なぜ辛さを耐えることが難しいのか?

辛さの根元に気付いていないから

人間というのがなぜ辛さに対して弱いのか?なぜ辛いという感情から逃げてしまうのか?なぜ辛いことを積極的に避けるのか?この大きなテーマに迫りたいと思います。辛いことを耐えれないことがなぜ悪いのか?辛いことは辛いわけでそれは人間が人間であることの証拠、これを克服することなど不可能に決まっている、、、これが大方の見方でしょう。ですが実際はそうではありません、辛いという感情は実は外部的要素は一切関係がなく人間という中から湧いてきています。辛いという感情が外部的要素に大きく依存しているならば解決方法はほぼ皆無でしょう。なぜならば人間は外部に依存しなくては生きていけないからです。ですがそうではない、、辛いという感情は人間が人間であるという事実から生まれてきているのです。この事実を理解できないからこそ人間は辛さを味わうと混乱し、フリーズし、緊張し苦しむのです。故に辛さは延々に耐えることができない人間の弱みとなるのです。根本原因を知らず意味不明だからこそ苦しいのです。

辛さに耐えるのではなく、、ただ理解する

辛いという感情が人間を混乱させ、フリーズさせ、絶望的にさせるのは辛いという感情がなぜ湧くのか?そこが意味不明だからです。意味不明だからこそ人間はこの感情を酷く警戒し緊張します。ですがこれは人間の無知からきています。辛いという感情は人間が人間であり続けるメカニズム思考から発生しており故に思考を本当の自分ではないと見破ることでこれは解消できます。このことが分からないからこそ人間はただただ混乱し取り乱し辛いという感情から逃げ続けるのです。そうではなくありのままにこの感情を観察します、ありのままにこの感情の出所を理解します、すると二次的三次的感情の波に襲われなくて済むだけでなく、その感情を観察することから無我に入り悟りに入ります。

辛い→混乱→平常に戻りたい

辛いという感情は紛れもなく不快でありそれは事実です、そしてそれは多くの場合外部的要因によってもたらされたと人は勘違いしています。だからこそ辛いが起こった時に混乱しどうしていいか分からなくなりさらにネガティブな感情、負の感情が大波のように襲ってくる、、、この大波を回避するためには思考をフル回転して逃れようとなるわけです。結果辛さは一時的には回避できても思考と感情の隠密関係が強固になり自我も肥大化しエゴも肥大化し偽りの自分も肥大化していきます。辛い感情、違和感の感情、不足感の感情はより一層その自己から湧いてくるようになっていくのです。これでもしも根本解決になっているとしたら大間違いです。この事実をしっかりと受け止めたならばやることは一つ、辛いという感情に真摯に向き合うこと、この感情で無意識になるのでなくむしろ意識的にこの感情を眺めます、観察します。これを観察することでそこから無我に入る、無心に入る、悟りに入っていきます。

負の感情とは何か?

負の感情、正の感情

負の感情とはなんでしょうか?ではその反対の意味の感情は?正の感情ということになります。負の感情はできれば避けたい、、ではその反対の正の感情はできれば味わいたい、、、これが人間の性です。別にこれは当たり前のことでしょう。この人間としての大前提、デフォルト、これが実は人間を苦しみの渦から逃れさせない罠です。負の感情は確実にあり正の感情も確実にある、そしてできる限り負の感情を味わないように工夫し、正の感情だけを味わっていきたい、、ということです。

正負の感情理論から抜ける

結論からお伝えすれば正負の感情はセットでありどちらか一方のみを得続けるのは不可能です。例えばギャンブルですがもしもギャンブルというモノが勝ち続けれるモノならば誰もギャンブルをやらないでしょう、あれば負ける悔しさというのが大前提にあって勝つ喜びがある。しかも圧倒的に負けが多い方が勝った時に嬉しいのであって勝って当たり前のようなギャンブルならば誰もやらないでしょう。つまり人間は負けが込んでからの勝ちを味わいたくてギャンブルをしています、しかも大金をかけて。どちらにしてもギャンブルはハマってしまうとなかなか抜け出せないのは負けることも勝つことも実は苦しい、、、勝ったから抜けれるというような代物ではなく中毒という偽りの快楽から人間は抜け出せないということです。

