行動から観察へ

思考が起こった時

これまでは思考が起こると同時に、、自分が起動します。。ようく観察してみてください、、「今日夜何食べようか????」が起こった時「自分」が起動しているはずです。友人から「今日飲まない???」とラインが入った時に「自分」が起動していないでしょうか????「今日何しよっかな???」の思考と同時に「私」が起動していないでしょうか????

思考と自分を切り離す

「なんかモヤモヤする」が起きた時に「自分」が薄っすら起動していないでしょうか????これを毎日観察してみてください、、、今まで我々は何かしなきゃ!!!!!という強迫観念に縛られてきたのです、、「なんかしなきゃ」です。。。だから常に前に前に進むベクトルが起動し、、観察する、止まって観察することに慣れていないんです。

今日一日観察しよう

今日は何かをする日じゃなくて、、、観察する日にしましょう。思考が湧いたらただ観察する、、、今こんな思考が湧いたな、、、です。それと自分をリンクさせない。。。。「イライラする」、、、が湧いたな、、、です。「じゃあどうしようか???」じゃないんです。それは今までのスタイルです。「どこか行きたいな!!」が湧いたな、、、です。「じゃあどこに行こうか????」じゃないんです。

思考感情を冷静に観察できるようになると

湧いてくる思考感情を冷静に観察できるようになりますと、、、その観察している誰かに既になっているんですい。思考=自分ではなく、、思考を観察する存在です。もうその時点で、、何かが変っちゃってるんです。アイデンティティがシフトしちゃってるんです。こんな簡単なの?????そうです、簡単だからそんなんでシフトするはずがない、、、という思考こそが罠だったんです。思考感情との同一化とは、、観察するだけで解消します。

マリオが動きを止めること

マリオがステージを上げ続けるのを辞めた時に

私たちは基本マリオです、マリオをずっとやってきたんです。第一ステージ、第二ステージ、第三ステージ、、、どんどん難易度は上がっていきますが、、それが成長と教わり、、、、一応ゲームスキルは上がっているはずなんですが、、いったいこれからの人生どこまでステージを上げればいいのか????です。なんとなくですがこのままステージを上げ続けても終わりがないような、、、、、大正解!!!!!!分かってらっしゃる、お見事!!!

そして

私たちはこの体(マリオ)を自分だと思ってこれまで頑張ってきたんです、社会の要求(新しい敵)に応えてきたじゃないですか!!!!!マリオには責任が増え続けそしてそれは時にやりがいだったりもします。ですが常に苦しいが隠れていて、、正直しんどいんでえすよね、、、まああと十年も働けば引退も見えてきますしそれでもいいような・・・・。

来世あるかもよ

今世はマリオでそれなりに頑張っても、、もしもこの自分という存在の嘘に見抜けないと、、来世もしっかりやっちゃうかもしれないんです。この観念は残りますから、どこかに。だからここでこの嘘を見破っちゃっていいんです。マリオのことを自分と信じてきましたが本当のあなたはマリオじゃないんです。スーパーマリオ本体なんです。本体がマリオを通じてゲームを楽しんでいただけなんです。だからマリオがステージを上げ続ければ何かになるなんてことはあり得ないんです。どこまでステージを上げてもマリオはマリオです。ですが自分はマリオだっていう思考こそが憤りという感情を作っていますからそれは絶対に消えないわけです。だからステージを上げ続けても意味がないんです。

進むな!!!!

なるほど!!!言っている内容は分かりました、、、で????私(マリオ)はこれからどうすればいいんですか?????どうにかしちゃダメなんです、、動いたら今までと同じになっちゃうんです。マリオ真祖を暴くの巻に入っちゃうんです。違います違います、、マリオが暴くんじゃなくて、、、スーパーマリオ本体がどうやっていままで起動していたかを暴くんです、マリオじゃなく本当の私(本体)が。

いきなり????

