苦しみを直視すると苦しみが消える

この苦しみは自分という感覚が作っている

最も分かりやすい感覚、、孤独感、、、この感覚はいったいどっから来ているのでしょうか????この感覚はこの世界でたった一人である、、という状況が起こす感情ではないんです。この感情はこの世界にたった一人だという感覚が起こす感情です。感覚は真実ではありません、、感覚とはそう思い込むことで生まれるものです。つまりこの体の中には自分という存在が居るとそう何度も思い込むことでその感覚が生じてくるのです。その感覚こそが、、、苦しみとなり、、孤独感という苦しみが変容した感情になります。この事実を無視して、、いつも誰かと一緒に居よう!を継続しても、、この苦しみが消えたのではなく、、、蓋をしただけですから決して孤独感が消えることはないのです。その証拠にこれは毎日のように襲ってくるでしょう。

全感情は「自分」という感覚が作る

全感情は自分という感覚こそが作っているという事実に向き合いますと、、憤りが大きくなることなくむしろ小さくなっていきます。なぜならば感情を生み出す根本原因を直視するということは、、、問題が作り出される状況を俯瞰することであり、、俯瞰とはまさに本当の自分に戻ることだからです。俯瞰するとは高い位置から「何か」がこの現象を見ることであり、、その何かとはまさに本質の自分のことなのです。

苦しみの出所を直視する

多くの方は今「孤独だ」今「怒っている」今「ムカついている」だから、、、こうこうしようと、、、、インスタントにこれを片付けます。。。ですが本当の本当の苦しみの根源はどこから出ているのか????に関心を持てません。これには自我の巧妙なトリックが働き外に外に関心が行くようになっています。そして外ではなく中では???と気づいた者には、、、人格向上、霊格向上、霊的進化、、、と自我以外に原因があることに誘うのです。ですが本当の本当は「私が居る」というこの感覚です。これが全苦しみの原料になっているのです。

全体が「私」を演じる

渥美清が「寅さん」を演じる

渥美清が寅さんを演じる際に、、、能力の一部が無くなるということはあり得るでしょうか????五感のどれかをな亡くすということはありえるでしょうか???ないです。絶対に。渥美清は全く何も能力を失うことなく寅さんを演じます。ぜは全体がこの「私」を演じる時に、、能力は失うでしょうか???失うわけがありません。ということは、、今の私の能力が全体の能力です。つまり触るという経験、見るという経験、感じるという経験、味わうという経験、、これが全体の全能力です。

私が誕生する前に

私がもしも無人島に生まれていたらこの体と環境の全てを区別するという概念がないんです。この体も私ですし、、環境の全ても私なんです、、、で経験が起きますね、、水に触れば冷たい、、果物を食べれば美味しい、、この経験は全体が作り出しているんです。全体が毎回毎回作り出しているこの感覚を、、「私」が奪ったのです。この体の中に「私」という概念、役が突然生まれ、、この感覚の全てを所有するという概念が生まれたんです。

この体と環境の二人三脚

この体だけでは当たり前ですが、、、ほとんどの経験が起きえないのです、、、川があって、海があって、風があって、、果物があって、、、この環境の全てがこの体と反応を起こすことで経験が生まれるのです。そしてその経験は何によって気づかれているのか????それが全体です。全体がこの反応という経験に気づき、、、その気づきを、、、「私」が気づいているというドラマにすり替えたのです。

全体の全能力を私が所有するというストーリー

思考するのも、感情を生み出すのも、感情を感じるのも、全五感の働きも全部全体の能力です。鳥が鳴く、、、この声に気づくのは全体です。。。この耳では????違います、、全体がその場で聞いているのです。ダイアモンドの輝きに気づくのも目ではなく全体です。全体がその場でその輝きに気づきます。。。その全てを「この私が気づいた」に切り替えているのです。そしてこの私が居るという感覚、この感覚も当然全体が起こした感覚です。

なるべく苦労させないであげたい

苦しみの誤解

苦しみとは何でしょうか????苦しみとは「自分」という存在が居るという大誤解が起こすものです。「自分」が存在するという錯覚がこれを起こします。本当は海にも関わらず「波」だと信じることで苦しみが起きています。にも関わらずなるべくこの子には苦しみを味わないように過ごして欲しい、、、そう信じて育てますと、、、地獄に落ちます。