偽りの快楽とはこの自分のこと

偽りの快楽とはこの偽りの自分が大きく関わっています。ギャンブル好きをバカにする人は多いです、なぜ勝てないと分かっていてやるのか?と。ですがこの偽りの自分が好む快楽とは全て偽りの快楽です。なぜならば存在自体が偽るだからです。私というこの存在こそが思考がでっち上げた偽りでありだからこそ人間は負の感情が湧き出てきます、存在するだけで。この偽りの自分が得ようとする快楽は全部偽りになります、特に思考が指し示す快楽は偽りです、なぜならばこの思考こそが偽りの自分を形成するエネルギーだからです。まさか偽りの自分を作り出す思考がこの偽りの自分を解消するような提案をするわけがなく故に人間は常にこの思考に振り回されて偽りの快楽を得続けることで偽りの苦しみ、感情から逃げ続けていきます。ギャンブル、お酒、タバコ、たわいの無いお喋り、買い物、、、思考が再示す快楽は全て偽りの快楽であり偽りの負の感情を一時的に打ち消すのみです。そしてまた偽りの自分が消えないためこの正負の感情を得続けていきます。

正負の感情を観察する

楽しいを追い続けるのも、苦しいから逃げ続けることも実はどちらも目糞鼻くそでしてそこに優劣はありません。なぜならばこれらの行動は根本解決にならないからです、対処療法です。人間が生きている上での苦しみは自身が実は思考がでっち上げた偽りの自分であることがこしらえておりそこに気づくまでは延々と苦悩が続きます。苦しい、悲しい、辛い、楽しい、快適、、、これらの感情が偽りの自分から湧き出してきた時、これを観察する存在になることでその場で悟りに入ります。感情を観察することで安堵、歓喜、平和になります。何かがあったから楽しい、何かがあったから辛い、何かがあったから悲しい、何かがあったから孤独、何かがあったから幸福、、これらは全部偽りの自分から湧き出してきた二次的、三次的感情であり、、その根本には自身が偽りであることからくる違和感が支えています。

負の感情の解消方法を知らない人間の末路

これだけ近い存在なのに

負の感情、これこそが人間を苦しませ続けるエネルギーです。このエネルギーさえ湧かなければ人間とはいかに生きやすい動物か、、、負の感情さえ湧かなければお金を使うこともないし、人間関係のトラブルもない、働く必要さえないかもしれません。いや働いたとしても負の感情が湧かないならば何も辛くない、、、要はこの負の感情とは人間を常に常に苦しませ続けてきた張本人、極悪犯です。なぜ人が魔が刺すかと言えば絶対にこの負の感情が要因なのです。芸能人のスキャンダルも、犯罪も、不祥事も絶対にこの負の感情が絡んでいます。ですが人間は恐ろしいことにこの負の感情がなぜ湧くのか?そしてその解消方法を知りません。

先ずは思考がある

負の感情がなぜ湧くか?これには思考というモノが絡んでいます。負の感情が湧くのには人は何かしらの外部的な要因を常に探します。例えば給料が低い、安定しない、世知辛い世の中、評価されない、、、こういった外部的要因があるからこそ負の感情が湧いていると推測しています。ですが実際には違う、、、負の感情は自分という存在、自我、エゴが生み出しているのです。大いなる存在であるモノがこの体こそを自分と勘違いすることで居心地の悪さ、不完全性、が生まれそこから負の感情が湧き出してきます。だからこそこの感情は得体の知れない底無し沼であり今年一年間負の感情が生まれなかったということには絶対にならないのです。人間は毎日この負の感情と戦い続けているのです。この偽りの自分、自我、エゴの正体こそが思考です。

