことで本当に幸福になる方法などどこにも存在しないのです。。そこまで理解が進んだ時にもう一度悟り系にメッセージを読んでみます、、見事に真実をついています。幸せになろうとしていた「私」こそが幸せの邪魔をしていたということです。この「私」という絶対的大前提こそが勘違いだったというこのショッキング過ぎる事実がこの私を消滅し平和、至福、歓喜が押し寄せてきます。

自我が悟りに興味を持たない理由

悟りとは自我の消滅だから

自我は多くのことに興味を持ちます、スポーツ、レジャー、自己啓発、ファッション、エンタメ、旅行、、、なんでもです。ですがたった一つ、これだけには興味を持たないことがあります、それが「悟り」です。悟りだけは積極的に興味が持てない、、なぜならば悟りとは自我の消滅だからです。自我というのはこの思考、体を自分と捉えるメカニズムのことです。多くの方にとってはこの自我はメカニズムではなく真実であることになっています。ですからその自分が居なくなるなどというメッセージは意味不明、言語道断、完全拒否です。自分が実は嘘などというメッセージを積極的に受け取るなどあり得ないことなのです。なぜならば今もこうして自分が居るではないか?この確実完全にここに私は居るというこの感覚はなんなんだ?ということです。

「自分が居る」の自分は心身ではない

「居る」この感覚は間違いなく事実、真実です。ですが自分はという時のこの自分は錯覚です。自分はという時、、恐らく心身のことを言っているでしょうがこれは錯覚です。「今ここに居る」これは間違いない真実でありこの感覚は生まれる前、もしくは何ヶ月後で確実にあったはずです。ですがこの「自分」というのが付け足されたのはその後相当後になってからです。「自分」という存在が出来上がるには言語というものを覚える期間が必要だからです。この後付けされた「自分」これを実は錯覚、幻、後付けだという事実を突きつけるメッセージこそ悟りです。「在る、居る」この感覚を悟りは一切否定しません、ですが「私」「自分」というこの主語、、、この主語を心身で在るという約束、、これを完全否定するのです。

人間が考え出した「成功」も「幸福」も「平和」も絶対に人を至福にしない

私自身は結構真面目な人間で本屋に並んでいる成功哲学系の本はほぼほぼ制覇し、、「これが幸せだ」という賢者の意見を徹底的に模倣してしかも大体は達成してきました。だからこそはっきりと言えますが世の中で言われている「成功」「幸福」「平和」「安定」これらは人を至福には至らせません。あらゆる自称成功者、幸福者に会ってもきましたが「至福」には至っていなかったのです。あくまでも今現在世間的に成功者、幸福者になっているだけというのが印象です。そして自分自身も完全にこのパターンでした。自分が幸福になる、自分が成功する、自分が安定する、自分が愛される、、、これらは恐ろしい矛盾を抱えています。この「自分が実は居ない」という事実です。自分とは思い込みでありだからこそこの自分の同一化した大いなる存在は常に不安定、居心地の悪さ、脆さを感じているのです。この主語「自分」が永遠の至福を得ることは理論上不可能なのです。自分は本当は居ないのですから。

自我生存戦略

思考を使わなくてはならないことを用意する

自我とは思考です、今思考をいつしか自分であると勘違いするのがこの人間です。体も勿論ですがこの思考こそが最も自分を自分たらしむモノではないでしょうか。思考が湧けば自分の存在を強く強く感じることができるはずです。このために自我は思考が湧くことを積極的にします、周囲に問題を作る、自分に問題を作る、、、こんな調子で自分には解決しなくてはならない問題が山積みであるという流れです。思考を常に使い倒し解決を図っていきます。思考を使えば使うほどに自分を意識できるはずなのです。

