究極の分離から究極の融合へ

究極の分離とは自立した大人

自立とは自らで立つと書きます。自ら立つ、、、この自らというのがポイントでこれこそが宇宙アートから完全に分裂し分裂した身としてしっかり立つことを意味します。自立とは自我の完璧な分裂でもあるのです。この状態は逞しくはありますが日々不安感、喪失感、恐怖感、欠乏感が湧いてきます。なぜならば宇宙全体からの完全分離は苦しいことだからです、本当は分離していないから。役者が役になり切っている状態はある種全部が偽りの状態、快楽もないもかもが嘘です。

役に入り込みすぎた役者は、、、、

役に入り込みすぎた役者は、、、食事の趣味も、性格も、好きな娯楽、好きな音楽すらも、、、本来の状態を忘れ全く別人格になります。これは全部が全部偽りの状態、、、どこかで無理がくる、、おかしくなる、、、居心地が悪くなっていく、、、、何かがおかしい、、、が常に頭をノックする、、、、、これが完全分離した大人の精神状態です。宇宙全体は完璧なまでに人間になり切った姿、これが自立した大人です。これが究極の分離です。

究極の分離に疲れたら究極の融合を目指す

究極の分離は周囲からは讃えられるでしょう、素晴らしい、責任感がある、真面目だ、、、ですが実際には本人は苦しい、どこかで違和感を感じています。もしも完全なる分離体験に疲れたら、、、究極の融合体験を目指すべきです。究極の融合体験とはこれまでバラバラに分離してきた情報を再び融合していくことです。情報を整理していくのです。バラバラに散らばった机の中をカテゴライズして整理していくことで頭の中が整理されていきます。頭の中が整理されていくということはこの見える世界が整理されていくことになります。そうなるとどうなるか見える世界が融合していくのです。見える世界が融合されていき見える世界に活気が再び戻ってくるのです。そして究極の融合とは何か?ご想像通り悟りです、要はこの分離して見せてきた世界が実はたった一つのエネルギーだったといういう理解、気づきです。

色と空に境目はない

色と空は一つ

ノンデュアリティーとは非二元ですから色と空が別だ、、と言ってしまったら矛盾します。色と空は二つで一つです。色とは動く空であり空とは静止した色です。おそらく人間という体を持った状態でこの事実を完璧に腹落ちさせることは不可能でしょう。少なくとも我々はこの動く空の中で個別意識を持ち分離体験絶賛行動中の身であることは間違いありません。分離全開、分離上等です。家庭教育、学校教育でモノの名前を丸暗記していくことでこの大宇宙をバリバリに引き裂き分離してみせその中を生きるという芸事をやっているのがこの人間です。この人間の視点から色と空の双対を否定し切るのは難しいものです。

一瞥体験者は色の世界を馬鹿にする

色から空の境地、、、絶対無を理解した一瞥体験者、覚醒体験者は、、移りゆく世界、移り動く世界、諸行無常の世界を意味のない世界、、そこで右往左往する我々人間の動きを嘲笑います。本当は絶対的無しかないのだから何を慌てて生きているのだ、、、ということです。何も達成しても無駄、何を成就しても無駄、、という結論に走るわけです。ですがこれはこの広大な宇宙アートを創造した意図を組めていません。我々はこの偉大な宇宙アートが人間という視点からこの宇宙アートを体感するという偉大なゲームをしているのです。このゲームに虚無感を感じのは幼稚な解釈です。

私を通じて見る世界を楽しむ

そもそもが壮大な宇宙アート、完璧な神のクリエイティブ作品であるこの世界に人間が個別意識、分離意識をもて降り立つことでバランバランに引き裂き生気、活気、芸術性を切り裂いて生きているのが我々に生活です。だからこそ人間はアートを再び求め、偉大な音楽に聞き惚れます。なぜならば本来は全部がそうだからです。このバラバラに切り裂かれた世界に再び神を再発見したいのです。ゴッホやピカソ、べートーベン、モーツアルトには見えていました、聞こえていました、神のアートが。だから彼らはそれを神や楽譜の上に表現したのです。

否定とは分離の錯覚の中でしかできない

もしもこれが宇宙のアートだと分かっていたら

もしもこの我々が見ている世界が宇宙のアートだと分かっていたら、何も否定するものは在りません。あろうはずがないということです。なぜならばアート作品に分裂はなく全部で一個です、このアートの全体性が完璧であるならば部位部位に分けてこれを否定するんど起きようがないということです。ということで我々が日々行ってい否定とはこの大宇宙アートをバランバランに分裂させ部位別に否定するという行為をしているのです。まず「自分」を分裂させてから自分以外を分裂させ部位別攻撃をしているのです。

