気づきの連鎖

「分かった」のドミノ

「空」を日々感じながら生きていますと、、、、気づきの連鎖が起こります。街を歩いていても、、、あらゆる気づきが起こります。友人とのコミュニケーション、会話、仕事、、何でもかんでも気づきが起きます。見かけ上のこの人々は完全なる勘違いを起こしているように見えます。その勘違いの数々が「私の観念」を教えてくれるのです。「私が居る」という前提の観念の数々が、、、こちらからは非常に勉強になるんです。

自我が可愛い

周囲の「自我」があるかのように見える人々の活動は、、、微笑ましく感じます。本当に一生懸命思考活動に従って生きているように見えます。その必死な活動の数々が、、、全くもって不快に感じれないのです。なぜならばその活動の全てが空のアートだからです。空のアートをアートそのままに見れるようになる日が本当に来たんだな、、、という感動を覚えるのです。

もう衝動が起きない

朝起きた時に、、全く焦りがありません、、、あれをしなきゃ、これをしなきゃ、、、が起きないんです。朝起きた瞬間から観葉植物は輝き、道は輝き、人も輝いています。このアートを見せられている間、、これを見ていないと勿体ないな、、という感覚すら起こります。

勘違いをベースにした思考

起きない

真実を正しく正しく理解できますと、、、勘違いをベースにした思考が起きなくなります。地動説をしっかりと理解した後に、、天動説の勘違いがもう起きにくいのと同じです。地動説の正しい理解は、、天動説への回帰を防ぐのです。見かけ上の「私」も日常生活で、、、頻繁にこの私が登場しますが、、、なぜ登場するのか、、なぜ認識されるのかを正確に理解していますから、、もう思考の渦に飲まれることは全くありません。思考が起こり始めた途端に、、思考を観察する視点が生まれるのです。

思考が悪くもない

この現代社会で生きていくには思考は欠かせない存在です、、ですから思考が登場してはいけないという意味ではありません。ただし誤った認識、誤った理解を前提にした思考は、、、、苦しみを同時に起こしますから、、それは無駄です。正しい認識、、真実に沿った認識での思考は大歓迎です。「私」は、、、から始まる思考は、、同時に苦しみを生むことを理解しなくてはなりません。

とはいえ湧いてこない

とはいえ湧いてこないのです、、、思考によって為される数々は、、、自我を肥太らせる内容が圧倒的に多いのと、、思考によって為される成果が、、至福を生ないことが分かってしまっているため、、、思考の活動が起こらなくなっていくのです。思考を働かせた結果永遠の幸福を得たことはあるのでしょうか??恐らく全くないはずです。便利になったり利益を得たりはできるでしょうが、、それが至福を約束してくれることがないのです。

だとしたら

だとしたらもう思考活動には関心を寄せずに、、、悟りにのみ関心を寄せても全く問題は起こりません。本当に必要な思考は必ず起こりますから、、そこは思考を信用します。そして残りの時間は目覚めて瞑想をします。この体の背景から湧き上がるこの現象をしっかりと観察し、、空の存在をありありと感じるのです。目を閉じて空を感じることもできますが、、、何をしていても実は空を感じることができるのです。空を感じるという真の瞑想を始めます。

欲望

抑える????

欲望を抑えると失敗します、、、もしも欲望が湧いたならば、、、それは私が湧かしたのではなく湧いたのですから、、、、抑えて勝てる可能性は低いです。欲望はむしろしっかりと感じてしっかりと消化した方が早く収まります。欲望に対して、、、感じるというスタンスをとります。湧いてきたな、、よし消化しよう、、です。個人として、、欲望を掴むのではなく、、空として、、欲望を感じるのです。欲望すらも空の表現です。

性欲、食欲、睡眠欲

特にこの3大欲求は抑えるのではなく、、、感じる方が良いです。。。今どの欲望が起こっているのだろうか????そして消化します。ここの消化の部分を押さえたり戦ったりコントロールしようとすれば、、勝てる見込みはありません。そして承認欲求、社会的欲求、自己実現欲求などなんでも起こりますがそれも押さえずに感じます。そして消化していきます。

