最初から全て決まっているならば

何が面白い人生なのか?

最初から全て決まっているんですよ、そうお伝えすると多くの方はでは何が楽しい人生なのか?と反応します。この反応こそが今不幸な証拠です、今苦しい証拠です。毎日が楽しくて仕方がないのならば最初から全て決まっていようといないとどちらでもいいからです。幼稚園の遊具で毎日楽しく遊んでいる生徒にこの事実を伝えても誰もショックを受けないでしょう。なぜならば今楽しいのだからそんなことはどっちでもいい、、ということです。

絶対的幸福感に包まれて

最初から全て決まっていると聞いて「良かった」「素晴らしい」と思う方は稀です。なぜならばこの「自分」はこの人生の全責任を任され運営してきたと信じ切ってきたからです。今更お役御免、社長職辞任、代表取締役解任は酷過ぎるよ、、、という話です。じゃあ「自分」はこれから何をして生きていけばいいのか??という話です。それは当たり前のこと、退職金もない、慰労金もない、慰謝料もない、、じゃやってられないというわけです。ですがこの事実が腹落ちしてきますと、、確かに自分が決めていないなー、、という事実が徐々に押し寄せてきます。そしてお役御免になった自分は徐々に忘れさられていく、、辞めた社長の影がいつの間にかなくなっていく会社と同じです。

桐島、部活辞めたってよ

この映画の中の桐島は、、映画の作中一切登場しません、桐島の周辺の映像のみ、、その中には桐島の姿が全くでてこないのです。霧島を知る知人、友人、同級生は全部でてきますが肝心の桐島が全くでてこないのです。ですがこの映画は完璧に桐島抜きで話が進んでいくのです。これがまさに自我、自分というものです。自分というものなど一切でてこないにも関わらずこの人生は完全に進んでいるのです。そして自分というのが本当は居ないのならばこの人生そのものが嘘、勘違いであることも腹落ちしてきます。この腹落ちは自分がするのではなく、腹落ちがただ起きます、湧き上がります。

桐島が実は居ないのならば

この映画では最初から最後まで全く桐島が登場しないのですが、、そうなればこの桐島を主人公にした映画そのものはただの映像になります、映像が移り変わりその登場人物が桐島がまるで居るかのように演技を続けていきます、桐島が絶対に居ると信じれるようなあらゆるシナリオが用意されこの映画は進んでいくのです。そして本当は桐島は居ない、、、これが我々の人生の正体です。生まれてきてからまるで「自分」というものが居るかのような扱いを受け続け、自分が絶対に居るという確信に変わる、その自分が「湧いてくる思考」を所有することで意思決定し人生を選択する「自分」に昇格していくのです。

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