これをマリオのゲームと捉えると完璧過ぎる

熱海駅に降りて沖縄に着くことがない、、、

これをマリオのゲームだと思って見てください。人間ゲームです、視界に広がる世界をゲームだと捉えるととんでもない事実が理解できます。通常人間が制作したゲームは欠陥だらけ、BGMがいきなり止まってしまったり、同じ人に何度も話しかけると全く同じ回答しかもらえなかったり、クッパはマリオが後方移っても振り返ることができない、、、ところがこの人間ゲームは恐ろしいほどにこの欠陥がないのです。熱海駅に降りたら沖縄だった、、さんまを食べたらカラスミの味がした、、こんな事故がゲーム上で起きないのです。もしもこれがゲームだとしたら完璧過ぎるのです。

ゲームにのめり込むのではなくこの完璧性にのめり込む

ゲーム上のクリボー、パタパタ、ノコノコ、クッパにのめり込んで戦うのではなく、、、この人間ゲームの完璧さにのめり込んでみてください。この緻密さに驚いてください、、、ヤクザに喧嘩を売ればしっかりと買ってくれる、、お店でお金を払わなければしっかりと通報してくれる、、、友人のLINEを無視し続ければしっかりと怒ってくれる、、歩きタバコをすればしっかりと嫌な顔をしてくれる、、、この完璧さです。このような完璧なゲームは人間が制作できるレベルを完全に超えています。

この人間ゲームが完璧過ぎて全員がゲームであることを忘れている

子供の頃はみんな知っていました、これがゲーム、夢であることを。ところがこのゲームが完璧過ぎて徐々に徐々にそれを忘れていく、、、記憶に過去の経験が積み重なっていくごとにこの自分がリアルすぎる存在になっていく。ゲームであるはずがない、、それほどまでに完璧なのです。人間が持つこの五感、思考、感情、、、そしてこの完璧な舞台、、、神は全員がこれをゲームであると忘れるほどの完成度でこのゲームを作り出しました。

自分が突然総理大臣に選ばれることがない、、、完璧

もしもこのゲームがポンコツゲームだったらこのブログを書いている私が突然総理大臣に選ばれるという奇跡が起こってもおかしくない、、ですがそれは絶対にない、あり得ない、、、これがこのゲームの完璧さの証明です。この私に突然長澤まさみから連絡が来て求婚されることが絶対にない、、これが完璧なのです。多くの方はこの現象をシビアと白けていきますがここがこのゲームの緻密さ、完璧さ、詰めの深さです。この視点でこのゲームを観察しますとこのゲームに対する全く違った感動が生まれます。

神の顕現が違う顕現になってどうする?

もう既にあなたは神の顕現

もしも今の自分自身が大嫌い、こんな自分など終わりにしたいと考えていても、それは神の顕現です。神の顕現にも関わらずこんな自分が嫌いと思っています。そしてその思考も神の顕現です。自分が新しい目標を持って違う自分になりたいと心から思うとして、、今の自分もそして違う自分も全て神のエネルギーです。形や姿は違えど構成物質は完璧に同じ神の顕現です。だからと言って目標を持つなと言いたいわけではありません、今も神の顕現で、なりたい自分も神の顕現であるという事実をお伝えしているだけです。

違う自分になるのも神の遊び

目標を持つことが悪いことではありません、それはそれで重要なことです。ですが目標を掲げる今の自分もなりたい将来の自分も構成物質は神であるというこの事実を理解する必要があります。今の自分も神、なりたい自分も神ならばそこに優劣は一切ないのです。ただ形を変えた神が存在するだけです。自分の不足感を解消してもそれが解決には至らないのは今既に神であるにも関わらず不足感を埋めてもやはり神なのです。神が不足感というやはり感情を感じている、その感情すらも神のエネルギーです。

神は不足感体験ゲームをしている

神が自我を作り出したのは不足感を体験するためです。ですから自我を維持した状態で違う自分を目指しても不足感を無くなることは絶対にありません。この自分も神の顕現ですから完璧です、ただしこの自分という自我のエネルギーは不足感を湧き出す仕組みを作り出すエネルギー(神)なのです。不足感すらも神のエネルギーです。神は自ら不足感を味わいたくて自我を作り出したのです。ですから人間(神)は常に違う人間(神)になろうとしますがそれで不足感(神)がなくなることはないからです。

