何もないところから生まれたこの現象が「実物」であるはずがない

空即是色

この世界は何もないところから生み出された世界です、、空、絶対、THE ONEなど言葉はあらゆる表現をしますが言葉では表現できない「何か」からこの現象界(色の世界)は生み出されています。何でもない世界から生み出されたこの見える世界(色)に現れるあらゆる物が実在であるはずがなく、、よってこの世界は「何か」の幻想、アート、投影です。

観察してください

雲を観察してみてください、、上空にあったはずの雲が10分もすれば無くなっていたりしますよね、、あの雲はどこから現れどこに消えたんでしょうか、、、この世界は常にどこかから何かが現れそして消えていきます。全く何もなかったところから何かが現れそして何かに吸い込まれるように消えていくのです。この体の「影」と同じで最初からそれはありますが、、常に変化し留まることを知りません。時に影は消え去ったと思ったら次の瞬間には現れます。

「儚い」ではない

この事実を自我目線では儚いと感じます、ですが逆に言えば、、この現象の全ては「分離」など出来るわけがないので(影を分離できない)現象全部、影全部は私なのです。私の影に間違いないのです。この現象の全て、影の全てを見て、、、ああ、、、私の本質は「空、絶対、THE ONE」なんだなーという気づきが起きます。その時真の平安、静寂、癒しが起きるのです。(色即是空)

感情じゃない

ゲームをやっている時の感情は全部フェイク(刺激)

TVゲームをやっている時の感情って全部フェイクなんです、、毎日毎日ゲームに夢中になる少年はその中で喜怒哀楽の全てを堪能するかもしれません、、、毎日毎日ゲームをやって「悟った」「解放した」「至福に至った」ってならないんです、、なぜか????それはゲームの主人公に成り切った状態で味わう全ての感情はゲームの主人公になり切った故だからです。これは刺激なんです。

人間をやっている時の感情は全部フェイク(刺激)

この人間ゲームを自分がやっている間に味わう感情の全ては全部フェイクです。卒業式、受験失敗、卒業旅行、友人との親和、、、仲間との絆、恋愛、結婚式、、全部フェイクです、、主人公をやっている間は。なぜ毎日毎日感情を求めるのか????それは主人公は私だと思っている間の感情は全てフェイク、刺激でしかないからです。だから毎日必要なのです、何かしないといけないんです。

自分ってマリオじゃないかも、この体じゃないかも

本当の安らぎ、本当の愛、本当の平安って、、、自分ってマリオじゃないかも、この体じゃないかも、この思考じゃないかも、、、ていう気づきから起きます。要は一生懸命マリオやったりこの体をやっているうちは起きえないのです。「このマリオ、この体、この思考、この感情が自分」っていう思い込み、感覚が苦しみを生み出し、それを一瞬でも忘れるためにあらゆる感情が起きていたんだという気づき、、それが真の安らぎ、真の愛、真の平和を生み出します。

言葉とはゲーム用語

ゲーム用語で本体を語る矛盾

ゲーム用語ってゲーム内でしか成立しないんです、マリオ、クッパ、ジャンプ、Bダッシュ、、全部スーパーマリオゲームの中でしか通用しない言葉なんです。我々のこの言葉とはまさにこのゲーム内幻想内夢内でしか通用しない言葉なんです。だからこの言葉で真理を語ろうってこと自体が無理ゲーなんです。語れば語るほどにゲーム内夢内に入り込んでいくんです。

悟り、解放、解脱

この言葉を使った瞬間に全体はこの言葉を読み込んでイメージ化します、、このイメージの世界がこの夢、ゲーム、幻想を作り出すのです。だから「私を解放しましょう!!!!」という言葉はそのまま全体に読み込まれイメージ化されます、、私が解放されるイメージが誕生します。ここから抜けたいにも関わらず。だから覚者は「黙して語らず」「言葉が指し示す先に悟りがある」「あなたが悟るのではない」と意味不明な言葉を発するのです。言葉はこの世界に誕生した瞬間イメージ化されるのです。

