この世界では自らを殺める自由すら与えられている

間違えることができるのは愛

本当の意味では間違いというのはないのですが、、この人間ゲームでは間違うという自由すら与えられています。これはゲームですからどの行動も完璧です、ゲーム上で行える行動は全部許されているからその選択肢があるわけです。そうなれば我々の行動には一切間違いはありません、マリオゲームでのプレイに失敗は全くありません。クリアする上で非効率に見える行為があるだけです。この人間ゲームも同じ、このゲームでは自らを殺めるという自由すらも与えられています。

なぜそのような自由があるかと言えば、、

なぜそのような自由があるかと言えばそれこそが愛、神、ワンネスが舞台の大元だからです。この人間ゲームではあらゆる失敗をすることが完璧に許されているのです。そして失敗とは人間が考える価値観であり宇宙には失敗という概念すらありません。人間という存在が苦しむ自由が与えらえているので自らを殺めるという選択肢を取る自我も現れるということです。

苦しむ自由が与えられている、、

この人間ゲームの特徴は苦しむという自由が大前提にあるということです。神が人間になり切っているわけですから基本が苦しみです。あとはその苦しみをいかに回避しながらも苦しみの根源に迫っていくゲームです。ゲームの特質上、途中で自らを殺めるという選択肢を取る自我も現れるでしょう。ですがそれすらもそのような行動をとる自由が与えられているというゲームの寛容性なのです。

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