大誤解にいかに早く気づくか

3億円の宝くじが当たったその日に、、、犬の糞を踏みつけて怒り狂って寝ることが出来ませんでした、、、このような話は聞いたことがないですし起きえないのです。なぜか??????嬉しすぎて怒ることができないのです。つまり人間の感情とはその状況によって起こるものであり、、こうなったらこの子は苦しいはずだ、、、というのは真実ではないんです。自分をどう捉えるか、、これによって苦しみの有無が決まるのです。

自分は海だ!!!が分かれば、、、

自分は海だ!!!が分かるためには、、、普段苦しみを味わっていなければこの気づきにはなかなか辿り着かないでしょう。親が表面上の苦しみを取り除いても苦しみは実は全く無くなることはなく、、孤独な「苦しみとの向き合い方」をしなくてはならなくなるでしょう。ですから苦しむことを恐れるのではなく苦しみとの挑み方を教えることです。

無常を認識できるのは誰だ???

無常には無常は認識できない

今目の前に居る猫は100%幻想です、、あるように見えているだけです、、、つまり蜃気楼です、、、蜃気楼が、、、、何かを見ることは出来るでしょうか????できませんね。そうです「目の前の猫は、、コップを認識できないんです」「目の前の猫はコップを認識しているように見えているのです」幻想が幻想を認識するってありえないんです。釈迦は悟りこの世界は無常と表現しました。無常とは常に移り変わるという意味ですね。ではこの無常を認識しているのは誰か???それは無常ではなく常です。常とは全く変わらない何かです。

全く変わらない「何か」「常」が無常を認識している

この世界が100%幻想、幻影ならば、、この幻想を認識できるのは非幻想です。非幻想とは、、幻、思いではない存在です。それが100パーセント在るんです、、、在るです。「在る」「非幻想」が幻想を唯一認識できるのです。私の本質はですからこの「在る」「常」です。これは100%です。ですから私は一度も何かを失ったこともなければ奪われたこともないのです。

失ったり、奪われることができるのは幻想の「私」

一方幻想の私はしょっちゅう奪われますし、失います、、、見かけ上。だから私は年柄年中悲しくなり、鬱々し、ショックを受けています。ですが私の本質はと言いますと「非無常」「非幻想」「非現象」「常」「在る」「空」ですから、、、、一度も奪われもしないし、失いもしないのです。本質の私とは、、失ったという勘違いの経験、奪われたという勘違いの経験を作り出す源です。

必要とされることは自我にとって重要

なぜ必要とされたいのか???

自我は感覚です、私が居るという思考が感覚化したものです。もしも私が居ると言う言葉が世界に存在しなければ自我という感覚は芽生えていないでしょう。つまり言葉が作り出した感覚、それが自我、エゴです。この感覚は感覚以上のものではない、つまり実在はしないのです。実在しないにも関わらず実在していると信じて生きているので「誰かに必要とされる」と大変有難いのです。必要とされているなーという実感は自我という感覚を強固にしてくれるので安心します。

親として上司として社長として

必要とされたい、、誰かに必要とされない「私」は存在意義がない、、、となります。だからとにかく私を必要としてくれる誰かを探すのです。誰かに必要とされたい人は親になれば、、徹底的に自分の存在を必要とするような教育をします。あなたにはこんなにこれから問題が山積みだから「私」が絶対についているよ、、です。このやり方は上司、社長、友人、親、、あらゆる役割で行われるのです。

必要とされなくなるように

本当の教師とは必要とされなくなるように導く人のことです。ところが自我、エゴは、、必要とされなくなってしまうと本当は実在していないことが明白になってしまい、、そのためそれを強く嫌がるのです。本当は存在しない、、これほどの真実はエゴには耐えられないのです。なぜならばそれは自我、エゴの殺傷事件であり殺人です。

イメージとイメージの人間関係

こういう人に違いない

私たちが言う人間関係とはイメージとイメージの関わり合いです。ある体に対してこの人は「こういう人だろう」というイメージを持ち、、そのイメージとこの私という「イメージ」が交流します。そして相手もまたこの体に対してイメージを持ちそのイメージに対して相手の私「イメージ」が交流しているのです。そこには四つのイメージが確実に存在しコンタクトが生まれます。