にも関わらず思考がこの感情を解消する始末

人間とはいかに無知な生物なのか、、、思考がこの偽りの自分、自我、エゴを生み出しそれゆえに負の感情が湧いてくる、しかしながらこの負の感情の解決方法をまた思考に委ねるということをしています。負の感情の正体がまさか自分の内面というか自分というモノの構築エネルギーだということです。それに気づかずに負の感情の解消を思考に委ねている、、、これは悲劇です。ということで負の感情の解消方法、根本解消方法とは何か?それが感情の観察です、感情が湧いてきたらその感情から逃げるのではなくその感情を観察する、、、誰が?それは大いなる存在、気づきの存在、自我ではなく真我です。負の感情が湧いてくることでそこから悟りを開きます。

お酒、タバコ、ギャンブル、異性は負の感情を解消する思考の罠

思考が勧める負の感情解消は罠

何かつまらない、何かストレスが溜まっている、何か虚しい、、、、これら負の感情に対する思考が提案することは何か?お酒、タバコ、ギャンブル、異性など安易にこれを解消することを思考は即座に提案しそれに乗ります。そうすると負の感情は即座に解消されてしまうことでまた負の感情が湧いた時には思考は大活躍します。ですがこれは思考の罠です。負の感情が湧いてきた時こそが思考が大活躍できる機会ですがこの思考に委ねた負の感情解消は対処療法の域を出ません、結果即座にすぐ負の感情が湧いてきます。これは負の感情が湧くメカニズムを知らない無知な人間への思考の罠です。

思考こそが負の感情をこしらえる

思考こそが実は負の感情制作の張本人です。思考こそが負の感情をこしらえています。思考という偽りの自分制作ツールこそがこの偽りの自分を維持し続け結果負の感情を湧かし続けているのです。逆に言えば負の感情が湧いている限り偽りの自分が居続けている証拠になります。負の感情とは偽りの自分、自我、エゴが今現在どれほど幅を利かせているかのバロメーターなのです。ですから負の感情から逃げるのではなく負の感情を徹底的に観察することで逆にそこから大いなる一つ、気づきの意識、ワンネスになってしまうことをお勧めします。

思考はこの物理次元の王

思考というものを疑う人間はそうは居ません、なぜならば思考こそがこの文明を発展させ続けてきた張本人であり今でも思考の優劣が人間の優劣を決める大きな要因になっています。あの人は頭がいいというのは勿論敬意を込めて使います。まさか思考が人間を苦しませ続けているなど思うはずがありません。ですが東大卒などの知の権威大学卒業生が皆幸福かと言えばそうではなく、、これこそが思考の限界、むしろ思考の真の姿でもあります。まさか思考がこの自我、エゴを作り出し負の感情をひたすらに湧かせ続けているとは、そして日々人間はこの負の感情と戦いそして思考に救いを求めているか、、ということです。

負の感情の解決を思考に委ね続けた結果

負の感情を思考は一時解決する

思考とは負の感情にとって強めのお酒のような存在です。飲めば一瞬その負の感情を完璧に消し去ることができます。ですがそれはあくまで一瞬でありまた負の感情は勢力を増して襲いかかってきます。なぜ勢力が増すかといえば思考こそがこの偽の自分、自我、エゴを構築している主犯人だからです。思考は決して悪いわけではありません、ですがこの思考は偽りの自分をこの世に作り出します、偽りの自分を作り出しこの分離の世界を創造する張本人です。ですから負の感情の解決を思考に委ねればどうなるか?自我が強化され偽りの自分は強固になり分離の世界はさらに分離を極めていく、結果負の感情はより激しく湧いてくる、このメカニズムに入り込みます。

負の感情を解消するのではなく見つめる

負の感情を解消するには何かしらの気晴らしに逃げるか、もしくは他に何か集中できることを見つけ出し逃げるのが人間の常套手段です。要は逃げるというのが普通です。ですがそれをしない、思考を利用して負の感情回避をしないと決める。逆に負の感情をしっかりと見つめ見つめる存在、気づきの存在になる。大いなる存在にそのままなってしまいます。負の感情こそが人間を人間たらしめてきた大きな要因ですがそれすらも悟りに入る道具にしてしまうのです。

