人間ができる前は全体だった

全体の起こりがただある世界

この世に人間ができる前の世界はただ全体の起こり、生命現象がある世界が広がっていました。全体から何かしらの生命現象が起こりそれをただ全体が認識する世界です。花が生まれ、鳥が羽ばたき、虫が動く、、ただそれだけ、、そこに人間という脳を持った生命現象が起こりました、その生命現象は脳を持ち、思考を操り、まさかこの生命現象の中に独自の意識を完成させました、それが今の人間のデフォルトです。言葉という言語で意識を作り出したのです。全体は初めて全体ではない感覚を手に入れることができたのです。この人間という感覚は後付けの感覚です、そのため人間は個別意識と熟睡時の全体意識の両方を所有します。朝起きて人間活動をする時は人間意識、熟睡時は全体意識というわけです。

この人間意識は後付けであり居心地が悪い

この人間意識の特徴は基本居心地が悪いということです、試しに家で一人きり何もしないでボーと外だけを見ていてください。強烈な退屈感、孤独感が襲ってくるはずです。この人間意識は何かをしていないと苦しくて苦しくて仕方ないのです。そして何かしらの行動をとると色々な経験を詰めて充実感が湧いてきます。不足感、充実感、退屈、刺激的、、、このようにこの人間意識活動はどこまで行ってもマイナスとプラスを行き来する世界なのです。釈迦はこれを苦しみの世界と表現しました。全体によりこの人間意識体験は大変エキサイティングで自我はこれを必死になって維持しようとしますが同時にこれは全体という歓喜、平和、安堵がこれを体験しているという自己矛盾を抱えています。そこに帰りたい衝動を抱えています。

人間がプールを楽しむ感覚に似ている

人間はなぜプールという呼吸がしにくい環境で運動をするのか?身動きが自由に取れない中であえて負荷をかけて運動を楽しんでいます。呼吸ができないこと自体は非常に苦しいこと、ですが同時にこの不自由さこそがエキサイティング、楽しさの要因でもあります。これぞまさに全体が人間をやる理由です。人間は苦しい、だからこそ面白いという感覚です。

プールで遊び疲れたら陸に戻るように人間を遊び疲れたら全体に戻る

プールで遊び疲れた人間が陸に戻るように、人間に遊び疲れたら全体に戻ればいいのです。人間という感覚は人間であることに集中するからこそ人間活動ができます。もしも自分から意識を逸らし他に集中でこることを見つけると人間意識が外れ全体に戻れます。没頭できることを見つけていきます。もしくは悟り、ノンデュアリティーというこの究極のメッセージに耳を傾けることです、すると人間であることが後付けであることがはっきりと分かり人間活動が緩んできます。緩めば緩んだ分だけ呼吸ができるようになります。

波になる前は海だった

波の経験の前に海の経験がある

海であることを忘れた波はあらゆる経験を重ねますが、波は元々海です。海としての経験を積んでいました、そこから突然波の経験が加わりました。もともとは海の経験のみです、そして海でありながら波であるという経験が後付けで追加されたのです。これは大変重要なポイントです、波の経験とは後付けなのです。だからこそ波が何かに集中することで波であることを忘れた瞬間に海の経験が湧き出してくるのです。海の中に魚の動き、潮の流れ、竜巻、海で起こる全てがそのまま経験として認知されます、他人が他人事に見えないのです。全てが海として認識されていきます。

音楽が流れれば音楽になり、風が吹けば風になる、、、、

人間あることは波であることと同じです、人間でないとき全体だけがあります、波でないとき海しかありません。人間は何かに集中し自分が人間であることを忘れると全体になっています、波は何かに集中し波であることを忘れると海になっています。風が吹けば風をそのまま感じ、音楽が流れればそのまま音楽を感じます、そこに人間は必要ないのです。波である時は魚が飛べば波視点でそれを確認します、上空に鳥が飛べば波視点でそれを確認します。ですが波が何かに集中し波であることを忘れるとき海がそのまま魚、鳥に気づきます。人間視点、波視点はあくまで後付け視点です、我々人間はこの後付け視点で日々生きているだけです。