いままでマリオを私と信じていたのは私(本当)ですから、、、私(本当)として、、、このゲームのカラクリを納得できればそれで終わりなんです。私(本当)がマリオになり切っていたんですからマリオじゃないのならば、、ではクッパ、ノコノコ、ゲーム全体、時間、空間がなぜ起こっていたかを理解しないとマリオじゃないっていう腹落ちが起きないんです。その腹落ちが起きた時、、、もうマリオを自分だと勘違いすることはなくなります。

自分らしくあるのになぜ努力が必要なのか????

普通に考えれば

自分以外の者になるのは当然努力が必要でしょう、、例えば役者が、、役に成り切るには努力が必要なのは理解できます。ですがなぜ自分が自分になるのに努力が必要なのでしょうか????我々はこの社会に適合しなければ生きていけないと信じています。信じていますからその観念がこの夢に投影されてそのように映ります。ですが実際には何か別の者になる方がエネルギーが必要なのは明白なのでそれは疲れるわけです。役を演じるといことを学習できたのですから次は役を演じないで生きるというプロセスに入ってもいいかもしれません。

ここからは努力はいらない

自我を形成するとは「この体この思考この感情が自分である」を信じそう活動することです。偽りの自己を完全の演じるわけです。これは努力が必要なのです、だってこれは偽りですから。その偽りの姿で、、さらに何者かになろうとするわけです、、政治家、役者、医師、パイロット、スポーツ選手などなど、、、これは非常に疲れますよね。演技にさらに演技を重ねていくわけですから。ですがこれをやることでこの体を守るという仕事をしてきたわけです。この先はではどうするか???まず大前提の「この体この思考この感情が自分である」は概念であって真実ではないことを悟ります。便宜上そう信じて生きてきただけだということ、そうなるとその偽りの自分が次にやる役割は全部偽りです。だから疲れていたことを認めるのです。すると得体の知れない憤り、疲れが吹き飛びます。

分かったところでどうなるの????

この質問が分かっていないのです、、この質問が出る時点で分かっていないのが分かります。そのことが腹の底から理解できますと、、至福歓喜平和が押し寄せてくるんです、、本当の自分が本当の自分でいればいいんですから!!そこに努力はいらないんです、、努力しなくていい状態に帰るんですからこんな安堵感はないんです。もう何かになろうと努力しなくていいんです。やるべきことがあるとすれば本当の自分が誰かを思い出すことだけです。

それでもこの体は残りますよね????

この体が自分じゃないって言われてもこの体は残りますよね?????しっかりと今もこの体はここにありますよ!!!!そうです確実にあります、、今それを認識してますよね?????その認識した存在こそが私です。この体という名前の何かを認識する存在が本当の私です。もうこれからは「この体が私だ」と思わなくていんです。この体を認識するのが私です。この体を通じて認識する全てに気づくのが私です。この体は認識できる現象でしかなくその現象を作り出したのが私です。そして目の前にそびえ立つ木々を作り出したのも私です。私しか居ないんです、、私しか居ないのならば、、、私という概念も最後は消え去ります。

未成年、成年、超成年

子供、大人、超大人

子供の宿題は自我を形成することです、そして大人の宿題は自我を維持することです、そして超大人の宿題は自我を俯瞰することです。子供は「この体この思考この感情が自分である」を認識するのが仕事です。これによってこの体を思考を駆使して敵から守れるようになります。大人は自我を駆使して自身を守るだけではなく子供を産み育て世代交代を図っていきます。超大人は『「この体この思考この感情は自分である」はこの体を守るために便宜上覚えた概念であって本当は違う』ことを思い出します。

これによって

超大人はこの人間社会の中で上手く順応することによってこの体を守りながらも「この体この思考この感情が自分」という自我の概念によって苦しむこともなくなります。大人は「この体この思考この感情が自分」という概念を真実であるかのように盲信することで「嘘からくる憤り」を感じながら生きています、しかもそれすら気づかずに。ですが超大人は心の奥にある苦しみに気づきそれを解消するのは「自我」そのものが真実ではなく概念に過ぎないことに気づくのです。

