覚者とは映画のバラシ監督

映画の途中で「バラシます」と言っている人

映画業界では「バラシ」と言って完成した撮影用セットを解体する時に使う言葉があります。撮影が終わったら当然この撮影セットは必要なくなりますからこれを解体する必要があるからです。バラシ、、、撮影中の役者さんからすれば完全に役に入りきりその舞台で演技に興じていれば、、いきなり舞台がバラされてしまうと変な気分になるはずです。この「自分」という存在が舞台がバラされていくことで同時に無くなっていきます。この自分は舞台、セットあってこその話、、、セットが解体されていくのに役に没頭したままというのは先ず不可能でしょう。覚者と呼ばれる人々はこのバラシ監督です。本当は名前なんてないんですよ、全部後付けで名前を決めてみんなで覚えてさもそれが実在しているかのようにみんなで共通認識しているだけなんです、、こんな言葉でバラシを行います。当然その中の映画に出演中の人々は何を言っているんだ?という話です。なぜならば見えている世界に本当は名前もなく何もないならばこの「私」も居なくなることになってしまうからです。

この現象界のバラシは簡単

この現象界のバラシは簡単です、、、名前が後付けで人間は名前を暗記するとそれがさも実在するように見る力があるということを説明するだけです。人間の特殊能力、現象に名前を付けさらにそれを記憶することができる。この特殊能力ゆえに人間はこの現象界にあらゆる物体、人物が居るかのように思えるのです。覚者はこれを解説していくバラシ監督です。最終的には役に飲めりこんでいる人間に「ということであなたも居ない」と言い放ちます。セットが実は作り物であるように、、あなたも役になり切っているだけですと。これで解散となります。私主人公の映画が。

「バラシ」が終わって深刻さが抜けたら映画と分かった上での人生がある

この映画、自分主人公映画は「バラシ」が終わって何にもなくなった後に再び映画と分かった上で映画を組み立てるということができます。全部分かった、確かにこれは映画で本当はセットも他の役者もいなく、自分もいない、、、それは分かったからまたこの映画を楽しみたい、、、ということです。そうなるともうこの劇中で深刻になることも落ち込むことも驚くこともできない、、、ですが今度は役を演じているという大自覚の元何かしらをやりたいという衝動が生まれてきます。映画だと分かっているからこその衝動があります。

皆は分離の世界を生き、私は非二元を生きる

ただし非二元を生きる「今までの私」はいない

街を歩けば多くの人が「自分」が先ずそこに確実に居てその自分がこの分離の世界を確実に生きています。自分という体、思考、感情の寄せ集めである存在を生きながら他の人々の中で生きています。全員がこの「自分」に確信を持ち、名前がついた分離した物、人の存在にも確信を持ちながら生きています。これが幻想の中に住んでいると言われる所以です。ですが本当はこの自分も、、あの人も、この人も全て勘違い存在物であって実は何もにというのが真実です。真実とは何もない、、これだけです。何かが起きて、誰それがいて、、、全部後付けの空想劇です。私も他人にも実は境界線は皆無で境界線があると信じ込む後付けの存在達がいるだけです。実は何も起きていないのです、今目の前に広がる世界には実は何も起きていないのです、信じられない話です。自分にもその他にも名前を付け合って何かが起きているということにしているだけです。

非二元のみ

非二元のみがあるだけです、これがあるだけです。そこに名前が後付けで付けられ何かがあるように何かが起こったかのように表現する後付けの「私」がいるだけです。我々が見ているこの世界は名前が付けられた世界だというだけであり名前がついているから何かが起こっているように感じることができているだけです。このあり得ない解釈、解釈も後付けですが、、、この真実に気づいた人は唖然とします。この真実に気づいた人はこれを他の人に伝えたいと思うかも知れませんが思わない可能性も高いです。なぜならば伝えたいその人は後付けだからです。つまり誰もいないということが分かってしまうからです。