人間としての後付け視点が消え去ると全体視点だけがある

人間が何かに没頭し我を忘れると、、人間視点が消え去ります。その時全体視点が湧き出てきます。音楽が音楽のまま認識されます、人が人のまま認識されます、花は花のまま認識されます、ゴッホやラッセン、モーツアルト、ベートーベン、などの偉人とは人間視点を放棄して全体視点でモノを音をそのまま認識していたと思います。それをただこの体が描いただけ、楽譜に刻んだだけ。ですからそこには人間としての損得、勝敗、感情の全てが抜け落ちています。

主体客体の世界を超える

起こることを気づきの意識で認識する

私(有限風無限)がこの音楽(有限風無限)を聴いている、私(有限風無限)がこの雨音(有限風無限)を聴いている、私(有限風無限)が友人(有限風無限)と話をしている、、、これらは全て主体客体の世界、対象と被対象の世界、見るものと見られるもの世界です。無限が有限を作り出し有限が有限を認識する世界です。ですがこれが実は無限が無限を認識するということになります、全ては無限のエネルギーの出現同士なので。この事実が理解できてきますとこの世界はただ無限のエネルギーが出現しているだけだということがわかります。確固とした分離したモノは一切なく全ては無限のエネルギーが作り出した表現に過ぎません。有限風無限が有限風無限を認識しているに過ぎません。そしてこの有限風無限が湧き上がる場所はやはり無限の世界です。この湧き上がる有限風無限を認識するのは無限です。

我々は無限である

見える世界に本当の有限は存在せず在るのは有限風無限です。そしてそれが起こる場所は無限です。ではこの起こる有限風無限を認識しているのは誰か?それはやはり有限風無限の自分です。つまり有限のフリをした無限です。ということでこの世に起こる有限風無限を認識するのは有限風無限(自分)でありそれが起こる場所、無限です。音楽がこの部屋に響き渡るとき、それを認識するのは有限風無限(自分、体)でありそれが響く場所(無限)です。有限風無限(体)が有限風無限(音楽)を認識する世界が主体客体の世界でこれは虚の世界、夢の世界です。なぜならばこの無限しかない世界に本当の有限は存在しないからです。この事実が理解できてきますと音楽(有限風無限)はただ無限に認識されます。主体客体の世界を超えていきます。

色は空から現れそして空に吸収される

この体も、音楽も空から現れた色です。そしてこの体(色)が音楽(色)を認識する世界があります。この体(色)は記憶によって自分(虚)を作り出しこの自分が音楽(色)を聴き続けるという夢の世界に入っていきます。自分劇場(虚)が誕生します。我々の本質は空(無限)であり色(無限)が浮かび上がるのを認識する存在です。無限が無限の現れをただ認識します。有限風無限(体)も有限風無限(音楽)も全て無限の表現であることが理解できますとただ無限だけがあることに気づきます。

ゼロエネルギーがこの世界を作っている

ゼロはどこまでいってもゼロ

この世界を構成しているエネルギーはゼロです。ゼロエネルギーでこの視界に広がる世界は構築されています。ゼロというエネルギーが様々な形状を作り出しさもこの現実があるかのように見えているのがこの世です。どこまで行ってもゼロはゼロですからこの世は虚像ということになります。ですがこのゼロエネルギーで構築された体が体以外と交わることで経験が生まれます。体を作り出すエネルギーもゼロエネルギー、そして体以外もゼロエネルギー、ということは経験もゼロということになります。どこまで行ってもゼロはゼロです。