超大人は

超大人は、、、「自分がこの体この思考この感情」ではないことに気づいたので、、、ではいったいこの私は誰だ???という疑問を持ちます。その結果、、、見えている世界全部、この現象を生み出す存在全部、そしてそれによって生まれる経験の全部こそが自分だという結論に至ります。その時に成し遂げなければならない目標もないし、やってはいけないこともない、、、本当の自由を手に入れるのです。

至福に戻さない巧妙な仕掛け

観念通りの現実

この映画の凄いところは偽りの自己(この体この思考この感情が自分)があらゆる経験を積んで(錯覚だが)集めた価値観がそのままこの映画に反映され上映されるということです。これでは偽りの自己は自身が偽りで思うわけがなく『やっぱり!!!』とこの映画にこの主人公としてのめり込むkとになります。この世界ではこの私はしっかりと勉強しないと食べていけないよね!!!という価値観を持つと、、本当にそのように見える世界になるのです。これぞこの経験を積んでいる自分自身(偽り)の絶対的存在根拠になります。

今回のクッパはどうやらそうとう手強いぞ!!!

マリオをやっていて、、、どうも今回のクッパは見た目が強そうだぞ!!!という思考が湧いてきた時に、、その思考が反映され実際に強く感じた場合どうなるか????マリオはクッパの存在、マリオ自身の存在を疑うだろうか???ということです。これじゃ絶対にマリオが実は居ないなんて信じないのです。要は一旦マリオの存在を信じた時に、、周りの環境がマリオの観念によって都合よく変化するわけですから、、バレにくいわけです。

至福を感じてしまう瞬間

絶体絶命のピンチ、、いきなり大出血、大転倒、、、マリオ絶対絶命の危機、、、、こんな時があったとしましょう。。。。マリオが何も考える隙がなく、、全意識が問題解決に向かった時、、、どういうことだ???異常に気分が良い、、心が穏やかだ、、、こんな経験久しくしてないぞ!!!が起きます。その時ふと思うんです。。。なんで?????自分のこと考えている余裕がない時に、、なぜ????こんな楽なんだ????自分のことを一生懸命考えている時の方が苦しいって変じゃね?????です。

本当は誰もいないってマジかも????

そんな時に見かけ上の覚者が言っていた話がチラつくんです「本当は誰もいない」です。居るって思ってるから苦しんじゃね????間違ったことを信じてるから苦しいじゃね????自分が絶体絶命の時に至福をチラ見するってなんか凄い意味がある気がする、、、、、大正解!!!!!自分が居るって思えないぐらいにヤバイ時に至福になるって要は本当は居ないのが正解なんじゃねーの?????大正解!!!!!我々の本質は至福でしかないんです、、、自分が居るって思えないぐらいな状況の時、、、、本当の自分が偽りの自分に構っていられなくなり本当の自分に再発見したんです。

自作自演

このドラマは、、

このドラマは完全無欠の中で繰り広げられるわけですから不幸になるには間違いなく自分の力でなるしかないんです。本当の主人公は完全無欠至福歓喜平和ですし実はその中(本当の主人公)でしかこのドラマは上映できないんです。ですから気を抜けば至福に逆戻りです。つまり偽りの自己を維持することでしか苦しみを感じることはできないのです。だから偽りの自己がやるべきことは「偽りの自己」を維持するこれだけです。

気を抜いたら至福に戻ってしまう

今映画を上映している映画館は「至福平和歓喜」しかない場所です、、この中で至福平和歓喜以外になることは絶対に絶対にできません。もしもこの中で苦痛をかんじることが可能だとすれば上映中の映画の中だけなのです。映画というフィクションの中だけは苦痛を感じることができます。そのために重要なこと「この体この思考この感情のみが自分」という役に入り込むことです、ここを頑張ってもらわないと苦痛を感じることはできません。