ピカソの絵をパズルのようにバラバラにしてみたらそれが動いているように見えた

もしもピカソの絵が流動的な物体であったとしてその各部分に名前を付けてみたとしましょう。そうすると毎秒、毎分ごとにそれが動く、、、元々何も存在せずただ動く絵があっただけだったのがその中の名称がついた物たちが毎秒ごとに動くように見えるようになります。そしてその動きの中でトラブルや衝突が起こることもあれば吸収や合体が起こることもあるでしょう。これらのドラマは名前が付いたから起きたのです、名前を付けなければドラマなど起きようがないのです。あるのが絵の中の動きだけです。これに気づくことを「悟り」と呼びます。悟りとはなんてことはない、、人間の活動の根源を明かしただけです。

ノンデュアリティーには何も起きない

何かが起きるためには名前が必要

この世界では実は何も起こっていません、、、何かが起きるには名前というのが必要になりますが名前とは人間が後付けで決めたことでありそれがもしも無かったら何も起きようがないのです。そうですこの非二元の世界には何も起きていないのです。何も起きていない世界に何かが起きたということにしたのが人間です、あらゆる生命現象に名前をつけていくことで何かが起きたということにしたのです。

誰もいない

本当はこの世界には誰もいません、生命現象の一部に名前をつけて人間と称し、さらにその人間に個別の名前をつけました。これにより誰それなにがしがこの世に誕生したのです、、、本当は何も誰もいなかったのです。か覚者はこれに気づいてしまった人達です。誰も何もない世界が本来であり全部は後付けで名前をつけてそのような出来事、自分が居るということに無理くりしているのです。そしてあらゆることに名前を付けまくることで宇宙の生命現象を分断化し分裂かし、支離滅裂化し、、、居心地の悪い世界を作り上げたのです。全部は無理くりの話です。

誰も何もないならば何が問題なのか?

世の中に問題がるなんていうのは、、人間が勝手にあらゆる物、ことに名前を付けてそういう問題というものが起こったとしているだけです、本当は常に何も起きていません。何かが起こるには名前が必要ですがその名前は全部後付けですからその出来ごとに意味などあるわけがないのです。意味があるためには名前が必要になるのです、どうしても。ということでこの私のブログにも意味など何もないということになります。これが本当の事実です。

色即是空、空即是色

先ずは空の理解が起きる

先ずは空の理解が起きます。普通に生きている我々は空の存在など、本当の自分の存在など全く興味なく生きています。目にする全てが新しく、目にする全てが輝いている、、この色の世界でただできる限り楽しく生きることだけを考えて生きていくようになります。ですが途中でどうも雲行きが怪しい、、どうも苦しいことが多い、、、こんな人生を今後も生きていき何か意味があるのだろうか?そのような疑問を持ち始める人が現れます。そしてその人はいつの日か実はこの世は幻想で(色)本当は空が本物であるという悟りに入るのです。

次に色の世界の再確認

この世は実は空の現れに過ぎない、、この気づきを得た人は、、実は私の存在すらも幻想で私が居るように感じているだけだという悟りを開きます。実は私も私以外もあった一つのエネルギーでできていて、ただ在るだけ。この気づきが起きます。ですがたった一つのエネルギーの様々な表現があるだけという世界は虚無でもあるわけです。ではこの私と感じるこの体、思考、感情は一体これから何をするのか?という話です。

空からの衝動

そこは心配はご無用です、私の本質を本当に理解し始めますと、、元私のもとに全体、本当の私からの衝動が起こるようになってきます。興味は湧くテーマが次々に湧いてきます、そしてそれをやるための恐怖心というのが全く湧いてこないのです。ただやりたいだけ、だからやろうが延々と続きます。自己超越状態の行動だけが続くのです。そこには駆け引きも腹のさぐり合いも無い、、ただ本当の自分からの衝動だけがあります。そしてそれを実行に移すとき、色の世界のこれまでの知識が非常に役に立つ、まるで王に使える最強の戦士のように思考がフル回転するのです。

先ずは空を知る、次に色の素晴らしさに目覚める

空を知って驚き、色の素晴らしさを再認識する

人はこの世の真実を知ったときに驚きます、実はこの世は空の現れで見える世界は空が色として現れているだけ。本質は空である、、だから実は何もないということを知ります。この衝撃は凄まじくこれまで超現実と思っていたこの視界が実は空の現れであるということです。何もない、、、ただそれを在るように見えているだけ。ということになります。