イメージの先にあるもの

言葉が作った世界から抜け出すためには言葉が何をしているかに気づく必要があります。言葉がこの世界に誕生した瞬間に何が起きているかが分かれば今ゲームが上映されていることに気づきます。ゲームが上映されていることが分かればもうゲームの外に居ることになります。ゲームの外に居るのは誰ですか????「私」ではありませんよ、だって「私」はゲーム内のキャラですから。つまり私から脱出できているんです。そこには本当の安らぎ、平和が漂っています。

収縮したエネルギー「私」

ゲームに熱中する時

スーパーマリオを初めてやる時って、、ゲームに集中できないんです。右ボタンを押しても、、マリオが動いているって実感が湧かないんです。実際は動いているんですがそれが何かに気づけないんです。次にジャンプボタンを押します、マリオがジャンプしてますがそれに気づけないんです。だからマリオをやっている実感が湧かないんです。全体がマリオをやっている感が湧かないんです、、しばらくは、、だから集中できない。そして5分もすれば一旦休憩に。しかしながら二回目三回目となるとゲームを立ち上げた瞬間にマリオになり切れるんです、マリオに意識が意識し始めるんです。

私に熱中する

この体に意識が意識するころに慣れてきますと「集中」できるんです、、この体に、、そして「自分」がやってる感が出るんです。これが自我の完成です。マリオに集中できる、この体に集中できる、全く同じです。そしてその時は全部のトラブルを全部の功績を味わえるんです、マリオとして、この体の中の自分として。マリオ最高、自分最高です。だけどどうじにいっつも「苦しい」ことに気づきます。マリオは二時間もすれば休めますが、、この自分は休ませてくれません、、寝てる時以外。

ゲームをしながら自分を辞める

だからこの人生は苦しみが常に伴います、、マリオは二時間、この自分は24時間営業です。結果この苦しみを解消しよう解消しようという動きが起こり、、自分はあらゆる娯楽、何かにしがみ付いていきます。でも本当はわかっているんですマリオを辞めないと、自分を辞めないと、、、この苦しみは終わらないことを。そのことに気づき始めると悟りの本とかを読めるようになります、、自分をやったままではこの苦しみが終わらないことが分かっているからです。

集中するの辞めちゃえば

本当は本当はこの体の中の自分に集中しなくたって実はこのゲームは大丈夫なんです、、なぜか???全自動で動きからです。いままでも全自動で動いていたんです、、本当は。自分という感覚を持ちながら実は自動運転だったんです。そのことが徐々に分かってきます。そうするとどこかで全体が手を離す、コントローラーから手を離す瞬間が起こります。これが解放です。

松本人志のスキャンダルに慄く芸人

そのぐらいいいじゃん

有名人になったんだから、、、これだけTVで活躍してるんだから少しぐらいいいだろ????これが活躍しているタレントの本音でしょう。こんなに頑張って活躍できたんだからちょっとぐらい大目に見てよ、、、です。ですが残念、、周囲の自我は、、、芸能人だからこそ、有名人だからこそ、、、彼らのスキャンダルを待っています。自我とは恐れの塊です、、本当は無いにも関わらずフェイクで存在を誇示しています。ですからいつその事実を見抜かれるか気が気じゃないのです。パチモンのグッチを友人にプレゼントした際に、、いつバレるかを気にしている状態です。ですから自我とは恐れ慄く存在なのです、正式には全体が自我というパチモン劇場を上映しながならも同時にバレることを恐れている感覚です。どちらにしても怖いが常にあるわけです、バレルのが。バレてこの世に生存できなくなるのが。

だから人の失墜に安心しかつ怖がる

だからだから大物芸人の失墜に、、「自分じゃなくて良かった」という安堵感が起こると共に、、「次は自分か????」の恐怖心が襲います。つまり全く救われていないのです。「主人公がついに消滅させられるか????と思っていたら、、違う大物だった、、、」の巻です。大物芸能人のスキャンダルが続けば続くほど自分じゃなくて良かった、、が起こり、、、同時に次は自分か????が起こるのです。ですがここで重要なのは自我がその感情を作り出し、、それに恐れているのではないのです。自我という感覚が、、この世界に恐れを生み出し、、それを全体が気づいているのです。