思考を使わない状態を知ってしまった時の自我の反逆が一番怖い

私自身思考を使わないで物事を達成できるようになったのは中学生の頃です。高校受験の塾に通うことでそこでの勉強が無我に入り込めないとこなせない程のハードルの高さだったので獲得しました。無心、無我に意識的に入り込めるようになりその状況で受験勉強に取り組むという感覚を獲得したのです。そこから全部が全部そのやり方で物事を習得していきました。すると自我はそれをできる自分を特別視するようになりある種傲慢になっていきました、他人と同じ評価などツマラナイ、、終始こんな感じです。自分は特別な存在なのだという強い優越感を持つようになりました、これは人間関係を結ぶ上で非常に大変になっていきます。社会人になってもこれは続き、何か私にとって特別な仕事があるはずだ、なぜならば自分は特別なのだ、、、という思考はフルスロットルで湧いてきます。会社を辞めて起業独立した自分はそこで自分は特別であるという深い満足感を得ました、ですが日常はいつも同じことの繰り返し、やはりこれでは自我は死んでしまいます。そのため自我は次々に目標を自身で打ち出しそれをこなしていくように自身を仕向けるのです。私は途中からこの目標設定には終わりがないことを悟りました。どれほど難しい問題をクリアしても翌週にはもっと難しい問題、目標をクリアしようとする自分が居るのです。目標中毒のようなモノです。

それでも思考を使わないで目標を達成し続けた結果

それでも次々に目標を無我の状態に入って達成していった結果、私は次第にこの目標地獄を終わらせたいと思うようになりました。自我存続のために目標を追い続けるのはごめんだ、そんな感情が湧いてくるようになったのです。そこで私は次の目標は悟りを開くことに決めたのです。自己実現ではない、自己超越だということです。ここを本気で取り組まない限り延々と目標達成をし続ける人生になってしまうという絶望です。自我は自我存続のために次々に自身の目標を設定してきます。ですがこのラットレースは終わりがないため疲れるのです。こうして私は今悟りにまつわる様々な文章を描き続けています。このチャレンジは自身にとっての自己超越チャレンジになります。

自分は優秀、、、の罠

「自分は優秀」は危険

自分は優秀と思っている人は注意が必要です。周囲との人間関係が破綻していく可能性があります。自分は優秀と感じることができるのは何かしらに集中できる人の特徴です、普通ならば直ぐに疲れてしまうにも関わらずそれを集中し続けて処理できるわけですから周囲から優秀と言われます。集中するということはその瞬間思考を削ぎ落とせる人なのです。つまり無我になれる人なのです、この状態がずっと続けば周囲からは感謝されさらに自分も至福ということで何も問題がないのです。ところがこの状態が続くと自我が死んでしまいます。自我は無思考の状態が続くと死にます、要は悟ってしまうということです。これはなんとしても避けたい事態、これを避けるために自分以外に問題を大量生産して自我は存続を図るのです。自分の周りには常に問題が噴出するという不思議な状況に陥るのです。

優秀な人の周りには常に問題が勃発する

無我に入れる人、集中できる人、無心に入れる人、、これらの人は意識的に悟りに入れる人です。要は優秀な人たちです、これらの人の自我は存続の危機に陥ります。このまま何もしなければ自我が死んでしまう、自我が消滅してしまうというリスクです。なんとしもこれを打破したい、なんとかして存続を図る自我は周囲に問題を作り出すことでここで思考をフルスロットルさせようと画策します。例えば友人が問題を起こす、パートナーがトラブルを起こす、部下が問題を起こす、、、などです。こうして自我は思考フルスロットル状況を無理くり作り出すのです。自我は再び無我から主導権を握り返すことになります。

何かに集中できてきたら自我の巻き返しに備える

何かに集中できる人は既に思考の罠を見抜いています。思考を使わないほうが結果も出るし、気分もいいことを知っています。思考のトリックから脱却し始めています、こうなるのと自我は危機感を持ち始めます、このままでは自分は消滅するぞと、、、なんとかして問題を作り出して自我存続を図ろうと、、、その人自身の問題はなんでも無我に入って解決してしまう、、そうなったらば周囲を問題にしよう、周囲は自分の思うようにはいかないからこれは困るはず。この策略は恐ろしいほど上手くいきます、自分を攻略されてしまった自我は、周囲を問題視することで自我存続に成功します。スター選手のチーム仲問題、優秀な監督のフロントの確執、営業成績優秀者の会社への不満、、、全部このパターンです。