実は何もない、、、からの

究極を言ってしまえばこの世は無です。何一つ実態のないものの現れです、ですから我々のこの経験も体も思考も感情も何もかもが実態のないものから生まれてきているのです。この事実を知ることは虚無感の創出につながります。ですがよく考えてみれば実態のない世界に我々はいるにも関わらずとんでもない喜怒哀楽のドラマが日々繰り広げられているのは事実でありこれは虚無とは全く違います。

改めて色の織りなす世界の脅威に驚く

この世界は空から創出さているとしてこの色はその創造物ということになります。この色の創造物は凄まじくとんでもなくリアリティーがあります。実際には何一つ分離しているものはないのですがこの色の世界では各々が自由に動き回るのでそう見えます、完全に分離しているようにハッキリと見えます。だからこそこの分離世界を堪能できるわけです、ですがこの分離世界に分離体としてどっぷり浸かっていますと中々疲れるということになります。なぜならば全く分離していないにも関わらず分離しているという大いなる勘違いをしながら生きるからです。この居心地の悪さは無我を知れば知るほどに無視できなくなるのです。だから人はどこかのタイミングで色の幻想に興味を失い本質を知ることに興味が湧きます。色の世界での分離体験では本当の至福、歓喜、安堵にはたどり着かないことを知っているからです。

無我を知れば知るほどに、、、自我に興味が無くなる

実はこの世界ではどこからでも無我に入れます、無我とは歓喜、平和そのものでありこの状態を知りますと人間関係、社会関係など色の世界に対する興味が失せていきます。なぜならばその世界の中を放浪しても本当の平和が存在しないことを知っているからです。ですがそうなってしまうとなぜこの色の世界があるのか?そもそも平和が無いならば色の存在理由は何なのか?ということになるのです。実はこの色の世界は空を知ることで逆に面白くなります、本当の自分として再びこの色の世界を遊び倒すことができるようになります。本当の自分がやりたいこと、情熱を傾けれることにこの体が使われるという主従関係の逆転が生まれるのです。

なぜ人間を信用できないか?

これは簡単、自分自身が損得で生きているから

人間関係の面白いところは、自分自身が損得勘定で生きているから、、相手も損得勘定であることは間違いがない、、だから相手を信用できない、、という理論です。自我とは思考のことでありゆえに思考に乗っ取られています。この思考の本質は自我を守ることですから損得勘定で当たり前なのです。どんなに素晴らしい人柄に見える人も思考を自分であると勘違いしている時点でどこまで行っても損得勘定なのです。自分=体+思考+感情ですから損得勘定以上の関係など作れないということです。

友人も損得勘定

残念ながら友人という存在ももちろん思考を自分自身と思っていますからどこまで行っても損得感情です。親友だろうと幼馴染みであろうとこれは何も変わらないのです。損得勘定がデフォルトです。別にこれは悪意があるということではなく思考にはそれしかできないというだけの話です。思考を自分であると思っておいて思考を人間関係に使わないわけがなく自分の原材料が思考ですから当たり前の話です。

人間関係を通じて無我にはいる

人とコミュニケーションをとっているときに相手の言動に集中していきますとそこから無心、無思考、無我に入って行くことができます。「自分」のことを一切考えなくなることでそのまま「無我」が相手の話を聞いている状態に持っていけるのです。このときコミュニケーションを通じた平和、歓喜、安堵が始まります。コミュニケーションを通じて自我が抜け落ちますからそこには損得が無くなるのです。本当のコミュニケーション神と神のコミュニケーションが始まります。

