全力で神を追い求めることで神が隠れる

行動が個人を強化するという矛盾

ある時人はこの苦しみに終止符を打ちたいと神を求めるようになります。世の中に宗教がこれだけ多いのには理由があるのです。多くの方は神を求めます。ですが矛盾するようですがこの神を求めるという行為そのものが「個人」「私」を強化することになり「神」が隠れるという結果になります。なんという皮肉でしょう。ですがこれが事実です。個人は何かを叶えたい時に行動に移します、行動するのは「個人」「私」です。ですが神とはこの「私」という意識が欠落した状態です。私という収縮したエネルギーが解放された状態のことです。

我々はこの「個人」が何かを達成するよう訓練されてきた

悟りというものがなぜいかに難しいことかと言えば、、、これまで個人がやってきたこと、成し遂げてきたこと、成就してきたこと、努力してきたことと全く逆ベクトルな場所にあるからです。目標を達成した「自分」、周囲から評価を得ることができた「自分」、地道に努力して何かを築いた「自分」この自分というエネルギーが居なくなった状態が「神」意識です。このカラクリに気付ける「自分」こそが神です。

それでも「個人」は神を追い求める

ただしこの「個人」が神を追い求めるのは全くもって自然なことでありそれが間違っているということではありません。それが普通です。個人は常に欠乏感、不足感を抱えて生きていますから、、それをどこかで解消したいと心底では強く願っています。そしてそれが何かを達成することでは成し遂げられないことも実は知っています。そうなるとその解決を神に求めるのは当然のことです。ですが真の理解とはこの当たり前に認識し続けてきた「自分」という存在こそが神を見えなくしていたという気づきです。「自分」という認識エネルギーの消滅が神を顕現させます。

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