色即是空

色即是空、空即是色という言葉があります。空とはゼロです、このゼロが色を生み出しました、色とはイロ(シキ)とと読みますが、、、空がゼロですから色も当然ゼロです。この世界は様々な形態を見せ多様な世界を構築しているように見えますがこれを構築しているエネルギーはゼロです。ということはこの目に見える世界に在るものは全てゼロエネルギーでできています。にも関わらず人間の体(ゼロ)が食べ物(ゼロ)を食べるときに感じる味覚は確実にあります、これは何なのか?ということです。これは大変重要なポイントでして経験は確実に在るのです、経験という形にならないもの(ゼロ)だけは確実に在る世界、これが色(ゼロ)の世界です。

空の世界はゼロ、色の世界は経験(ゼロ)

経験というのは形のない世界(ゼロ)です。これが色の世界の正体です。我々は間違いなく形状を持っています、ですがこの形状はゼロエネルギーでできています。この私の体は確実に在るように見えます(色)そしてこの体は確実にあらゆる経験を積むことができます、、、ですがこの経験とは証拠を出せないモノ(ゼロ)だということです。我々は経験を積んでいるからこそこの体の存在に疑いを持ちませんが、、、この体の存在証明を経験(ゼロ)に委ねているというところが面白いところです。

無限が有限になることで無限に憧れる

我々の本質は無限

我々の本質は無限です、この無限が有限のこの体になり切ることでこの有限人生がスタートします。本来は無限ですから有限体験は苦痛でしかありません。何をやっても制限に邪魔をされます、体の制限がまさにそれで全てにおいて限界が用意されています、身長、体重、筋力、思考力、忍耐力、努力、睡眠、体力、、、全部が全部有限、制限に支配られる、、、これが体有限人生です。時間と空間にも制限を受けます。ですが本質は無限ですからどこまでいってもこの体有限人生は錯覚、夢、ゲームであることは間違いありません。無限のエネルギーがなぜ有限になれるかという話です。どこまでいっても無限は無限です、有限に見せることはできますが実際には無限です。有限体験、制限体験はできますが無限は無限です、どこまでも。

この体は有限に見えますが無限でできている

今このブログを書いているこの私は体に支配されていまして、この体は全部が全部有限、制限を受ける存在です。ですがこの制限を所有するこの体は無限のエネルギーで形成されています。ですから本質は無限です。ゆえにこの体は無限に憧れます、本質は無限ですから当然です。無限が制限有限を経験しているだけですから常に自己矛盾を抱える存在なのです。無限はどこまでいっても有限にはなれないのです、有限体験しかできません。よってこの有限の体は常に無限に憧れながら有限体験をし続けていきます。無限の有限による葛藤体験が続きます。

葛藤が閾値を超える

無限であるエネルギーがこの体を作り出しこの体を同一視することでこの有限風体験は作り出されていきますが、本質は無限ゆえにこの有限風体験は居心地が悪いのです。この有限風体体験は脳に記憶されていき思考と感情に雁字搦めになっていきます。有限風体体験が積み重なっていき居心地の悪さがより増していくことになるのです。居心地の悪さが極限まで行ったこの有限風体体験は次にこの居心地の悪さの解消に本格的に乗り出すことになります。するとどこかで気づくことに、この有限の体は無限でできていると、、じゃあこの有限の体は無限ではないか?となるのです。ということでこの有限風体体験は実はハッタリ、ジョーク、虚像だったという気づきに至るわけです。

若者は苦しみから逃げ続ける傾向にある

若さはパワーでありゆえに苦しみから逃げる

この人間ゲームは苦しみのゲームです、自身は人間であるというこの体との同一化は苦しみを生み出します。なぜならば全知全能の全体が、無知無能のこの体に成り切るからです。自分でいること、この体でいること、この人間目線で人生を「意識」していきますと苦しみ、不足感、退屈感がただひたすらに湧いてきます。若者はこの退屈感を感じることですぐに逃げます、友人、恋愛、お酒、ギャンブル、ファッション、SNS、YOUTUBE、、世の中には若者を誘惑する遊びに満ちているのです。それゆえ若者はこの不足感、退屈感に向き合うのではなく逃げることでこれを見ないようにするのです。