偽りの自己が嘘なのは明白

完全無欠の存在(映画館)において上映中以外は平和歓喜至福しかありません。映画の中に入り込むためには「自身はこの体この思考この感情である」という思考が湧き続けるしかないのです、、、これが湧かない時は平和至福歓喜に戻ってしまいます、つまり上映外に。上映内、映画の中に留まるためにはどうするか?????「この体この思考この感情が自分」というデフォルトを一切崩すことなくこの映画の中で彷徨い続けてもらうしかないのです。何があってもこのデフォルトを崩したら終わりです。逆に言えばこの初期設定をしっかりと維持してもらえれば何をしようと何を達成しようとどんな裕福な生活をしてもらおうと全然問題は起きないのです。

偽りの自分に気づく????

ただしここで問題が起こります、、見かけ上の全ての豊かさを手に入れても至福歓喜平和に至れない「偽りの自分」は、、、この延長線上には至福がないことに気づいてしまいます。だって今までの努力が全くもって結果を出していないからです。ではここから「偽りの自分」をどうやって維持するのか????そこで役に立つのがスピの世界なんです、霊的向上、霊的進化です。しかしそこまでくると半信半疑、いやーこれって今までと同じだろ???です。

この辺りから

この辺りから、、、、自分って存在をやっている限りは無理では???という疑問が起き始めます。どうやら悟りってジャンルに入り込まないと難しいんじゃん????となっていきます。観念がそうなりますからそれらの情報が徐々に入ってくるのです。最初の内は玉石混交、、、な情報ばかりですが徐々に真実に近づく内容が集まり始め、、、最終的にこの偽りの自分が壊れ始めるのです。

傷つかないから分かる

偽りの自分が居なくなると

偽りの自分が居なくなると、、、分かるんです、、いつ分かるのか????何を言われても傷つけないんです。。。。なぜか????言われているはずの本人(偽りの自分)が存在しないからです。何を言われてもプライドが傷つかない、、、そこに私は居ません。。。ということ。これは言われてみないと分からないんです。そして悪口を言われてもワクワクしちゃうんです、楽しくなっちゃうんです、、、なぜか???誰もいないこの体に向かってパンチを繰り広げてくる相手が面白いんです、滑稽なんです。

褒められても面白い

褒められても、、嬉しいが起きないんです。多くの方が褒めることってピントがずれているんです。偽りの自分ありきの褒め方をしてくるんです。だから全くピントがズレた褒め方をするんです。でも実際に起きた行動は偽りの自分がないことによる行動ですからどうしてもズレるわけです。偽りの自分が居なくなるとそのままで楽しいんです、だから行動する、、結果褒められる、、、という順番になります。

偽りの自分は

偽りの自分ありきの状態ですと、、、幸福になるために何かをするんです、、目的があるんです確実に。そしてその行動の結果幸福を見かけ上手に入れますと周囲から褒められます。そして幸福を手に入れれないと行動を非難されるんです。ところが偽りの自分が消えますと、、至福だから行動したくなるんです。最初から至福なんです、だから何をやっても褒められるんです結果が既に出ているからです。

既に至福だから

偽りの自分が居なくなりますと、既に至福なんです。だから何を言われても傷つきようがないんです、、むしろ面白いわけです。ピントがズレているから。ボクシングの世界チャンピョンが街の不良に絡まれるようなものです、、面白いんです負けるわけがないから。悟りを開いて絡まれると面白いんです。、だって奪われるものが何もないからです。

自由意志の大大プレッシャー

自由意志はいつもプレッシャー

自由意志があるという大前提で生きていますと、、負けても買っても失敗しても成功しても常に常にプレッシャーが偽りの自身にかかってきます。というよりも負の感情が湧き上がります。憤りが起きます。本当は自由意志がないにも関わらずこれをあると信じることで、、体から反応が起こりストレスとして生じるのです。周囲は自由意志大前提で生きていますから、、いつの間にかその流れに流されているのです。

幸福も不幸もプレッシャー

自由意志において幸福を得ても不幸を得ても苦しみです、なぜならばその幸福は一瞬のものであり、、それを維持するためにはさらなる自由意志が必要になるのです。さらにこの苦しみの根源は「この体この思考が自分」という思考が生み出したものですから解決しようがないのです。自由意志を信じてしまった時点で我々人間は苦しみからは解放されないようになっているのです。

いつやるの???いまでしょ!!!