楽しいから逃げる人はいない

何かをしていて嬉しい、楽しいが湧いてきた時にそこから逃げる人はいないでしょう。そこで思考を使い逃げてしまう、、、このケースはないのです。逆に辛い、悲しい、孤独、これらの感情が湧いた時に人間は逃げます、思考フルスロットルで逃げ出します。だからこそこの負の感情こそが悟りに入るポイントになるのです。これこそが悟りへの入り口です。楽しいを意識的に観察する人はいないでしょう、観察する必要がないから。ですが辛い、悲しいを観察するには意識的でなければならない、、、、逃げる癖が付いているからです。だからこそこれは悟りの入り口なのです、意識的でいる時それは大いなる一つの状態です。それを意識的と言います。無意識であるときとは思考に乗っ取られた状態です。

負の感情から悟る

負の感情は悟りへの入り口

負の感情を嫌がる人間は多くいます、というよりも負の感情を歓迎する人間などこの世にいるのでしょうか?いないはずです。それが人間を人間からの解脱を阻止します。そうではなくこの負の感情を観察することでそこから悟りに入ります、負の感情を徹底的に観察し、見つめることでそこから大いなる一つになります。自分というものから湧いてくる感情を観察できるのは自分(体)ではなく大いなる一つです。大いなる一つは常に人間の感情を観察できるのです。

負の感情が湧いてきたら、嫌悪しない、、、

多くの方は負の感情を嫌悪します、人生でいかにこの負の感情を味わわずに済むかを真剣に考え逃げ続けていきます。負の感情を味わわない生活を確保するために人は思考をフル回転しそれを一時的に達成しますが実はこれは自我の罠、エゴの罠です。それは実は自我、エゴの存続方法なのです。そこで思考を使ってくれれば人は思考を信用するようになります、思考を信頼するようになります。この思考こそが自我、エゴの養分です。これはトリック、罠です。負の感情から逃げるごとに自我は肥え太っていくのです。

負の感情すらも悟りへの入り口にする

負の感情が湧いてきたらそれを利用して悟りに入ります。その感情をしっかりと見つめる存在になることでその場で悟りに入ります。負の感情を観察し続け大いなる一つにそのままなってしまいます。負の感情を見つめる存在、観察する存在、止観する存在として悟りに入ります。これは人間ではありません、自我ではありません、エゴでもありません、大いなる一つです。

悟りの学びすらも自我は利用する

感情から逃げるだけでは自我に打ち勝てない

感情から逃げるだけでは自我に打ち勝つことはできません。パワフルな人は負の感情が自身から発生した時に臨機応変に無我に入り込むことでその場で大いなる一つになることができます。仕事、掃除、勉強、読書、TV、エンタメ各種、何にからでも無心、無我に入り込みこの負の感情を解消してしまいます。ですがこのやり方だけでは自我、自分の存在から一向に逃れることができません。なぜならばその行為が終われば必ずまた自分に戻ってしまうからです。自分に戻ればそのまま負の感情が湧き出してきます。

感情を観察する存在になる

逃げる行為から無心、無我に入ることができるならば、、、感情を観察することから無心に入ることもできるはずです。感情を観察することから無我に入ることもできるはずです。逃避行動から無我に入れる人間がなぜ感情の観察から無心無我に入れないか?という話です。辛い、苦しい、退屈、孤独という感情が湧いてきたらその感情をしっかりと観察しそのまま無我に入っていきます。そこで思考は出しゃばってきますがその思考に主導権を委ねてはいけません、思考は俺に任せろと言わんばかりに主張してきますがそれを無視して観察という行為に入り込みます。今自分から退屈が湧いている、孤独が湧いている、辛いが湧いている、、、、それを観察する大いなる存在になるのです。そこから自我のカラクリを見破り真我に入ります。