「幸せ、嬉しい、楽しい」の真実

実は「自分」がいないときに湧いている

幸福、嬉しい、楽しい、、、この感情を自分が味わっているとき自分は気分が良くなります。それで自分はまたこの感情を味わいたいと切に願います。ギャンブル、恋愛、お酒、タバコ、仕事、、、、このパターンを覚えた自分は何度もこれを繰り返していきます。ですが皮肉なことに、、、、実は、、、「自分」が居ないときにこの感情が湧いているのです、というよりもこれは感情ではなく「無我」です。亭主元気で留守がいい、、、これです!!亭主は家に帰ったときに家族が幸福そうな姿を見て俺が帰ってきたからみんな幸福なんだと勘違いします、、、、本当は亭主が家にいなかったから幸福だったのです笑、、、なんという皮肉、、、逆、ブラックジョークです。これは人間も同じ、、、体、思考、感情を「自分」とする感覚が抜け落ちたとき、つまり自分が居なくなる時幸福が湧いているのです、、、、そして自分は勘違いします。。ただ麻雀、ギャンブル、お酒、恋愛が楽しかったのだと、、自分が楽しめたと勘違いするのです。実は自分が居なかっただけです。

自分が家族を幸福にしている、、、

亭主の帰りを心待ちにしている家族は実はなく、、、いない状態が平和で歓喜で安堵だっただけ。そこに帰った亭主はうちはみんな幸福そうで素晴らしい、、と大きなる勘違いをします。。。。。そして次の日はしっかりと会社に行くことで再び家族に平和が訪れます。。この勘違いを「自分」がやっているのです。自分とは本当に可愛らしいモノです、、、なんと抽象度が低い存在なのか。。。

自分を無くしてしまう

自分がいないときに平和、歓喜、安堵が押し寄せてくる、、、これがわかった以上、、答えは簡単、、、、もう全部を自分にするのを辞める、、、これだけです。。。。思考が湧いてもただ湧いただけ、、感情が湧いてもただ湧いただけ、、、肉体に異常が起きてもただ起きただけ、、、自分ごとにしない、、、自分と同一化しない、、、これで自分はこの世から居なくなります。名前を呼ばれてもただこの肉体(思考、感情)が呼ばれただけ。。。それは自分ではない、、、、常時これです。この世界に「自分」はいない、、無我しかない、、、

「怖い」の真実

怖いは、、、自分が原因

よくよく考えてみればこの宇宙の動きは完全完璧であり何も怖いことは起きようがない、、、ただ自然現象、宇宙現象が移りゆくだけです。人間というこの浅知恵の動物の何億倍完璧なゆらぎの中で我々人間は生きています。ですが人間はその完璧なゆらぎの中で「怖い」を抱えながら生きています。これほど怯えた野生動物はいるでしょうか???将来不安、将来不安、老後不安、日本の行末、、、、病気でしかない

そうです、完璧なる神経症

人間という動物に完全同一化しますと「怖い」を抱えた神経症が完成します。人間という動物をただ動物だと俯瞰できると神経症は治ります。ただそれだけです。5歳児、6歳児の子供は学校から家に帰ると僕は僕は。。今日こうだった、ああだったを連発します、、、これは自分の存在を認めて欲しいからです。これは自然な流れです。ですが大人になると自然に気づきが起こります、、、この自分自分の自分は一体何だ?ただこの体、思考、感情を自分だと定義しているだけでその定義がなければ一体誰だ?ということです。

神経症脱却はこれだけ、、、自分を辞めるだけ

この体、思考、感情をひっくるめて「自分」とすると神経症に襲われます。怖い怖いが押し寄せてきます、波のように押し寄せてきます。この体、思考、感情を自分としないと決めると、、、怖い怖いが押し寄せてきません、、何のこっちゃです。映画の中に主人公になりきってミッションインポッシブルを見てみてください、、怖くて観れたモノじゃない、、、、心臓が破れそうなぐらいの衝撃を受けるはずです。。。。ですがあれは映画だから楽しめている、、、、

「自分ではない」として生きていけるのか?