思考が湧いてくると自我は安心する

なぜならば思考が自我の栄養分だから

自分とはこの思考のことです、大いなる一つがこの思考を自分と勘違いしてこの自分ゲームはスタートしました。ですから思考が湧いていないと自分が居ないことになります。思考が湧いている時だけ自分が居ます、思考が湧いていないと自分が居ないのです。自分がいつもいつも居る人は常に苦しみを味わっています。なぜならばこの自分の存在は大いなる存在という本来の自分ではないからです。本来の自分で1日のほとんどを過ごさない時人は人生を苦しいと感じます。なんとかしてこの自分を味わわないように家族を作ったり趣味を作ったりと常に何かしらの対象を外に作りそこに向き合うことで自分を忘れないように大いなる一つは工夫します。一人で部屋にじっとして居れば延々と思考のループがめぐり人は苦しみの中で過ごすことになるのです。

自分は存在していたい

自分というこの存在は大いなる存在にとって大変重要な存在にはあります。ですがこの自分という状態で居続けるのはとにかく疲れますからあの手この手を使って疲弊しないように工夫します。子供がゲームばかりをやりたがるのはゲーム中は思考が止まり無我になることで楽だからです。子供はゲームという武器を手に入れたらなかなか手放さないのは楽しいというだけではありません、苦しみが湧いてこないからです。ここに既に答えはあるのです。仕事がなぜ苦しいと言えば思考が止まるほどに集中できないからです、面白くないから。ですから思考が止まるほどに集中できる仕事を見つけてしまえばそれで終わり、そこからは無我でずっと居れます。ですがここでも注意点が、自我は思考がない状態で居続けると消滅してしまいますからなんとかして問題を生み出して無我から主導権を奪いにかかるのです。

自分はいいが周囲に問題がある

自分自身は無我に入れることで平和を手に入れることができた。だが周囲はそうでないから問題ばかりを作ってくる、これが第二の試練です。このまま無我の状態のままで居れば自我は消滅してしまいますからなんとかして主導権を奪い返したい、、こうなります。すると簡単な手口が、、、無我に入れない人間を見つけ出して問題化するということです。周囲に無我に入れない人間を探し出し問題視してそこから思考フルスロットルを作るのです。こうして自我は存続を図るということです。

優秀な社長が部下を問題視する

多くの場合社長になれるような人は仕事に集中することで無我に入り込める人です。集中できなければ結果など出ないですから当然これをできます。このまま行ってしまえば自我は消滅します、このため自我は次の手口を考えるのです、「部下に問題がある」このパターンを無理くり作り出すのです。自我は自身の存続のために周囲に問題がある人を無理くり作り出すことでその解決に思考をつかわせるのです。これで自我は延命措置に成功します。自分自身の中に問題がなくなってしまった人には周囲を問題化させて自我は存続を図っていくのです。

イチローはこのパターンに陥った

シアトル・マリナーズ時代のイチローでは活躍後周囲との人間関係がおかしくなっていきました、フロントに対する不満、チームメイトに対する不満を頻繁に話すようになりました。本来であれば自分自身があれだけ活躍できているのだから問題は特にないはず、、自身の存在自体がチームを引っ張っているに違いないからです。ですがそれでは自我は消え去ってしまいます。問題が何もないからです。ここで自我は周囲を問題視することで存続を図るのです、周囲の人間が何もわかっていないという判断を下しそこに注視することで思考フルスロットルを無理くり作り出します。そして周囲は周囲で自我との格闘があり思うようにいくわけがないのでそこから苦しむことができるのです。