この仕組みが理解できてくると、、、

この自我のメカニズムが理解できてきますと自分(神)は違う自分(神)になろうとするんではなく神そのものに帰還することに興味が湧いてきます。ゲームの途中でどうやらこれはクリアー(至福)はないなと分かってきますと急にやる気がなくなるのと同じです。自分ゲームには至福はないのです、なぜならば自分そのものが神であるにも関わらず不足感が湧いているというこの仕組みこそを解決しなけければ至福には至れないのは当然です。

記憶こそ大いなる勘違いの集積

自分と記憶はセット

人間の記憶とはなんでしょうか?人間の記憶とはこの体が経験したこれまでの集積ということになります。この体が経験した集積とは自分ストーリーそのものです。人間は歳を重ねるに従い自分という思考が強固になっていくのはこの記憶をベースにしているからです。あらゆる経験を重ねていけばいくほどに自分は何層にも重ねられていき大きくなっていくのです。またこの自分という存在に絶対的確信を持つようになります。それは記憶された経験があるからです。

自我形成に伴って分離感が増していく

自我形成、自分形成はこの脳の記憶がベースになっているのですが、それ自体には何の問題もありません、もしも問題があるとするならばそれに伴い分離した独立した自我、自分感が同時に増していくことです。分離感が強まれば強まるほどに自分を守らなくてはという思考、感情が湧き出しそれはこの人間の体を守るために大変有効です。ですがこれは同時に分離感、孤独感、不足感を湧き出させる原因にもなるのです。人間がどれほどの独立性を維持しようとも全部は神のエネルギーで形成されていますから神でなくなることは不可能です。ということは全体、神が、、、独立性だけが大きなった存在になってしまったということになります、全体の中で。最大の矛盾、パラドックスが生まれるのです。

人間とは「苦」である

こういうメカニズムから独立した、確固とした大人ほど苦しみが多いという悲惨な事実が生まれます。大人、自分として成熟すればするほどに分離感、孤独感、不足感が湧き上がっていくのです。このメカニズムを生み出したのは神、全体であり全ては神の遊びです。ですからこの事実は決して想定外ではありません、むしろこれを経験するために人間を生み出したのです。ですがこの事実を理解できる段階に至った人はもうこの苦しみから解放されてもいいかもしれません。人間ゲームを心底遊び倒し、辛酸を舐め尽くし、七転八倒し尽くしたならば次の段階にシフトする時期かもしれません。

問題を起こすのは常に自分だがそれを起こしているのは神

起きる出来事を自分ごととして問題化していく自分

朝起きた瞬間に人間の体の記憶装置が起動することで、この体は私で、〇〇という名前で、、職業は〇〇である、、、と自分人間が誕生します。これは全体、神が変化した状態、全体、神の中から浮かぶあがった状態です。この自分人間は記憶力を持つのでこの体に起きる経験を全て自分の経験として記憶していきます。そしてその経験に基づき思考が固まっていきそれも自分の価値観として所有していくのです。こうして自分劇場が全体、神の中で形成されていくのです。悟り系の書籍ではこの自我形成を悪の根源と称するものも多いですがこの自我形成の成分、エネルギーは神、全体という一つのエネルギーです。つまりこの自我形成は神、全体が起こしているのです。

自我形成はどこまで行っても神の遊び

この視界に広がる世界は色の世界です。神が色として表現している世界です、この色の世界において人間は独自の進化を重ね脳を所有するようになりました。これにより思考が生まれ、その思考が記憶されていくことで人間は自分というアイデアを創造するまでに至ったのです、神が作った色の世界に自分が誕生したのです。これは神の表現の進化でもあります。この自分を作り出しているのは間違いなく神です、神は神自身が作り出した世界に自分というアイデアを所有する生命体を作りだしたのです。その生命体は活動のほとんどを記憶して「我が人生」を誕生させました。そしてそこに起こる様々な体験を自分に起こったとしてさらに記憶するという流れです。