なんのことはない

なんのことはない、、全体から生まれた自我という感覚が、恐れをこの世界に生み出しそれに全体が気づいています。自我が恐れを感じているんではないんです、自我を生み出した全体が恐れを感じているんです。もちろん全体は全体ゆえに「全体が」という感覚はないんです。どちらにしてもただ「自我の存在」「恐れの感情」が起き続けているのは確かです。

結局のところどうすればいいの????

どうもしなくていいのです、、、松本人志のスキャンダルでなぜ周囲の芸人が慄き、、これを見ている大人が「ホッとしなおかつ恐れるか」の真相に気づけばいいのです。これによって自我があるという「感覚」が薄れ、、それと同時に本当の安堵、平和が訪れます。芸能人のスキャンダルに反応するのは実は自我肥大による病気のようなものです。

思考と感情を無視する

「個人」とは思考感情発生機

個人が何かをやらなくてはならい時「思考感情」が大発生します。なぜか????個人としての何かをするということが既に苦痛を生み出すからです。個人というのは苦痛発生できであり、、だからこそその個人が何かをやらなくてはならいということこそが実はストレスなのです。ですから個人が何かをしなくてはならない時の思考感情は本当の苦しみとは種類が異なるため相手にしなくていいのです。

本当の苦しみは「個人」こそが作る

本当の苦しみは、、個人の活動ではなく、、、、個人という概念、感覚こそが作り出しています。ですからここといつ折り合いを付けるかが重要になります。個人とは何か???私とは誰か????という疑問に向き合うことこそが最重要になります。それをしないで、、活動のストレスを快楽で一時的に解消し続ければ、、本当のストレス解消には絶対に辿り着けないわけです。

便宜上作り出した「自我」を

生きていくために便宜上作り出した「私」というアイデアがまさかの真実であるかのように感覚としてこの体に染まり切り、、なぜ今苦しいかさえ分からずに陥っているのが世の中の「大人」です。無意識の自我の染色、無意識の自我の潜伏をもう一度、、有意識に戻します。自我という存在を意識的に意識するのです。自我を意識的に意識するのは意識「本当の自分」ですから、、ようやくここで「本当の安堵、本当の安らぎ、本当の平和」が訪れるのです。その時人は、、救われます。一筋の光を見るのです。

スーパースターの崩壊

俺がこんなことできるか???

どのスポーツでもスーパースターって存在します、チームのエース、球界のエース、、、ですが案外スーパースターの最後って残念な時があるんです。周囲が異様に気を使わなくてはいけない、、、周囲にスターが怒鳴り散らす、、監督の言うことに文句を言うようになるなど、、、、、これって説明が非常に簡単なんです。「スーパースターって多くの場合はかなりストレスフルなんです」なぜ???????みんなからチヤホヤされてなぜ?????最高でしょう!!!!違うんです、、、全く違うんです。。。。

「偽りの自分」が最最最強モード

結論から述べれば、、、スターとは、、、、、偽りの自分が最最最強モードなんです、、、人気者になればなるほど、、、自我はそれを自分の手柄にするんです、、、、、ですから自我が肥大化します。。。俺は特特特の特別だと。この世界は俺中心に回っているんだと。。。。なぜ手柄にするのか????簡単です、、本当は違うからです。本当は自我など存在しないのです、、、だから手柄をとったのは俺というイメージは最強なんです。自我を維持するには。

いつもイライラ

大御所タレント、大御所芸能人、カリスマ経営者、、、なんかイライラしているイメージないですか???????ありますよね!!!!そうですその通りなんです。彼らの多くは苦しくて苦しくもう耐えられないぐらいに苦しいんです。なぜ????それは自我が強烈にのさばっているんです。この快挙、この功績を得たのは「俺」だと。そして自我=分離感、孤独感、絶望感ですから、、、、イライラが止まらないわけです。功績をまんまと自我に奪われてしまったのです彼らは。