宇宙アートから切り抜いた時点で生気を失っている

ピカソの絵のごく一部を切り抜いて否定批判をする行為は滑稽です。なぜならばピカソの絵は全部で一つであり切り抜いた時点で価値は激減しているのです。バラバラに切り裂いて部位別批判をしてもその行為には意味がないのです。あるとすれば「自分」を優位に立たせるための戦略でしょう。我々は本来は最高傑作の宇宙アートを切り裂いてお互いに批判し競争し罵詈雑言を言い合うという意味不明の行為をしているのです。ですがこれも神の遊び、宇宙全体の遊びですから完璧です。

子供から無邪気が失われていくのは当たり前

大人になるということは無邪気が失われていくことです、元気が失われていくことです、、なぜならば宇宙全体の偉大なアートを思考、言語で名前を付けて徹底的に切り裂いていき生命力を奪っていくからです。奪っている「自分自身」も当然生命力が奪われていきます。徹底的に切り裂かれた世界を孤独に生きていくことになるのです。ですがそれも神が考えた遊びです、小さく切り裂かれた自分からこの世界を眺めてみたいという神のゲームです。どこまで切り裂かれても神は神ですからいずれは神に全員戻ります。

「最初に言葉あり」の真実

言葉がこの幻想を作り出した

本当は二のない一つのエネルギーが織りなす世界が我々の前にはただ在ります。今もこして私はPCでブログを書いていますがその瞬間も目の前に二ではない一つのエネルギーが蠢いています。ところが実際はそうは見えない、、これはなぜか?我々が言葉を覚え生命現象に名前を付けたからです。ここが超重要なポイント、ここが最大の転換点です。これこそがこの2のない一つのエネルギーを分離した世界に見せているのです。

先ずは「自分」を言葉が出現させた

言葉を覚えていく過程で一番最初に覚えていくのがこの「自分」という存在です。この「自分」という存在を言葉によって作り出しました。これによってこの2のない一つのエネルギーの中に自分と自分以外という分離した世界が出現したのです。たった一つの宇宙現象が分離世界というイリュージョンに変化していきます。これを脳が意識的に行います。宇宙全体、大いなる存在による幻想の出現です。

あらゆる生命現象に名前を付けていく

言葉を覚えた人間はあらゆる生命現象に名前を付けていきその度にその物と物以外という分離を起こしていきます。世界がバンバン分離していきます。意識した物が宇宙現象の中から切り抜かれていくのです。それによって確実にこの「自分」は生存しやすくなっていくのですが、と同時にこの宇宙アートがアートではなく殺風景な風景に切り替わっていきます。現実という錆びた世界に切り替わっていくのです。世知辛い世界に宇宙のアート、神の顕現が格下げされていきます。

自我の欠落こそ真のアイデンティティー

真のアイデンティティーは自我の欠落である

自我は本当の自分は誰か?本当の自分とはより崇高な自分ではないか、、と自身の向上に努めます。魅力ある自分、崇高な自分、霊的向上を果たした自分、バイブレーションが高い自分、、、、とこのように自分というものを大前提としてどこかに真の自分になれる機会を常に探していきます。ですが実際には皮肉にもこの自分の欠落こそが真のアイデンティティー、真の自分です。これは分離世界の消滅であり、全体の現れでもあります。

分離世界とは全く違う場所に真のアイデンティティーがあるわけではない

神はどこか遠くにいるのではなく、ノンデュアリティーもどこか遠くに在るのでもない、非二元も。そうです、自我が神、非二元、ノンデュアリティーを隠しているだけであって今ここにそれは存在しています。人間の脳が自分を作り、世界中に分離したあらゆる物、人を創造しました。これは全部人間の思考が作り出した幻想です。この魔法が溶けれ今ここに神、全存在、非二元が現れます。

自我はこれまで自助努力を尽くしてきた

自我はこれまで最大の努力をして人生をなんとか幸福に近づける努力をしてきました。ですがこのラットレースは尽きることがない地獄です、いかに早くこれは地獄だと悟ことが重要になります。そしてこの自我ベースの人生には限界がありこれを死ぬまで続けても至福には至れないことをいかに早く気づくかです。そして今再び自分に問うのです、自分とは何か?この探求が始まるといつかどこかでこの世の真理にぶち当たります。この自分こそが幻想であり、自分が見る世界もやはり脳が作り出した幻想である、、それを見抜くとそこに真実が広がります。