途中で逃げきれなくなる

元気な若者ほどこの退屈感から逃げることができます、徹夜で飲み明かし、異性に明け暮れ、TVゲームに没頭し、SNSに嵌まり込む、、、次から次へと対象を変え続けてこの不足感、退屈感から逃げ続けるのです。ですがやがて働かなくてはならなくなり逃げるどころから苦悩と向き合わざるを得なくなるのです。逃げるどころか職場に閉じ込められるようになります。これは若者にとって地獄の苦しみではありますが同時にこの不足感、退屈感との対峙、真剣勝負が始まるのです。

人間の苦しみはどこから来るのか?

実は若者は退屈感、不足感から逃げ惑う生活に疲れていたのです。働くという逃げ場のない環境に閉じこめられて実はホットしているのです。これで不足感、苦悩、退屈感との真剣勝負を余儀なくされるからです。何もしないと襲ってくるこの居心地の悪さはどこからくるのか?若者は逃げ惑う生活の中で実は一瞬のヒントを得ています、ゲームで優勝した瞬間、ギャンブルに勝った瞬間、恋愛が成就した瞬間、、、この一瞬は全体、神が自我を突き破って誕生します。それが歓喜、安堵、平和です。逃げ惑いながらもヒントを得続け、そして働くことで真剣勝負が始まります。

夢中になれる仕事は楽しい

働いていく中で、どうやら夢中になれる仕事が楽しいことを理解していきます。雑念に襲われず夢中になれる、没頭できる仕事は楽しい。これは学生時代に退屈から逃げていた時期からも理解しています。没頭できるゲーム、没頭できる仕事は疲れません。人間が没頭している瞬間は自分を忘れ一瞬神になっているのです。神の片鱗をみています。どうやら自分のことを忘れている瞬間が疲れず、充実感があり、至福を感じれることを理解できてきます。そこからさらにこの苦悩、退屈、至福、歓喜のメカニズムに迫れるか?これは人間卒業まで試練は続きます。

自分活動が非常に疲れるのは記憶と一体化しているから

PCが重くなっていくように自分も重くなっていく

マリオはどのステージに進んでも行動が重くなることはありません。マリオはステージを変えていっても何かを背負っていくことは基本ないでしょう。ですがこの自分は経験を重ねていくた度に記憶が増えていき何か新しいチャレンジをしようとすればその記憶が作動します。何をしようとしても記憶の照会作業が始まり過去にはこういう失敗があったなど思考がグルグル回転します。さらにその時の記憶から感情が湧き出しその感情にも振り回されるという始末。大人になると気軽なチャレンジができなくなるのはこのためです。子供の頃はなんでもやってみたいで実践できたのが、大人になるとやってみたいの後に記憶に裏打ちされた情報が脳内を飛び回り結果やらないという思考が湧いてきます。何かを始める前から異常に疲れるという始末です。

一年間を通じて結果何もチャレンジできなかった、、となる

人間ゲームにおいてこの自分は記憶を溜め込んでいきます。これまでの何十年間分の記憶が溜まっているわけです、結果何か新しいことをしようかなとアイデアが湧き上がってもこの記憶からあらゆる感情、思考が湧き上がりグルグル状態に。そのまま疲れて何もしないが継続します。年々何もチャレンジできなかった傾向が強くなっていきます。そして最終的には何もチャレンジしないのがデフォルトになります。好奇心は消え去ります。

記憶を頼りにすれば結局何もしなくなるのが分かったら

人間ゲームにおいて記憶を頼りにすれば確かにこの体を安全に維持できる可能性は高くなります。ですが安全を確保した結果として人間が人間ゲームをプレイしている間は不足感が解消することは絶対にありません。安全だろうと危険だろうと不足感は絶対に無くならないのです。この二元の世界、ゲームの中で人間としてのゲームが継続する限り快楽も苦悩も不足感の根本解消にはならないのです。それが分かってきますと記憶を頼りに思考や感情に振り回されてもあまり意味がないことが分かってきます。マリオ同様にゲーム上は安全にプレイできてもそれが根本解決とは何も関係がないのです。身も蓋もない話ですがマリオも人間も記憶を頼りにこのゲーム上で上手く立ち回っても不足感、分離感、退屈感という罠から抜けれることはありません。このメカニズムを理解してキャラクターからプレイヤーに、プレイヤーからクリエイターへのシフトが大切です。