この現象界に神でないものは一つもない

この現象界で起こる出来事で神が起こしていないものは一つもありません、ヒトラーもスターリンも、プーチンも、世界中で非難の的になっている人物の活動、思考の全ては神のエネルギーです。本人は自分が考え出したものだと言い張るでしょうが、、、神でないエネルギーは皆無です。神でないエネルギー、思考、活動があるならば一体それは何か?ということです。神とは全体のことであり全体の中で繰り広げらえる出来事、人間の活動、思考、感情において全体のエネルギーでないものなどあろうはずがないのです。全出来事は神が創造したものです。

道を行き交う人々の全ての行動は神の顕現

ということは私が街を歩く時に行き交う人々、人々の会話、行動、全てが神の顕現ということになります。飲み屋で喧嘩をしてるお客さん同士は神の顕現の一つです。全部が神の遊び、表現です。その出来事を見て自分はあらゆる判断を下すでしょう、、ですがその判断すらも神の表現ということになります。神の表現ということはこの判断は自分の判断ではないのか?ということになりますが判断を下しているのが神としての自分ということです。街を歩いていて不平不満、愚痴が自身の中から湧き上がったとしてもそれは神の顕現なのです。神が不平不満や愚痴などこぼすわけがないとあなたは思うでしょう。ですが神は愚痴や不平不満を吐きたくて人間を進化させたのです。

深い眠りから目覚めた時は体の疲労回復以外の何かが起こっていることを知っている

深い眠りとは人間から神に戻っている

深い眠りを侮ってはいけません。深い眠りとは人間に扮している神が神に戻っている時なのです。だからこそ熟睡時から目覚めた時はとんでもない充実感、安堵を感じるはずです。あの安堵感をお金で払って手に入れることはできません。人間としての活動であの境地の安堵を経験できないのです。あの安堵は人間を同一視する状態から外れた神の状態です。熟睡の安堵とは神そのものの安堵です。

人間は毎日神を思い出している

人間の熟睡とは神への帰還です。人間扮する神が神に帰還している状態、それが熟睡です。主体客体の世界、人間が何かを得たり、達成したり、日々のストレス解消では絶対に得ることができない境地です。それが熟睡、神、ワンネスです。そしてその神が朝目覚めて起床すると人間に戻ります、人間の記憶装置が稼働して我は人間あり、我は〇〇何べいである、、我は会社員である、我は長男である、、、と記憶が蘇り自分劇場がまたスタートするのです。そして神は今日も人間に成り切って生活をスタートします。マリオをスタートする人間と全く同じメカニズムです。

熟睡とは記憶装置をオフにすること

熟睡時の特徴とは記憶にないことです。何時間熟睡したという感覚は寝起きにないはずです。つまり記憶が働いていないのです。人間は記憶がなければ自身の存在を維持できないもの、その記憶をオフにすることで神に戻ります。人間は起きている間でもこの状態に近づくことができます。何かに没頭する時に実は記憶機能がオフになっています。自分の存在を忘れます、無我、無心の状態とは記憶がオフになっている状態でもあります。この時人は神に戻ります、自分の存在を忘れています。人間扮する神が扮していない状態です。

あらゆる気晴らしに絶望したら究極を追い求める

人生は短いようで長い

人生は短いようで長いものです。何かを達成したらあとは静かに暮らしていきたい、、こう思う人も少なくはないはず。もしくは老後はゆっくり夫婦で静かに暮らしたい、、こんな細やかな夢を持つのも自由です。アウトドア、ガーデニング、自家栽培、観光、旅行、韓流映画、ネットフリックス、孫の面倒、、世の中にはあらゆる暇潰しのアイテムが何千と揃っています。ですがそれに絶望的に飽きる時期がきます、何をやっても絶望的につまらなくなる時期がくるのです。

自己実現を目指してみる

自分が好きなことで世の中の役に立てたら、、、これはなかなか難しいチャレンジです。ですが3年から10年もあればこれも達成できてしまうでしょう。毎日コツコツ自身の技術を高めて行けばどこかしらで世の中に必要とされる技術まで昇華されます。そうしたら次は何をすればいいのか?また3年から10年かけて新しいことをスタートするのか?もしもその熱意が失せてしまったら、、、、そんな時は究極を追い求めてはいかがでしょうか?この人生がなぜ飽き続ける人生なのかを解明してみてはいかがでしょうか?