イメージとは違った

人間関係の交流が深まるのはお互い同士の「私」というイメージが描く相手のイメージが「私」にとって好ましいイメージだった時に、、、深くなっていきます。ところが実際にはそれはイメージであって、、、そのイメージ通りの言動が続くわけがないので、、深まっては薄れていくのです。この体、あの体を通じて起こる言動は実は勝手に起きているものであって、、、誰にもコントロール不能にも関わらず「私」「相手」はこれをコントロロールできると信じているので、、そのコントロールできているはずの「人格」を信用するのです。ですが実際にはコントロールできる「何か」は存在しないことからこれは多くの場合上手くいかないのです。

良いイメージ

結婚などはお互いがお互いに良いイメージを持つから成立するわけですが、、実際にはお互いをコントロールできる「何か」は存在しないので、、、予想に反して相手の行動が「私」の好みでなくなった時にトラブルになります。もしくは好みの行動を見かけ上の相手が起こし続けても、、、「私」の不足感を相手が補ってくれないという事態(頻繁に起こる)が起こることで、、その責任を相手に擦り付けるという行為が起こり破綻に進みます。

欲求不満をお互いが補えるわけがない

私という存在、この感覚こそが欲求不満を作りだす大きな原因ではありますが、、そのことをお互いが知るわけがないので、、、この欲求不満をお互いがお互いにぶつけるわけです。。。この絶対に解消できない欲求不満を双方が補えるわけがなく、、、これによって人間関係は終了に向かうのです。

私の人生

絶対ありますよね?????

人が亡くなった時、、、亡き父の人生は〇〇〇〇で、、非常に有意義なものだったと思います。。。。のような喪主の挨拶が行われます。この時、、、誰一人、、、「その人の人生なんてないんですよ!!!」なんて言葉を発する人はいないし何を言っているんだ???という話です。ですが実は「私の人生」というのは妄想として100%存在するのです。全部妄想です、、ですが妄想としては100%存在します。

妄想ではあるが実在ではない

私の人生がなぜ妄想で実在ではないと100%言えるのか????それはもしも「私の人生」というものが存在したら私ではない人生も確実に存在することになります。すると、、、この全く分離できない世界に分離が起こってしまうのです。本質には分離はないのです、、にも関わらず分離が起きてしまう、、これはありえないのです。だから私も100%妄想であり、私の人生も100%妄想なのです。この体も100%妄想であり、私の思考も100%妄想なのです。

妄想を実在と信じているから苦しいのだ

父の人生は有意義でした、、に対してそれは妄想ですよ!!!と言えば喪主は怒り出すでしょう。つまり誰もこれを妄想だと思って生きていないのです。父という存在は100%存在し父の自我も100%存在した、、こうなります。ですがその信念が間違っているから、、違和感、不足感、分離感という不快な感情が起こるのです。

行動から観察へ

何かをしなければの終焉

私たちは、、幸福になるためにやるべきことをやってきました。そしてやるべきことをしっかりとやる人が評価称賛を受けやるべきことをやらない人は評価称賛を受けないという社会を作り出したのです、見かけ上。つまり言葉だけでなくしっかりと行動する人が評価を受けるということです。ですから我々は苦しい時、、、やるべきことを一からやっていこうと、、こうなります。ですが残念ながらやるべきことを一生やっていっても本当の苦しみは消えないのです。

本当にやるべきこと

我々がこれから本当にやるべきことは「観察です」ただこれだけ、、これだけ????そうです。何を観察するのか????ただエゴの活動、自我の動き、、を観察するだけです。なぜそんなことでいいのか????それはこの苦しみを生み出している、、大元は、、、、世間でも社会でも友人でも知人でも配偶者でもなく、、、エゴなのです。えええ????そうです、、どんなに社会を政治を会社を毒しても一生この苦しみは癒えないのです。なぜか????それはこの苦しみとは、、私という感覚こそが作り出しているからです。

エゴは観察されるのを一番嫌う

エゴは実は観察されるのを一番嫌うのです、なぜか????観察するのは誰ですか?????エゴをエゴが観察するのは不可能ですよね????そうです、、エゴを観察するのは間違いなく自分じゃない「何か」なんです。何かにしか「自分」を観察できないんです、構造上。だから観察なんです。自分が自分として何かやるべきことをやる!!!その時代は終わりです。何かとして「自分」を観察する、、、これによって何かは「自分」という感覚を徐々に手放していきます。