ウイルス感染

言ってみれば、、強烈なウイルスに感染している状態んです。自己増殖し尽くしているんです。一時的に解放されてストレスが減っても、、周囲がスター扱いすることで、、、「自我」というウイルスは途端に自己増殖を始めます。あの人は我が強いよね!!!と表現する時、、我って何????どこにあるの????って話ですが、、、感じますよね!!!強烈な自我をその人から。それはその人がその体の中に強烈な自我を感じているからです。

仕事に行きたくない

行きたくない!!が湧いてきたら

あー仕事に絶対に行きたくない!!!が湧いてくる時ってあります。その時にポジティブシンキング、、ポジティブシンキング、、、はしんどい。。。。ではなぜ仕事に行きたくないか???を冷静に観察してみましょう。先ず「仕事に行きたくない!!」というのは誰の感情なのでしょうか???間違いなく自分の感情ですよね????その主語は「私」です・I FEEL PAIN ABOUT WORKです。つまりこの痛みは私が作り出したのです。ではなぜ私は仕事が嫌いなのでしょうか????それは仕事をするのが「私」だからです。友人が仕事をするなら嫌じゃないんです。私だから嫌なんです。当たり前ですけど。。。じゃあ「私」がこの世界から居なくなれば当然嫌な感情も生まれないということですよね????大正解!!!

究極の解決

この世界に私がいるという錯覚を強く強く感じている人ほど、、「仕事に行きたくない」が湧きます。「私がいる」の感覚が薄ければ薄いほど実はこの感覚は薄くなります。「この体この思考この感情が私」というのは錯覚なんですね。生まれてきてあとから作り出したアイデアなんです。逆に言えばこのアイデアがあるから「働かなきゃ」が起こるんです。ですがこのままだと本当に苦しいんです。そこで真実に戻ることを選んでいきます。

自我が強いだから働く

なぜ人は働きに行くのか????それは自我が大きく作用します「この体この思考この感情は私」が埋め込まれれば、、この体を私が守らなくては???という思考が湧くんです。すると私は仕事をしなきゃ!!!が湧くんです。。だから就職できたんです。と同時に私で居るのは苦しいんです、辛いんです。圧倒的に自分を意識しないといけない仕事は辛いんです。これが自我のジレンマです。

自己超越

自己超越という言葉があります、大変上手い言葉です、自我の終焉、、、これは辛いんです自我にとって。自己超越とは自己自我を俯瞰するもう一つの自分を作りことです、実際には自我自己を俯瞰する意識を持つことです。自我であり続けるのは辛いんです、そこで自我というのは「この体この思考この感情は自分」という概念感覚ですから、、、そのことを意識し続けるのです。つまり意識が自我になりきらない状態を作るのです。仮面ライダーになりきらない子供みたいなものです。すると、、突然、、、安堵感が漂い始めます、、お風呂に入っているような緊張が溶ける感覚が起こるのです。

火事場のクソ力

別にこれは決して無理ゲーの話ではないのです。家事になれば誰でもそれは経験できます、非常事態になれば誰でも簡単にこのゾーンに入っています。自分というものに意識が向かなくなり、、、火事そのものに意識が向くと何故か平和な感覚が訪れ、、家事の対処に集中できるのです。非常事態そのものに意識が完全集中すると平和が訪れるのです。つまり苦しみを起こす「自分」に意識が向かないことで急激にノーストレスが起きます。

意識が意識に意識する

意識が思考に意織する

我々の多くは「意識が思考に意織しています」これが一般的な人間の在り方、、意識が「この体この思考この感情こそが自分」という概念を意織しています。その結果その概念がそのままここでイメージ化されイメージの世界に入り込むのです。と同時に分離感、孤独感、不足感という憤りが発生しそれも意織が意織します。結果その憤りを概念としての「私」が解決する動きが起こり、、思考というプログラムが落ちない状態にはいります。これが苦しみのメカニズムです。