ビートたけしは芸能界のトップを取り自殺を図る

ビートたけしは約30年前にバイク事故を起こしています、それから何年後かのラジオ出演時に自身であれはある意味自殺だったと明かしていました。芸能界でトップをとった後に映画に興味を持つはいいが、、恐らくそこでトップをとっても見える世界は同じだろうとある種絶望していました。彼はその後独自の死生観を映画にし海外で高い評価を受けました。ビートたけしは自己実現をかなり高いレベルで達成した後独自の自己超越にチャレンジしたのだと私は考えています。

映画に夢中になれなくなる時期

映画はフィクションだから夢中になれなくていい

私は学生時代に毎週1本の映画を見続けました。恐らく社会人になる前に何百本の映画を見続けたと思います。映画から学べたことは半端なく多く海外の人々の人生観、人生を映画を通じて学びました。それはもう食い入るように観たのはこの我が人生をこれからどうしたらいいか?という漠然とした不安からでした。だからこそ自分とは違う境遇の人が味わう経験をモノにしたかったのです。ところがです、、、何百本の映画を観倒しても全答えが見つからない、、、

社会人になって本気で人生に悩み始めた、、、

社会人になって本気になって人生について悩み始めました。今やっている仕事をどうしても好きになれなかったからです。かと言って他に夢中になれそうな仕事もない、、学生時代の何百本の映画はこの悩みには一切答えてくれませんでした。とにかく本気になってこの悩みに悩みきった時に精神世界の書籍が湯水のように体に染み込んできました。そこには夢のような内容が書かれていて私の悩みを一時的に拭ってくれたのです。引き寄せの法則、正負の法則、運気の法則、カルマの法則、波動の法則などなど、、、私はこれらの理論にすがり結果その当時の悩みを解決できました。

その後映画に夢中になれない

自分の人生がエキサイティングになっていき、映画以上の波乱万丈を味わうようになってくるともう映画を楽しめません。映画とは退屈な人生におけるスパイスなのだと実感しました。もしも自身の人生がエキサイティングならば映画を観たいなど思わないということを知りました。結論を言ってしまえばこの人生もフィクションです、神が、全体がこの体になり切るというフィクション映画です、もしもこの映画に没入できるとその中でさらにフィクションを見たいという欲求が減るのは納得できます。

人間になり切って成し遂げたい時期

マリオになり切って成し遂げたい時期

なぜ私以外の人々は悟りに興味を持たないのか?なぜまだ人間ゲームにハマっているのか?助けてあげたい、、、このような気持ちは一切不要です。マリオに成り切ってスーパーマリオをプレイする時期は実はゲーム中では最高の時期です。自分はプレイヤーだからマリオの成否などどうでもいい、、こんな感じでプレイをスタートしたら最悪です。そんあプレイならば辞めたほうがいい。これは人間ゲームも全く同じ、ゲームにのめり込んで自分の存在を忘れている時期は最高の状態なのです、もちろん苦しいですが。

映画の主人公に成り切っている時期は最高

映画は主人公になり切れる映画が最高の映画です、映画中に集中できない、主人公がピンチになっても全く感情が揺れ動かない、、こんな映画ならば観ないほうがいい。主人公に成り切って喜怒哀楽の感情が湧いてきたら最高、もしも主人公が悲劇の死を遂げてもやっぱり最高なのです。この人間ゲーム同じ、ハマりこめてこそ、人間になり切れてこそ醍醐味です。だからこそ悟りの内容は人に伝えなくていい、、こんな内容のメッセージは無理して人に進言しないことです。

人間に成り切っているのが心底苦しくなれば、、、

人間に成り切っているのが心底苦しくなる時期がきます、私の場合はあらゆる事業に手をつけそれを成し遂げられた時に次の目標を失いました。もうチャレンジしたい分野がない、、そのような時期に悟りのメッセージがガツンときたのです。これを腹落ちしたい、次のチャレンジをしたい、、腹の底から悟りを求める気持ちが湧いてきました。これは思考では掴めない、思考で悟りを極めるなど不可能、そこがまたいい。そんな感じです。