全ての感情から悟りに入る

人間から生まれてくる感情はそれがどれほど快適な感情であろうとそれは既に苦しみの始まりです。楽しいは退屈の始まり、嬉しいは悲しいの始まり、刺激的は退屈の始まりです。人間という存在から湧いてくる感情はコインのように両面の感情がセットで湧いてくるのです。楽しいを追求すれば退屈がセットで付いてくるわけです。この感情から逃げるのではなくその感情を徹底的に観察します。その感情から悟りに入ってしまうのです。その感情から大いなる一つになってしまうのです。その感情からワンネスになってしまうのです。

思考と感情の繋がりから悟りに入る

感情から逃げない

パワフルな人は負の感情が湧いた来た時点で思考ではなく行動、アクションを起こしてこの負の感情からの逃避を図ることができます。私などはその一人で負の感情が湧いてきたら筋トレ、仕事、ブログ制作、断捨離、読書と何かに集中してこれを取り除いてきました。この行動は無心、無我、大いなる存在と一つになることを可能にしますから積極的にこれを行ってきました。ですがやはり負の感情から逃げてきたという事実は間違いなくそのため私は悟りというモノに対する関心興味が尽きることはなかったのです。覚者、悟り人はどうも自分とは違う、この確信だけが私をそこに貼り付けにしたわけです。エックハルトトールの書籍を読むと何かに集中すること、そして思考、感情を観察すること、この二つを大いなる一つになるやり方と提案しています。

感情が湧いたらそれをただ観る

パワフルであればあるほどに負の感情が湧いたその瞬間に何かしらのアクションを起こしそれを回避できます。ですがそのやり方だけでは負の感情の根源を見つけることはできません。特に集団で一緒に居る時など何かしらのアクションを起こせないですから非常に苦しい時間になってしまうのです。その点思考、感情を大いなる一つになって観察するというのは素晴らしいアイデアです。思考、感情と一緒になってしまうのではなく思考、感情を観察する気づきの意識、大いなる一つにその場でなる。これが私にとっても新しい大きなチャレンジになりました。

感情が湧いたらそれを消し去るのではない

感情が湧いた時にそこから逃げる、この時逃げる自分という存在は継続されます。負の感情が湧いた瞬間にその場から立ち去れば確かに負の感情を味わうことを避けることができますが逃げる自分の存在は付いて廻ります。そうではなくその感情をしっかりと観察する、その思考をしっかりと観察する、、、その観察する存在とはまさに大いなる存在、気づきの意識です。今自身から負の感情が湧いてきている、その感情を徹底的に観察してやろう、、、この新しいメカニズムが自身から自我を抜け落としその場で大なる一つになれます。このメカニズムが新しい自分、大いなる一つを出現させます。その場で歓喜、平和、安堵が訪れます。

思考は果たして人間を至福にできるのか?

思考には人間を至福にすることはできない

人間という存在は基本不快、快適、退屈、刺激的、悲しい、嬉しい、悔しい、爽快、、、、という二極の世界に生きています。これはコインと裏表のようにセットです。快適でなくなりと不快になり、刺激的でなくなると退屈に成ります。要はこの二つは行ったりきたりの関係なのです。どちらか一方だけを感じ続けることは絶対に不可能なのです。お酒を飲んでハイになればその後に確実にローが来るようにどちらかだけを味わい続けるのは不可能です。この状態を釈迦、ブッダは苦と表現しました。

人間から湧いてくる感情を思考で解消する限り、、、

人間から湧いてくる感情を思考で解決する限り、このコインの表裏から脱却することは絶対にできません。負の感情を一時的に解消しても必ずまたその負の感情は湧いてきます。このいたちごっこは延々に続くだけではなくさらにこの負の感情は威力を増していくというおまけまで付いてきます。なぜならば思考に解決を頼めば思考を所有している自我、自分はさらに大きくなっていくからです。反社会勢力に一度でも問題の解決を委ねればもうその問題はより大きくなって返ってくる仕組みによく似ています。これ思考による解決の大きな問題点です。