熟睡に比べれば全てはフェイク

昨日は良い夢見たなー

熟睡して目覚めた朝と、、良い夢見てラッキーだたなー、、から目覚めた朝どちらが清々しいでしょうか????間違いなく熟睡ですよね??????スーパーリッチになった夢と熟睡どちらを次の日経験したいですか?????熟睡です!!!そうなんです、、スーパーリッチは楽しい!という刺激、、比べて熟睡は刺激ではなく、、全刺激が落ちた状態なのです、、究極の無です。

スーパーリッチって

スーパーリッチになぜ憧れるかと言えば、、、、苦しいという自分をお金の力で常にごまかせる可能性があるからです。だから皆スーパーリッチに憧れるのです、、今日はフレンチ、今日は寿司、今日は旅行で、今日は温泉、今日はパーティー、今日はコンサートライブ、、、と退屈を凌げそうな予感がするわけですね。これは期待でしかないんですが。。。つまり根底には「苦痛」があることが前提なんです。ところが熟睡状態は根底の苦痛、退屈がないんです。

熟睡とは

熟睡とハッピードリームの違いは、、、自己意識の有無です。熟睡は自己意識が無いんです。一方ハッピードリームは自己意識があります。熟睡には大前提の苦しみがなく、、ハッピードリームは自己意識が生み出す苦しみが大前提にあるのです。ですからハッピードリームは毎日何かしらをして苦痛を解消し続けないといけないんです。だから忙しいわけです。一方熟睡は忙しくないんです、だって忙しくなる自分が居ないんですから。

解放とは

解放とはまさに熟睡状態のこと、、もうそこに自己意識がないんです、消えたんです自己意識が。すると大前提の苦しみが湧かない、、、、だから忙しく楽しい行事を並べる必要がないんです。次から次へとイベントが必要ないんです。退屈にならないからです。自己超越、解放、悟りに、、、自己がどうしても憧れる理由がここにあります。何かをして苦痛を紛らわすという状況自体が苦しみなんです。そこには真の安らぎがあるわけがありません。

目の前の鳥が消えて居なくなるように

私が消えるかもしれない

目の前に確実に鳥がいます、触ることはできませんが確実にその存在を視覚で確認することができます。ですが突然羽ばたきこの視界から消えてしまいました。確実にあったこの鳥が消えたのです。この世界から。そしてこの「私」確実に感覚として認識しているこの「私」も突然居なくなるかもしれません。この世界で未来永劫残る物は一切なくこの私も例外ではないのです。

音が静寂から現れ静寂に消えていく

何もない静寂から音が現れました、、音が在る、、、これも紛れもない事実でしょう。突然何もないところから突然鳥の鳴き声が聞こえそしてその声は消えていきます。そしてこの「私」も同じです、確実にあるこの私という感覚がある日突然消えてなくなることはあり得るのです。この世界は何もないところから全てが現れているのですから「私」もいずれ必ず無くなるのです。

「私」が居なくなるなんて考えられない

あらゆるものが現れては消えていくこの世界で「この私」だけが残っているのはむしろ不自然なぐらいです、、この世界を見渡せば現れては全ては消えていきますから「私」もこれは例外ではないのは確かです。では「私」が消えてしまったらいったいどうなるのでしょうか????実は「私」はしょっちゅう消えているのです、何かに没頭した時、いきなり転んだ時、料理を夢中で食べている時、、、私という感覚が消えます。そうです私は実は消えては起こるという何も他と変わりのない存在です。

この体がたまたま残っているから

この体がたまたま残っているから、、私という感覚は現れては消えていくを繰り返しているのです。つまり「私」が居なくなることを恐れるのはおかしなことなのです、毎日頻繁に消えているんですから。しょっちゅう消えているのが安定したら常に消えていますよね、、要はそれだけです。「私」とは何もないところから現れ幼少期はたまに現れていましたが大人になるにつれて頻繁に現れるようになり、、それが消えるのです。それは悲劇なのか???悲劇であるはずがないのです、だって世界は現れては消えていく現象しかないのですから。