苦しみこそが自我を悟りに誘う

自我増大=苦悩増大

苦しい、悲しい、寂しい、、、これらの苦しみは自我こそが作り出しています。信じられないかもしれませんが自立するとは苦しみを増やす行為なのです。だからこそ自立に積極的になれる人はそうはいません、それは自立がそのまま自我の確立でありそれはそのまま苦しみの増大だからです。ということで自立は決して生易しいものではなくとんでもなくチャレンジフルなことなのです。

あの人は自立していて憧れる、、

自立、自我の確立は、、、決して甘いものではありません。世間は自立した人間を生活力があり分別があるぐらいの評価しかできないかもしれませんが全く違うのです。自我の確立とはそのままで不足感、欠乏感の確立なのです。自我の確立とは分離意識の完成でもありそれはそのまま居心地の悪さ、不足感、分離感、孤独感の完成でもあるのです。地獄の始まりでもあるのです。社長は孤独、、、と言われるのは社員とは状況が違う、、という簡単な話ではなく、、、自我の確立とは全体との完全分離でありそれこそが孤独感や不足感を生み出すのです。

確立した自我は悟りに誘われる

自我確立とは自立確立であり、、これは同時に全体からの完全分離を意味します。この完全分離は苦しさ、孤独感、不足感の確立でもあります。よって自我が確立した大人は苦しだとともに生きていくことになるのです。ですがここで問題があります、自立すればするほどに苦しくなるならば今後自身は何を目指したらいいか?という話です。この先にはさらなる苦しさが待っているならば人生に何も期待はできない、、こうなります。ということで自我が確立した大人は逆にこの自我とは何か?という探求に誘われることになるのです。

自我の完成無くして悟りなし

自我の完成は人間ゲームの山場

これは神のリーラです。神が作った遊びの場、神は神のままでは苦労も不幸も孤独も味わえない、、、だからこそこの世界を構築しました。そうなりますともしも自身の両親が超お金持ちで一切働く必要がない、友人も一人もいらない、結婚も何もする必要がない、、となった場合に苦労というものをしなくてもいい状況になります。これは神が望んだことなのでしょうか?完璧完全な神がわざわざこの超不自由極まりない世界を作ったにも関わらずその恩恵?に浸らない人間がいればどうなるか?自我が完成しないわけです。自我が完成しなければ居心地の悪さ、欠乏感、不足感などが湧いてこないということになります。

ちゃんとした大人になることの苦しさ

大人になるのは苦しいことです、大人になることは分別をわきまえるようになること、この分別とはつまり分離世界を完成させることになります。この「自分」は他人とは完全に異なる存在であるということを証明することになります。これは苦しいことです、分離感、不足感、欠乏感が湧いてくる状況を自ら作ることになるのです。ですがこれは同時にこの体の存続を絶対的なものにしていきます。何かに頼る、依存するというのはこの体の存続においてはリスクがあります。

自我が完成するからこそ、、、

自我が完成するからこそあらゆる目標を達成することができます。結婚、子育て、出世、名誉、地位、安定、、、あらゆるアイテムを所持することができます。そしてそれを達成したときに次の欲求が湧いてくるのです。結局のところその先に何があるのか?ということです。この自分とは結局なんなのか?という悟りに向かった衝動が自然と芽生えてきます。分離意識全開、自我全開は悪いことでは断じてありません、むしろそこからが本当のチャレンジであり楽しさでもあります。

双対から絶対へ

双対とは「自分」が居る世界

双対とは「自分」が存在する世界のことです。自分がいて自分以外がいるという世界です。全体から「自分」がくり抜かれそれ以外が同時に生まれました。これによって自分が自分以外を見る、触る、嗅ぐ、味わう、という体験が生まれるのです。ですがこれは思考が発達しこの自分が居るという認識が生まれることで起こりました。体、思考、感情を自分であると認識することができるようになり、結果それ以外を認識するという体験が生まれたのです。双対の世界では基本「自分」は外に対し関心を強く持ちます。五感もそのようにできています。

絶対とは「自分」が消えた世界

絶対とは「自分」が消えた世界です。自分が消えるとはどういう意味か?そもそも自分が後付けて形成されたものですからそこを理解したら自分は消えてなくなります。人間はいつしかこの思考を自分であると勘違いしうるようになりこの宇宙空間から自分を切り抜きました。ですがこれは思考が大きく関わっておりこの思考がなければそのような認識を作ることはできません。このメカニズムを理解することで「自分」をアンインストールすることができるのです。「自分」をアンインストールするとそこには全体しかなくなりそこが絶対の世界です。

