いつか悟りが開く時を待つの誤解

時間軸の延長線には悟りはない

悟りとはこの時間が幻想であることを見抜くことです、この自分、自分が動く空間、時間、、これらが幻想であることを見抜くことであり、、それゆえいつの日か悟りを開ける日が来るだろうという思い込みは「自分」と「時間」というものを大前提にした考えでありこの考え方は逆に悟りを閉じます。ですが路頭に迷う探求者であるならばいつの日かという発想を持つのは当然のことでありこの誤解の事実をただ認識するのみです。

誤解を解き続ける結果として突然気づきが起こるのみ

思考を使いこなす自分としてではなく、、思考が抜け落ちた無我としてただひたすらに「自分」「自我」のメカニズムを理解していきます。どのように自我が構築されてどのようにこの分離の世界が出現したのか、、、我々の誤解を解き続けていくしかありません。自分という視点が作り物であるという深い理解、分離しているというこの世界の思考によるメカニズムの深い理解こそが「自分」から全体へのシフトを起こします。

時間とは?

時間というのはこの「自分」がこの世界に誕生することで生まれました。この自分が経験することの積み重ねを記憶した際に時間の認識が起こります。ですがこの「自分」が幻想である以上、時間も幻想ということになります。移り変わりを記憶する「自分」がいることで時間というアイデアを共有しているだけのことです。ですからいつの日か悟りを開ける日が来るという考え方は多くの矛盾を秘めているのです。

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