人間ゲームの最重要機能、記憶

恐らく脳は記憶を受信する場所

スーパーマリオが大ヒットした当初記憶機能というものが存在しませんでした、ゲームはスタートしたらまさかの最後まで一気にクリアーしないと完結しなかったのです。記憶機能が存在しないからです。ところがスーパーファミコンが誕生してからスーパーマリオには記憶機能が完備しました、これにより途中でゲームを辞めても次の日は続きからプレイできるようになったのです。この人間ゲームは当たり前ですが記憶完備です、朝起きればしっかりと昨日までの記憶が蘇ります。ではその記憶はどこにあるのか?人間はこれを脳にあると認識しています、脳が機能不全を起こすと記憶が飛ぶからです。ですがよく考えてみてください、マリオゲームの記憶はマリオの中には存在しません、マリオゲーム自体に記憶されます。ということはこの人間ゲームの記憶は人間ゲーム自体に記憶されている可能性が高い、そしてその記憶をリンクさせる場所が脳ではないか、、、ということです。その証拠に幽体離脱をした人間の話を聞くとしっかりと過去の記憶を持っている、、、

人間ゲームとしては人間は脳に記憶がある

この人間ゲームとしては脳に記憶がしまってあります、ゲーム上はです。ですが本当は人間ゲームそのものに記憶があります、全体、神にあるということです。神制作人間ゲームにおいて記憶が人間の脳の中にだけあるなど考えられないということです。ゲームがスタートするとゲーム上人間の脳の中に記憶は貯蔵されます。人間ゲームのゲーム進行上どこかに記憶がなければゲームが成立しないということです。脳の記憶障害を起こした人間がある日突然記憶が戻ったということがあるのは記憶は神全体、ゲーム全体に記憶されていてそことのリンクが戻ったということです。スマホのデータがクラウド上に存在するように人間の記憶もクラウド、神、全体に存在します。

テクノロジーの発展はこの人間ゲームの種明かし

私はこの人間ゲームをマリオゲームで例えて説明しますが、、人間が発明したテクノリジーはこの人間ゲームの種明かしにあまりに最適です。釈迦やキリストがこの世のカラクリを明かした時とは違い説明が楽すぎる、、、どうやら神は人間ゲームの種明かしをする時期に今を設定しているのでは?そのような疑問が湧いてきてしょうがありません。一時期若者のことを悟り世代と呼んでいましたが、、これはあながち間違っていない。積極性がなく無欲な若者を悟り世代と言って揶揄していましたが違った意味でこれが真実を突いているかもしれません。

マリオゲームは2時間、人間ゲームは16時間が限度

プレイヤーはゲームが終われば夢から覚める

プレイヤーがマリオゲームに熱中している時はマリオになり切っています。自身がまるでマリオであるかのように感情丸出し、思考丸出し状態です。悔しがり、喜び、歓喜に狂い、マリオに成り切ります。ですがゲームに疲れてゲームを辞めれば元の生活に戻ります。マリオになり切っていた自分からプレイヤーに戻ります。とはいえマリオはどうか?もしもマリオに人格があるとすればマリオは常にゲームの中です。マリオが我に帰ってゲームをやらないという選択肢はありません。マリオとはゲーム進行中しか存在できないし、ゲームが始まればマリオの選択肢は大冒険を続けるのみです。マリオと大冒険は常にセットです。マリオとはゲームの中でしか意識を持てない存在なのです。

