自我が悟りに興味を持たない理由

悟りとは自我の消滅だから

自我は多くのことに興味を持ちます、スポーツ、レジャー、自己啓発、ファッション、エンタメ、旅行、、、なんでもです。ですがたった一つ、これだけには興味を持たないことがあります、それが「悟り」です。悟りだけは積極的に興味が持てない、、なぜならば悟りとは自我の消滅だからです。自我というのはこの思考、体を自分と捉えるメカニズムのことです。多くの方にとってはこの自我はメカニズムではなく真実であることになっています。ですからその自分が居なくなるなどというメッセージは意味不明、言語道断、完全拒否です。自分が実は嘘などというメッセージを積極的に受け取るなどあり得ないことなのです。なぜならば今もこうして自分が居るではないか?この確実完全にここに私は居るというこの感覚はなんなんだ?ということです。

「自分が居る」の自分は心身ではない

「居る」この感覚は間違いなく事実、真実です。ですが自分はという時のこの自分は錯覚です。自分はという時、、恐らく心身のことを言っているでしょうがこれは錯覚です。「今ここに居る」これは間違いない真実でありこの感覚は生まれる前、もしくは何ヶ月後で確実にあったはずです。ですがこの「自分」というのが付け足されたのはその後相当後になってからです。「自分」という存在が出来上がるには言語というものを覚える期間が必要だからです。この後付けされた「自分」これを実は錯覚、幻、後付けだという事実を突きつけるメッセージこそ悟りです。「在る、居る」この感覚を悟りは一切否定しません、ですが「私」「自分」というこの主語、、、この主語を心身で在るという約束、、これを完全否定するのです。

人間が考え出した「成功」も「幸福」も「平和」も絶対に人を至福にしない

私自身は結構真面目な人間で本屋に並んでいる成功哲学系の本はほぼほぼ制覇し、、「これが幸せだ」という賢者の意見を徹底的に模倣してしかも大体は達成してきました。だからこそはっきりと言えますが世の中で言われている「成功」「幸福」「平和」「安定」これらは人を至福には至らせません。あらゆる自称成功者、幸福者に会ってもきましたが「至福」には至っていなかったのです。あくまでも今現在世間的に成功者、幸福者になっているだけというのが印象です。そして自分自身も完全にこのパターンでした。自分が幸福になる、自分が成功する、自分が安定する、自分が愛される、、、これらは恐ろしい矛盾を抱えています。この「自分が実は居ない」という事実です。自分とは思い込みでありだからこそこの自分の同一化した大いなる存在は常に不安定、居心地の悪さ、脆さを感じているのです。この主語「自分」が永遠の至福を得ることは理論上不可能なのです。自分は本当は居ないのですから。

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