逆にしっかりと生きていけます、常に冷静に冷静にこれまでの「自分」を観察できます。負の感情が襲ってこないので飄々と生きていけます。何をしていても負の感情に襲われることがなくなります。怖い、不安、危ない、危険が襲ってこない、、、常に平和、歓喜、安堵の中で動くことができます。なぜならば怖い、危険、不安は体、思考、感情との同一化が生み出してきたからです。マリオゲームをやるときにキャラに成り切ってやるか、プレイヤーとして冷静にやるかの違いです。

新しい感覚の習慣化

思考と感情を自分だとしない習慣

今時代は新しい認識、気づきの段階にシフトを始めています。天動説が地動説に切り替わったような大きな時代の転換点を迎えています。それは「この体、思考、感情」が自分ではなかったという気づきです。エゴ、自我全盛時代の終焉です。この体、感情、思考を自分とする時代が随分と続きました、、、何万年も、、、これは人類の進化のプロセスです、決して間違っているとかの話ではありません。全く問題なくこのプロセスが進んできました。そしてついに「この体、思考、感情」は自分ではない、、宇宙生命現象の一つであるという気づきの世界に今扉が開こうとしています。

「自分がいないんだとしたら」どうやって生きていくのか?

どうやっても生きていけます。これまではただ体、湧いてくる思考、湧いてくる感情を自分として同一化してきました、、、これからは思考が湧いてきても、感情が湧いてきても、、それを自分だとしないだけ、、、ただ観察するだけです。主人公になり切らないと映画は進まないのか???そんなことはない、という話です。主人公になりきらない映画の始まりです。

思考、感情が湧いてきても、、、ただ受け入れる

思考が湧いてきたら同一化、感情が湧いてきたら同一化、、、これをただひたすらに人間はやってきました。。。そしてこのパターン、システムは延々と負の感情、居心地の悪さ、欠乏感を湧き続けさせます。同一化こそがそれを作り出します、なんというジョーク。これからはそれをしません、思考が湧いても感情が湧いてもただ観察するだけ、、、思考が湧いたら湧いたときづき、感情が湧いたら湧いたと気づく、、、この新しい習慣の獲得が全てです。この感覚が身につくと、、、常に平和、歓喜、安堵が押し寄せてきます、、大海が押し寄せるように、今までの自分という小波を飲み込みます。

思考との同一化から脱却した意識

気が抜けたような感覚

「思考こそが私」これが99.999999パーセントの人々の認識の仕方です。ですから会議の場所で何も発言をしていないと心配になります。飲み会で発言は少ないと心配になります。ボールに一切触れていないサッカー選手のような気持ちになります。だからこそなんとか思考し発言したい、、私はここに居るよと。ですが「この思考は自分ではない」この気づきを得た意識はもう思考との同一化に興味がありません、なぜならばそれは苦しい世界への入り口だからです。何も正解がない世界、話せば話すほど、思考すれば思考するほどに苦しくんる世界です。そんな人生御免被りたいという話です。

思考を使えとひたすらに沸き続ける

思考との同一化をしている意識にとって思考ほど当てにならない存在はありません、なぜならば常に不安定極まりないからです。毎日瞬間瞬間全く違う思考が湧いてくるわけでこれを自分とする不安定さたるや半端ないという話です。感情も然りです、不安定極まりないという話です。不安定であるからこそ思考も感情も泉のように湧き続け同盟関係を維持します。ですがこの同盟関係のしんどいところは湧けば湧くほど「同一化した自分」が肥え太り苦しみも増大するのです。

今日の機嫌はどうですか?

大御所タレントになるとどのスタジオでもこの機嫌というのを周囲は気にします。結局にところ機嫌が良ければ変な発言はしてこない、ですが機嫌が悪ければどんな発言すらしてくる、当然粗探しのような発言を。つまり思考などは感情の処理でしかないのです、どんなに正論をかざしても結局は思考とは感情の処理です。負の感情が湧き続ければ思考もその処理に使われているだけです。自分でも分かっている、機嫌さえ良ければそれでいいのに。。ですがその機嫌をとることが一番難しい、、、、

思考も感情も自分じゃない

残念ながらこの事実を発見しない限り思考と感情の二人三脚に一生を費やすことになります。思考と感情を自分のモノ、自分と定義して生きている限り常時このパターンです。思考と感情は自分ではない、、、この境地をいかに身に付けるか、、思考が湧いても感情が湧いてもそれは「本当の自分」とは全く関係がない、、この感覚をいかに掴めるかにあります。この感覚をしっかりと掴めるように不思議なことに思考も感情も湧いてこなくなります。