神は人間の熟睡中は夢から覚める

一方この人間ゲームはどうなっているか?人間ゲーム絶賛活動中、神は人間になり切っています。神などこの世にいないかのように人間になり切ってゲームを遂行します。そして夜が更けて疲れてきた時に人間は熟睡と言って意識を失います。この瞬間神は神に戻ります、人間ゲームに疲れた神は神に戻るのです。TVゲームは2時間ぐらいで疲れ果てプレイヤーは我に帰りますが、神は人間ゲームを15時間ぐらいして我に帰ります。そして人間8時間の睡眠の後また再び神は人間になり切ってゲームがスタートするのです。人間の記憶装置が機能して私は〇〇太郎であるという感覚が戻ることで意識ががっつりここに焦点が合わさるのです。人間になり切った神の完成です。朝は意識が朦朧としますが神意識から人間意識へのシフト期間です。マリオゲームスタート時にプレイヤーがジャンプ練習などをする期間です。

悩みが多すぎると、人間意識から神に戻れない

神は人間活動中にあまりに多くの悩みを抱えますと、意識が人間に集中し過ぎて神に戻れない状態になります。思考がグルグル回り過ぎて人間意識が解除されないのです。そんな時は人間はお酒などを飲んで脳を麻痺させて思考を強制遮断し人間意識から神に強制帰還させます。神にとって人間に意識を合わせている期間は居心地が悪く疲れます。全知全能の神が無知無能の人間になり切っているわけですから当然です。記憶を使い私は人間であるというストーリーに入り込み続けるのは、人間がゲームキャラに成り切る、映画の主人公に成り切るのと同じです。人間は2時間ぐらいでゲームも映画も疲れ果てて辞めます、それはそこに意識を合わせ続けるのはパワーが必要だからです。本当はゲームキャラでも映画主人公でもないからです。

マリオにとっての完璧とゲームとしての完璧は違う

マリオにとっての完璧は、、、

マリオにとって完璧なゲームとはクッパに勝った時に最大限の祝福を受け、ステージが上がるごとに見た目も精悍になっていき、服装もゴージャスに、豪勢な食事にありつけ、、ピーチ姫からの感謝も盛大に、、こんなことかもしれません。ですがゲームとしての完璧さは違います。マリオのレベルに完璧に合った敵が完璧なタイミンングで現れる、一面をクリアーすると二面は完璧な微差でレベルアップされている、低過ぎても高過ぎても駄目、ちょっとだけ難しくなっている、そこが完璧。マリオにとっての完璧とゲームの完成度の高さは全く違うのです。

この人間ゲームはもっと完璧

人間にとっての完璧は、、完璧な家に住み、完璧なパートナーがいて、完璧な仕事があり、完璧な子供が居る、完璧な友人がいて、完璧な週末を送る。。。ですがゲームとしての完璧さは全く違います。その人間のレベルにに完璧に合ったレベルの仕事、パートナー、環境、週末、、、ということになります。マリオがどう思うおうとゲームとは難し過ぎても簡単過ぎてもダメなのです。この人間ゲームも同じ簡単過ぎても難し過ぎてもダメ、、その人に絶妙に合った難易度になっている、これが完璧。人間制作のマリオですら、マリオを扱うプレイヤーレベルに完璧に合った進展をみせることができます。この神制作人間ゲームがそこを踏襲できないわけがない、、もしろもっと正確無比にそこは行われる、そう思った方が賢明です。

今自分に起こっている問題は完璧な難易度

スーパーマリオにチャレンジするプレイヤーは自身のレベルに合ったステージで思考錯誤するはずです。何かの間違いでいつの間にかクリアーしてしまった、、それがありません。初心者は一面、中堅者は4、5面、上級者は最終ステージでの試行錯誤が起こります。これは人間も同じその方が今思考錯誤しているステージこそが最適ステージということになります。この神制作人間ゲームをそのような視点で眺めますと試行錯誤の意味が変わってきて面白くなります。