そんな難しいこと言わないでくださいよ!!!まーもしかしたらそうかもしれないけど、、、そういう内容は来るべき時が来たらいずれ分かるでしょ!!!!違うんです、、それこそが自我の延命作用なんです、、自我が発見されるのを先延ばしにしているんです。つまりこの真実に気づき始めたら、、悟っちゃった方が良いんです!!!ところがそれも自由意志ではなく勝手に起こることですからこの表現は矛盾しています。

自由意思がないことが分かるとドミノが崩れる

人間ドラマの最重要ポイント

面白い映画、ワクワクする映画って必ず仲間の裏切りがあり、悪者だと思っていたのが実は良い奴で、、、最終的には信頼していた組織からも裏切られ、、と次から次へと人の自由意志に翻弄されるのです。自由意思という設定なしに面白い映画って絶対に絶対にできないです。要は人間ドラマの最重要ポイントが自由意思なのです。だからだから悟りの最重要ポイントは「自由意志」ということになります。

「自由意志」がないが起こすドラマ崩壊

職場でのトラブル、恋人とのトラブル、家族とのトラブル、、、、、このトラブルを成り立たせているのが間違いなく「自由意思」です。あいつがこんなことを、あのタイミングこんなことを、、あんな言葉を浴びせやがって、、、、この感情の全てにおいて「自由意思」が100%あるが大前提ですよね!!!!!そうなんですこれがなかったら感情が湧きようがないんです!!!!自由意思がないとなったら、、、ただ受け入れるか拒否するかのみ、、責めるべき相手が居なくなっちゃうんです。

石が頭に当たり「怒り心頭」

公園を歩いていたら中学生が楽しくボールでサッカーをしています、ただかなりゲームに熱中していて周囲が見えていない。。気にせずに読書をしていたら案の定ボールが私の頭に直撃!!!!「何してんだ!!!」と振り向いてみたら3歳の子供が投げたボールだった、、、、その瞬間に怒りが消え去ります。。。相手が中学生ならば怒り浸透、、3歳の子供は怒りなし、、、この違いはなんでしょうか?????自由意思です。自由意志があると思っているから怒りが込み上がるのです。

自由意志があると思うから人を判断の対象にする

あの人はこういう人間だ

「この体この思考この感情が自分」説を信じていますと、、当然人のこともこのように見ます、すると相手から出てくる発言を自由意思から来るものと捉えるのです。その結果「発言の内容=その人のレベル」と判断します。ですが実際にはその発言はその人を通じて勝手にでたもの、湧いたものであってその人の自由意志ではないのです。私の観念がこの夢で投影し見かけ上のその人からそれが出たのです。

湧き上がる思考、感情

例えばこういうことです、幼少期に両親が子供に自我を芽生えさせるよう働くのは、、勝手に起きたものです。幼稚園、小学校、中学校の周囲の反応は全部勝手に起きたものです、、彼らの自由意志など全く働いていないのです。就職するしないも勝手に起きたもの、そこに自由意志は働きません。結婚もそう子育てもそう、、そこには一切の自由意志は存在しないのです。この現象において人を判断するということに意味はあるのでしょうか???全くないのです。

自由意志がないとハッキリ分かると

本当に面白いことに自由意志がないとハッキリ理解できますと、、自身を責めるという自責の念が消え去ります。するとその瞬間に平和が訪れます、、、その瞬間に安堵が訪れます、、その瞬間に歓喜が訪れるのです。そしてもう他人のことも責めなくていい、、、という安堵、平和、歓喜も同時に訪れるのです。「この体この思考この感情が自分」という洗脳が落ちることで、、本来の感覚が戻ってきます。