一方

一方このメカニズムに気づきが起きた意識は、、思考に立ち上がりに対し、、思考で解消しようとするのではなく、、この思考が落ちるのを待つという解決策を取ることができるようになります。「この体この思考この感情は自分」という思考感覚が起こす不快感を、、意識として観察するという方法です。その結果思考が立ち上がっても不快感が起きない、、という状態になります。意識が思考の立ち上がりと同時に意識に意識が向くからです。意識が意識に意識が向くと、、安堵、平和、喜びの状態になります。これは感情とは全く違い本質そのものです。

苦しい時こそ

苦しいな、、嫌だなー、しんどいなーーーこの時確実に意識が思考に意織しているはずです。やりたくないバイト、相手をしたくない仕事パートナー、、、その時思考がフル回転してこれを解消しようとしますが、、、回転すればするほどにストレスが増すのを感じてください。そうではなく「苦しい、嫌だ、しんどい」が湧くのは対象に意識が意織していて「意織」では無くなっていることに気づきます。すると、、意織としてただ現象に気づくという新しいスタンスが生まれるのです。

子供に嫌なお使いをお願いすると

子供に「卵買ってきて」これをお願いした時に、、「嫌だー、、嫌だー」と本気で泣き出す子供がいます。これ「嫌なお願い」に対して湧いてくる思考を掴み取り、その思考に思考を重ね、湧いてくるさらなる感情を掴み取りさらに思考するという、、思考感情連鎖を野放しにしているのです。これによって意識が意識に意識できない状態、、つまり安堵から程遠い状態に入っているのです。

悟りのイメージ

あの人は悟ってるよね!!!そのような時人はその人に対して「感情がないフラットな状態」を感じているはずです。それは半分正しい解釈です、実際には意識が感情思考に意識せず、意識が意識に意識している状態を保持しているのです。ですから感情ではなく本質を味わっているのです、ただし味わっている「私」は居ませんが。

女性軽視はなぜ起きるのか?

芸能スキャンダルから考察する

なぜ女性経緯問題は芸能界などから消えないのでしょうか???先ず大前提として、、自身を豊かな存在だと認識できている場合、、人から何かを奪おうという発想は起こりません。海が海の状態にある時、、何かに渇望するということはあり得ないのです。海が海の状態にある時感情というものは基本起きません、そこにあるのは苦しみのない安らぎ、苦しみのない安堵、苦しみのない平安です。これらは感情とはいえず喜怒哀楽には含まれません。この状態にある時に人から何かを奪うという発想は起きにくいのです。

海が波となる

この波を自分であるという認識が生まれた瞬間から苦しみ、分離感、不足感が同時に生まれます。波としてこの負の感情を消し去ろうとする場合「刺激としての喜び、刺激としての楽しさ、刺激としての充実感」を得ることでこれを相殺しようとします。そして結果一時的にそれに成功します。ところが再び我に帰り自身は波であるという感覚が蘇りますと、、再び不足感違和感分離感が起こるのです。そこでまた個人として刺激としての〇〇を求めるわけです。

感情じゃない

何か楽しいことしたい、嬉しいことしたい、、、は全部個人として感情を得ようとする動きです。ですがこれらは全て一過性のものであり、、個人としての分離感を消し去ることができないものです。一方私は波ではない、、波としての感覚を期した時には、、、、感情ではなく、、本質の安らぎ、本質の静けさが漂います。これを味わう、感じる個人は居ません。いかに多くの時間をこの状態で居れるか、、この二つは全くベクトルが異なるものです。

本当は違う

一時的な喜びを得ることが本質からは全くズレていることは、、実は分かっています。ですから女性軽視などをしてそれを行う者は焦っています、、これが付け焼き刃であることをどこかで知っているからです。ですがあまりの苦しさにこれを抑えることが出来ないのです。特に芸能界のように波を自分自身であると自他共に感じやすい仕事の場合は尚更です。苦しさは周囲の予想を遥かに超えるものでしょう。