全体が「私」を演じる

渥美清が「寅さん」を演じる

渥美清が寅さんを演じる際に、、、能力の一部が無くなるということはあり得るでしょうか????五感のどれかをな亡くすということはありえるでしょうか???ないです。絶対に。渥美清は全く何も能力を失うことなく寅さんを演じます。ぜは全体がこの「私」を演じる時に、、能力は失うでしょうか???失うわけがありません。ということは、、今の私の能力が全体の能力です。つまり触るという経験、見るという経験、感じるという経験、味わうという経験、、これが全体の全能力です。

私が誕生する前に

私がもしも無人島に生まれていたらこの体と環境の全てを区別するという概念がないんです。この体も私ですし、、環境の全ても私なんです、、、で経験が起きますね、、水に触れば冷たい、、果物を食べれば美味しい、、この経験は全体が作り出しているんです。全体が毎回毎回作り出しているこの感覚を、、「私」が奪ったのです。この体の中に「私」という概念、役が突然生まれ、、この感覚の全てを所有するという概念が生まれたんです。

この体と環境の二人三脚

この体だけでは当たり前ですが、、、ほとんどの経験が起きえないのです、、、川があって、海があって、風があって、、果物があって、、、この環境の全てがこの体と反応を起こすことで経験が生まれるのです。そしてその経験は何によって気づかれているのか????それが全体です。全体がこの反応という経験に気づき、、、その気づきを、、、「私」が気づいているというドラマにすり替えたのです。

全体の全能力を私が所有するというストーリー

思考するのも、感情を生み出すのも、感情を感じるのも、全五感の働きも全部全体の能力です。鳥が鳴く、、、この声に気づくのは全体です。。。この耳では????違います、、全体がその場で聞いているのです。ダイアモンドの輝きに気づくのも目ではなく全体です。全体がその場でその輝きに気づきます。。。その全てを「この私が気づいた」に切り替えているのです。そしてこの私が居るという感覚、この感覚も当然全体が起こした感覚です。

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