最大の中毒「自分」

自分中毒こそが最強の中毒

中毒とは意識していないにも関わらずそこに依存してしまうこと、、、いつの間にかそれを手にしている、、、お酒、タバコ、ギャンブル、買い物、異性、、、、これらはこの自分劇場では中毒の対象です。ですが本当の中毒とは「自分」です。いつの間にかこの自分を意識しています。自分という実際には存在しない記憶上の概念、これに中毒するのです。「自分が居る」「自分が言われた」「自分は何をしよう」「自分になぜ不幸が」とこうなるのです。すべてを自分ごととして捉える、、中毒です。これを解消しようとする動きこそがタバコ、お酒、異性、ギャンブル、買い物などです。この瞬間は自分を忘れることができます。

要はこの体を自分と思い込みすぎる、、、

マリオを初めてプレイするプレイヤーはマリオに成り切ることはできません、なぜならば思うようにプレイできないからです。全然自分の思うようにプレイできないマリオに感情移入できないのです。ですが何時間も何日間もプレイを続けるとまるでマリオになり切ったかのようにプレイがスムーズに進むようになります。そうなるとこのスーパーマリオが楽しくて仕方がない、、マリオになり切ってプレイするようになるのです。そしてどんどんステージが進みかなり難しいステージに至った時に壁にぶつかった時に非常に苦しい時期を迎えます。もうすでにマリオになり切っている、だがこの壁を突破できない、、、帰る場所がない状態です。八方塞がりの状態です。人間もこれと同じでこの体が大人と同じように成長していくとやりたいことを何でもできるようになっていきます、この段階は全体が人間に成り切る状態です。最初のうちは何でもやりたいように動けるこの体が楽しくて仕方がない、、、ところが徐々にステージが上がり責任が増えていく、、、壁にぶつかる、、、そんな時にもう戻れる場所がない、、、こうなるのです。

人間になり切った全体は、、壁にぶつかり、、、諦める

マリオになり切ったプレイヤーはステージが進むにつれて難易度が上がり、、途中で我に帰ります。俺はマリオじゃなかった、プレイヤーだ。。これが人間ゲームでも全く同じように起こるのです、人間になり切ってゲームを進めていくうちに徐々にステージが上がる、就職、結婚、出産、出世、お受験、転勤、大病、、、、とステージが上がっても上がってもどこまでも続くこの人間ゲーム、、、責任だけは以上に増えて重さが増していきます。もうこれ以上は重さに耐えられない、、、そんな時に我に返るのです、、、それが悟り、一瞥体験、目覚めです。自分はこの体ではなかった、、、全体、ワンネスだった、、、

悟りに関する書籍がなぜ読まれにくいのか?

天動説で全て説明がついているにも関わらず

天動説が地動説に切り替わった時に恐ろしいほどの時間がかかりました。なぜ100年近くの歳月が必要だったのか?答えは簡単、天動説は地球上の人々にとって何も矛盾がなかったからです。生活をしていく上で天動説で全て説明がついてしまっていたからです。ところが一部の研究者だけが天動説では説明がつかないことがあった、研究者は地動説ではないとこの先の研究が進められなかったというだけです。だからこそ天動説をベースに生きていた多くの人は絶対にそれを認めなかったのです。

悟りに関する内容もこれと同じ

悟りに関する内容もこれと非常によく似ています。人間の中に個別の自分が居るというこの共通認識は人間が生きていく上で何も矛盾がない、、にも関わらずこの身体の中には自分がいない、、という悟りの内容は都合が悪すぎるのです。そんなことが解明してしまったらこれからの人生どうすればいいのか?そんなことを言われても困ることの方が多い、、、こんな感じでしょう。

地動説に切り替わり人類は飛躍的にテクノロジーが進化した

天動説から地動説に切り替わることで人類の進化に拍車がかかったことは間違いありません。地動説に切り替わり天文学は180度ベクトルが変わりました。これと悟りも同じ、もしもこの人間というのが全体が操るマリオに過ぎないことが分かれば人類永遠の悩み、苦しみが解明されます。生きているだけでなぜこれほど苦しいのか?この究極のお題が解消されることになります。