思考は思考を使う方向に導く

思考の策略を見破る

思考は思考を使う方向に全部導こうとします。問題が全部なくなってしまったら思考は用無しになってしまいます。ですから常に問題点をあぶり出しかき集め、そしてその解決のために思考はフル回転をするという自作自演を延々と続けていきます。すべてを問題化しそれを思考フル回転で解消しようとする、ですがそもそも問題などはなく自分で問題視しているだけですからこの自作自演は絶対に終わることがありません。唯一の解決方法はこの策略を見破ること、これだけです。

問題を作るためには自分が必要

この世に自分が居なければ問題など起きません、雨が降ろうと、石油の値段が上がっても、不景気になっても、、自分が居なかったらどうでもいい話です。ですので先ず自分というモノが居るという大きなる勘違いがどうしても必要になります。そこで思考はこの思考こそがあなたなのだ、この思考を所有している偉大な存在が「あなた」だと騙します。今湧いているこの思考こそがあなたが生きている証拠だと騙します。まんまと騙されて誕生したのがこの「自分」なのです。自分はそのため大変不安定です、そもそも居ないのですから。こんなに不安定で実在しない「自分」を維持発展させるためには常に思考フル回転でいる必要があるのです。思考が無くなってしまったら自分が居なくなってしまうからです。

自分を維持していくために問題は起こり続ける

なぜそんなことで悩んでいるのか?なぜ殺人してしまうまでこんなことで悩んだのか???他人のことならそんなことは頻繁に起こります。ですが自分ごとになるとそうはいかない、、、なぜならば全てを問題化しなければ自分を維持できないからです。問題が起こるから思考がフル回転になり自分が維持できるのです。起こる現象のほとんどを問題化したいのは自分自身なのです。この世から問題がなくなって困る張本人はこの自分なのです。自分がそもそも無い、この思考を自分と勘違いして生きているのだから思考が湧くきっかけを常に常に求めているのです。

問題解決に思考を使えば使うほどに苦しくなる

就職活動をしている、、、、

就職活動をしているとしましょう、、、絶対にやってはいけないことは思考を使うことです。自分はどんな職種が向いているのだろうか?自分はどんな適性があるのだろうか?自分は地方に行ったほうがいいのだろうか?あらゆる不安が湧いてきたときにこれを思考で解決しようとします。思考して思考して思考して何か答えが出ればいいのですが人生の大きな問題においては思考で解決できることなど先ずありません。ですのでこのような状況ではひたすらに情報を集めることだけに徹します。自分の大学の卒業生が行っている就職先リストを作る、自分の適性検査をして情報を得る、去年の卒業生の就職先を手に入れる、、このようにただひたすらに情報だけを取っていきます。そこに自身の解釈、比較、検討を加えません。ひたすらにただ情報を取り続けていくということにします。不安な感情が湧き、思考がグルグル湧いてきますが全部無視します。それを継続していくとどこなら受かりそうでどこは不可能か、、またどの職種なら募集が多く、どの業種が少ないか、、など自身に関係する情報だけが精査されていきます。情報の渦から自身に関係する情報だけが残っていきます。

思考をフル回転させてもただ不安、苦しい、しんどい、、、が溢れてくるだけ

不安、苦しい、しんどいの発生源はこの自分です。この自分という存在こそがこの感情の発生源なのです。にもかかわらずこの自分を肥え太らせればどうなるか?不安感、居心地の悪さ、しんどさ、、、負の感情がオンパレードで湧いてきます。この自分を肥え太らせる一番の要因は何か?それが思考フル回転なのです。思考中毒こそがこの自分を大きく太らせデカくします。自分というものが大きくデカくなっていけばいくほどにこの世界の中に自分と自分以外という大きな境目、ギャップ、鉄の壁ができて孤立するのです。この孤立感こそが負の感情の正体です。これを自我(この思考こそが自分というアイデア)は意図的にやります。意図的に自分を維持するために問題を作り上げ思考フル回転状態に持っていくのです。問題とは自我のためにあるのです。