それでも思考は常に俺に解決を任せろと言ってくる

思考こそが自我を形成する張本人です、この張本人こそが負の感情を生み出す根源です。この根源が負の感情の解消に乗り出せば当たり前ですが負の感情はより激しく生み出されるようになっていきます。ですがそれでも人間の中に生まれた負の感情を思考は黙っていません、とにかく俺に任せろとシャシャリ出てきます。こうして人間は負の感情を生み出し続けるという生き地獄から抜け出せないのです。生き地獄とは借金を抱え、大きな問題を抱えた人だけのことではありません。これはほぼ全員の人間が抱える問題なのです。

思考乗っ取り時代は終わるのか?

私が思うにこのメカニズムを理解できている人間はまだ少しです。ですが人間はこれだけのテクノロジーを生み出してもまだ苦しみから脱却できていないことに対し違和感を覚え始めています。幸福になるための心理学にはもう興味が湧かなくなってきています。思考を変えれば成功する、ポジティブシンキング、、、これらに対し違和感を感じ始めています。思考こそがこの苦しみを生み出している、、、これに気づく時代がすぐそこに来ています。

思考と感情の兄弟関係について

ネガティブな感情を解決しようとする思考の罠

ネガティブな感情が湧いてきた時多くの方はその感情を思考を使って解決を図ります。そうしたらこの感情をなくすことができるか?どうしたらこの感情を感じなくて済むかを思考を使って考えるのです。例えば退屈という感情が湧いてきたならばゲームをしよう、友人を誘おう、飲みに行こう、、、と言った具合にこの感情をいかに解消するかを思考を使って行います。結果確かに退屈という感情を感じないで済むようになるかもしれません、ですが結果的には思考を使ってこの問題を解決することでますます負の感情が湧き出すようになっていくのです。これが思考と感情の罠です。

思考を使えば使うほどに負の感情が湧き上がる理由

思考というのは過去の記憶をベースに作られます。自分という架空の存在が経験したことをベースにしてそこから思考が湧いてきて問題の解決を図るのです、つまり思考を使えば使うほどに自分という架空の存在が強化されていくのです。自分が思考を使って問題を解決したというメカニズムが強固になっていくのです。そうなるとどうなるか?大いなる勘違いが加速されることで負の感情が湧いてきます。思考を使って解決を図れば図るほどに負の感情が湧いてくるという恐ろしいメカニズムが構築されるのです。これが人間という生き物がどこまで行っても苦しい理由です。

思考を頼りにしない、思考は意識的に使う

このメカニズムが理解できてきますと、下手に思考を使って問題、負の感情を解消しようという気持ちが湧いてこなくなります。思考フル回転で次から次へと負の感情を解消しても益々自我が強固になり負の感情が湧いてくるのです。思考を使えば使うほどにそれを駆使する自分が確固たる存在になっていくのです。この自分という存在こそが負の感情を生み出す根源です。逆に負の感情が湧いてきたならば何かに集中して意識的に無我に入るか、その感情をじっと観察し痛みの根源を理解します。感情が湧いてきたということはまさに自分というこの偽りの存在が居るのだと認識します。これにより負のスパイラルを強制的に遮断します。

負の感情が湧けば思考フルスロットルが当たり前

思考とは過去の記憶の集積から成ります。問題が起きた時に過去に入り込みそこから最適解を導き出し最も効果的な負の感情解消方法を見つけ出します。これが思考の役割です、思考とは自分の所有物みたいなものです、自分が思考を使いこなし問題を解決しても自分は全く解消されない、むしろ強固になっていく。これが究極の負のメカニズムです。多くの方はこの事実を本能的に知ってか負の感情の解決を諦めていきます、ジタバタしてもしょうがない、、といった具合です。ですがこれは本質的な問題解決にはなりません。そうではなく負の感情をしっかりと見つめる大いなる一つになるか、無我に入って大いなる一つになっていきます。