変化する絶対(色)と変化しない絶対(空)

この世界は変化する絶対である色と変化しない絶対である空で形成されています。空がなければ色は生まれず、色がなければ空は存在できない。この二つは一つです。色と空は一つです。これがノンデュアリティー、悟りです。我々が通常使う個人とはこの色の世界の中に個別意識、分離意識を作り色の世界を彷徨う体験をしていることになります。

大樹が葉っぱに成り切る

ある時大樹が葉っぱを体験したくなった

ある時大樹が葉っぱをどうしても体験したくなった、、大樹は大樹のままでは葉っぱを体験することができません。できるのは大樹としての葉っぱのみです。大樹は葉っぱとしても体験を積みたくなったのです。葉っぱ側から大樹を見たときにどんな感じなのか?葉っぱ側から見た大樹はどれほど大きいのか?葉っぱ側から見た大樹はどのぐらい太いのか?これらを大樹は確認したかったのです。そこで大樹は考えました、葉っぱに意識を持たせようと、、、そして葉っぱは独自の進化を歩み意識を取得することに成功しました。

葉っぱから見た大樹は確かに大きかった

葉っぱからみた大樹は遥かに大きく、遥かに巨大で、遥かに強く、、、そこから見る景色は壮大でした。大樹は葉っぱに成り切ることで大樹の偉大さを初めて知ったのです。大樹は葉っぱに成り切っていて自身が大樹であったことを忘れています。ですが大樹を眺めるとなぜか感動が生まれてきます。葉っぱは不思議に思うわけです、なぜ大樹の偉大さを知ると感動が生まれるのか?と。ですがこれこそが大樹が葉っぱに意識を持たせた目的そのものです。

葉っぱは最後に実は自分は大樹であることを思い出す

大樹の葉っぱ体験ですから自分が実は大樹であったことなど簡単に思い出してもらって困ります。そんなことが簡単に起きてしまったらこの葉っぱ体験は何も意味がなくなってしまうということです。ですが葉っぱとしてあらゆる経験を積んだ際には実は大樹だったという種明かし、それすらも偉大な経験、大樹が大樹のままでは絶対に経験できないことなのです。人間は実はこの全宇宙存在の現れですが、、それに直ぐに気づく必要は全くありません。むしろ人間目線の経験こそを全宇宙は体験したかするかのです。だからこそ人間は生まれてきて外に外に関心が向くのです。生まれてきて内に内に関心が向く子供はあまりいません。

水槽そのものが魚に成り切る

魚に成り切った水槽は魚を遊び倒す

考えてみてください、、もしも自身が水槽全体であって、、、その全体が水槽の中の魚になり切れたら、、最高に面白い、、、、水槽による魚体験です。水槽はずっと魚で生きるってどんな感じなんだと憧れていました。魚になってみるのが夢だったのです、ですからどうしても魚をやってみたかった、、、水槽は考えました。。魚の脳を進化させて魚に言語を使えるようにしよう、そしてこれが私だと思い込めるメカニズムを構築しようと。魚は脳が進化していき自身を自分と思うようになりました。魚は魚を自分と思い思考し、感情を表し完璧なる個別意識の構築に成功したのです。

水槽全体が魚体験をするという矛盾

魚はこの水槽の中で完全分離に成功しましたが、、、如何せん魚自体のエネルギーは水槽全体であることに変わりはありであません、分離したのではなく分離したと思い込めるようになっただけです。ということでこの分離意識は常に矛盾を抱えています。水槽そのものはこの魚体験が楽しくて仕方がないわけですが、、と同時にこの同一化は苦しくもあります。ということで1日の3分の1は睡眠という形で水槽そのものに戻ります。水槽による魚体験を長時間やり続けるのは苦しいのです。

元々魚は水槽の一部であった

ここで注意点があります、水槽の中には元々魚がいたのですから魚は水槽の一部だったということです。水槽からしてみれば魚は自分の一部です。魚でもあったわけです。ですが魚から見る世界を水槽は味わってみたかったのです、魚が餌をとるときどんな気分なのかを魚目線で経験したかったということになります。そこで魚の脳を進化させて同一化できるようにし水槽による魚体験が完成しました、これが全体による人間体験でもあります。