この世の問題は自我のためにある

なぜ人はtvニュースを観るのか?なぜ人はYAHOOニュースを観ては不安に怯えるという虐待行為を自分に行うのか?答えは簡単、、、、不安をもてば自分(思考)が大活躍できるからです。不安がなかったら自分(思考)の出る幕がない、、、だから自分(思考)はtvニュースを見るように促しそして不安感を煽り思考をフル回転させるという自作自演を行っているのです。問題をかき集め自分を維持しているのです。

ただ全てが起こっているという視点

目の前の現象をスクーリーから眺める

自身をこの視界のスクリーンという視点になって見ます。何が起きてもどんな感情が湧いても、どんな思考が湧こうとどのように話しかけれられても、どのようにこの体がリアクションを取っても全部この視界のスクリーンという立場、視点で観察します。本当はこの視界のスクリーンだったのだという感覚を持ってそれを行います。我々はこの視界の中の人間、そしてその中に自分が居るという感覚でこの視界の中を生きています。朝起きて目の前に視界が広がった瞬間からその視点で生きています。ですがそうではなくこの広がて居る視界のスクリーンなのだという感覚を持ちます。

起きたこと、目に入ったことに思考を使わない

我々の人間活動は目に入ったモノ、聞こえる音、口に入る食材の感覚に、、思考が働きそこに解釈が入り、比較検討が始まり、、それを「自分のモノ」にしていきます。完全にこのスクリーンの中に主人公という立場を取り続けるために目の前で起きたことを完全に自身の思考が解釈を与え自分のモノにしています。この行為こそが自分が居るを、、永続させるメカにジズむなのです。この行為を行わないと、、、実は自分が居なくなります。あり得ない話ですがこの観察からの解釈、比較、検討こそが自分を永続させていくプログラムだったのです。だからこれを普通に行わない、、全部スクリーン上でただ起きたのだというスクリーンの視点を完全に保ちます。

スクリーン上で起きることを自分ごとにしてきただけ

実は我々はこの視界、それを支えるスクリーンの中で起きたことをただ自分ごとにしてきただけです。例えば部屋でTVを観ているときサッカーが流れていると、、、ここで行われるプレイに対し私だったらここでこうするのに、自分だったらあそこはパスしたのに、自分だったらあそこで選手を替えないはず、、と観ているだけで「自分だったら」が湧いてきます。目の前で起きているプレイを自分ごとに取り入れていくのです。これが人間が一日中やっていることなのです。当たり前だろう、、なぜそれがいけないのか?例えな天気予報を見れば明日の自分のスケジュールを考える、コロナ情報が入手できればじゃあこう対策しようと考える、、、この何がいけないのか???違うのです、、いけないということではなく、、、このようにして起きることに対し思考がフル回転して自我が肥大化しそれが苦しみを湧かせているという事実をお伝えしているだけです。

起きる出来事に思考を介在させると、、、

我々は一日中起きる出来事に思考を働かせるということを無意識にやっています。何か情報が入った、、、そこで思考スイッチオンです。友人から誘われた、そこで思考スイッチオンです。これを朝から晩まで行っているのです。というよりも思考を使う中毒になっているのです。思考中毒です。思考をフル回転させることに対し全く抵抗がないのです。何か問題をこしらえてその問題解決のために一日中思考をフル回転させる、、、これが日常の日課なのです。この日課、悪循環、中毒を壊す行為がスクリーンの視点に立つです。

I AM がどこに意識を集中するか

私は在る

私は在る、、この感覚に疑いを持つ人はいないはずです。どんなに疲れていても目覚めでも、二日酔いでも、疲労困憊でも、酔っ払っていても私は在るというこの感覚は不変です。体が目の前にあるのだから当然、これは違います。目を閉じて体が一切見えず感じずの状態であってもこの感覚は不変なのです。私は在る、これが全体の意識、神、大いなる存在の意識なのです。この状態は実は無敵でこの状態を奪える者は誰もいません。その証拠に生まれてこの方この「私は在る」が欠落した瞬間はないでしょう。どんなハプニング時も、交通事故に巻き込まれても、八方塞がりの状態でもです。私が在るが無くなった時は皆無なはずです。

