なぜ存在、大いなる一つを言葉で説明することができないか

言葉で説明できることは自我の説明

大いなる一つ、存在とは何かを言葉で説明するのがなぜ難しいのか。それは言葉を使っている存在(自我)自体が存在を見えなくしているからです。つまり存在とは自我がいない時に出現するもの、それを言葉(自我)を使って説明するのは至難の技なのです。ですから書道、茶道、剣道でも真髄は言語で説明できないところにあると説くのです。所作の中から存在、大いなる一つを感じるものであり言葉で説明できるものではないのです。もしもそれが可能ならば通信教育で事は足ります。

お味噌汁の美味しさを言葉で正確に伝えるのは不可能

外国人の方にお味噌汁の美味しさを正確に伝えることは不可能でしょう。外向人の方に納豆の美味しさを言葉で伝えるのは不可能です。あの味を正確に表現できる言葉などありません。つまり言葉には限界がありにも関わらず現代人はその言葉で至福に至る方法までも手に入れようとするところに苦しみが始まります。言葉で悟りを理解する、解放を理解できるのならば中学生は皆学校でこれを学ぶだけでいいはずです、ですがそうは簡単にいかにのはそれが言葉を超えた存在だからです。

マインドが必死に至福を探しても見つからない理由

マインド、思考、これを自分自身と絶対視することが自我の証明です。湧き上がるマインド、思考こそを自分自身と捉えることで苦しみが始まります。そのマインドを強化することで至福、存在、自由に至れると勘違いすることが苦しみです。マインドを自身と勘違いすることこそが苦しみの原因ですからこれを疑うこと、これを自分と勘違いしないことこそが至福に至る唯一の方法になります。

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