私は在るは無敵だが、私は〇〇で在るは最弱

私は在るは無敵です、いかなる状況であろうとこれが失われることはない、、むしろ万物はこの私は在るの中で起きています、諸行無常に。たまたまこの中心にこの体があるだけでそれも込みでひたすらに私は在るが永続するのです。ですがこの私が在るが湧き上がる思考と同一化するとどうなるか?私は〇〇太郎で在るに変わります。私は在るの対象への同一化です。この思考への同一化に成功しますと極端にエキサイティングな体験が起こり続けていきます。思考は過去未来に私は在るを連れていきます、違和感、孤独感、寂しさ、喪失感を感じるようになります。このような体験は「私は在る」の状態では絶対に体験できないことです。思考との同一化、「私は〇〇で在る」からこれはスタートしたのです。

「私は〇〇で在る」を完全に忘れた時「私は在る」に戻っている

私は在るは神の意識です。我々は元々神の意識そのものです。この私は在るの中で万物は現象化し揺れ動いています。ただ揺れ動く万物が在る状態が本来の姿です。ここから思考への同一化が始まり「私は00で在る」という錯覚、誤解、チャレンジが始まったのです。広大無辺な「私は在る」から極小、最弱な私は00で在るへの変化は間違いなく大きなチャレンジでそれゆえこのチャレンジ、遊びはエキサイティングかつ疲れるモノです。気分の浮き沈みも体調の浮き沈むみも半端なく不安定な波の上でサーフィンを続けるような体験です。「私は在る」の「私は00で在る」という体験は神のサーフィン体験のようなモノです。上手く乗りこなした時の感動は神が神のままでは絶対に味わえない経験です。

思考が過去や未来に存在する意味

「今ここに在る」を過去未来に連れていく

意識、全体、今ここに在るが思考に同一化すると、、思考は過去を思い、未来を思い、、、意識を今から逸らせます。本来は「今ここに在る」は今に在るわけですがこれが思考に同一化することで過去、未来へと旅に出るのです。「今ここに在る」が思考を通じて過去を考える今に変わります。今ここに在るは今ここに在る時に本来のバイブレーション、振動で在るわけですが思考の同一化し過去や未来に旅をしますと波動が荒くなっていく、重くなっていくのです。これが居心地の悪さを生み出します。

「今ここに在る」は過去未来のストーリーを体験したかった

「今ここに在る」は思考との同一化を達成し初めて未来や過去に意識を向けるということを達成します。未来過去を行ったり来たりするスケボー、サーフィン体験です。時間という波の上をサーフするのは大変面白くエキサイティングです。意識にとって思考と同一化するのは本来の状態ではないですから非常に不安定、疲れるのもまた確かです。この状態はバイブスが低いのです。思考というのはこの自分の過去の体験に依存しておりそのため今という場所には居れません。そのため「今ここに在る」という意識にとって安心にてストーリーに浸かれるわけです。「今ここに在る」は今に戻ったら「今ここに在る」になってしまいます。思考との同一化から離れてしまいます。思考と同一化に成功している限り過去、未来という時間軸の中に居続けます。この場所はエキサイティングだが疲れる場所、負の感情を延々と湧いてきます。ですがこれを思考が解決を図ることでまたここの居続けることができます。

「今ここに在る」は思考が使えないような状態に陥った時だけ今に戻る

「今ここに在る」は思考と同一化すると「今ここに思考として在る」に変わります。「今ここに思考として在る」は思考に連れられて過去や未来への旅を続けます。熟睡時や、、思考も介在できないようなアクシデントに見舞われた時にだけ思考が壊れ、、「今ここに在る」に戻るのです。この状態は平和、歓喜、安堵と究極の至福状態で在るがゆえ、、、思考は直ぐに「今ここに在る」と同一化を図り思考の世界に引き込みます。これによって再び「今ここに在る」はエキサイティングだが疲れる過去未来旅行に出かけるのです。