悟りの欲求

散々なんでも消化していきますと、、最終的に自己超越、悟りの欲求が起こり始めます。もしも本当にしっかりとそれ以外の欲求を満たしてこれているならば、、、、最後の欲求は確かなものであり、、、この探究心が終わることはないでしょう。悟りへの渇望、欲求が、、、悟りへと至らせます。瞑想、ヨガ、マントラ、呼吸法、断食、知的理解、、、どれをとっても世の中的には全く不思議な活動の数々を楽しんでやれるようになります。

空と色の境目

そんなものはない

空とは全体の中の全動きが止まった存在であり、、、色とは全体の中の動の部分です。そしてこれは二つで一つですからそこには境目などはないのです。不動の部分から動きが起こり始め、、その動き始めには「気づく」が起こります。そして動きはまた不動への吸収されていくのです。動と不動が円を作り回転しています。色と空が一つと呼ばれるのはそのためです。ですから空は色の動きが止まった呼び名であり、色は空の動いた表現です。そこには境目はないのです。

だから分離もない

色と空には分離がないのですから、、当然この世界には分離はありません。たった一つのエネルギーが循環しているのです。そしてこの世界に分離があるように感じれるのは、、空という不変の部分があるからです。全く分離していない存在があることで、、分離というアートを認識できるのです。この確実に分離している感覚を味わえるのは、、、分離していない存在が存在しているからこそです。

空と色をイメージで捉えるミス

空はイメージで理解することが絶対にできない存在なので、、空と色をイメージで理解しようとしますと失敗します。色は見えるので、、イメージ化当然でえきますが、、空はイメージができてはいけない存在なんです。ですから空は感じる以外に方法はないのです。そしてその感じる以外にない空と色には境目がないという矛盾も感じることで解消します。

慈しみ

慈しみとは

慈しむという言葉は悟りを非常にうまく表現しています。慈愛の慈です。この世界が空の現れで今起こっている全現象は、、空から起こっています。この体もあの体も全部空から起こり、、空によって気づかれます。つまり全体は全く同じ場所から出現しているのです。そして気づきも全く同じ場所で起こることから、、、私の体とあの人の体には何の差もないのです。このことを本当に理解できますと「慈しみ」という感情が湧いてきます。対象への愛ではなく、、起こった現象に対して愛が起こるのです。

取引の愛ではない

私たちは、、どうしても見返りを期待しての愛を所有しがちです。この見返りを期待しての愛は間違いなく「この体」へのメリットを期待した愛です。ですが慈愛は、、、、存在そのものが現れてくれたことに対しての愛です。私がこんな形で表現してくれたんだ、、、という愛です。ですからこの体に対してどう反応するかはどうでもいいのです。

実は苦しい

見返りを期待しての愛がなぜ苦しいかと言えば、、、この世界にはコントロールできるのはこの体思考だけであり、、他は全部自分以外、、、この恐ろしく貧しい感覚こそが、、作り出すのです。発想が貧しすぎて、、苦しから、、、見返りを期待した愛を求めるのです。本当は何一つこの体には気づきがなく、自由意志もなく、、だから私など居ないのですが、、、大きな大きな勘違いが起こってしまったことで慈愛が消えたのです。全システムを理解しますと、、、全存在は全く完全なノーコントロールで出現し、、自我すらも勝手に湧き上がります。

一日中面白いことを考える????

不可能

毎日を究極的にハッピーに生きたいなら、、、ひたすら面白いことを考えればいいですよね????できますか????できません。なぜできないのか?????自由意志があるならば、、、一日中面白いことを考えればいいじゃないですか。。。。。お笑い芸人は、、一日中面白いことを考える能力がありますよね。。。なぜできないのでしょうか????それは自由意志がないからです。

どこからが自由意思でどこからが不自由意思なのか????

自由意志があると思うならば、、どこからどこまでが自由意思でしょうか????旅行の計画は自由意志で、、友人との会話の反応は不自由意志、、、明確な範囲はあるのでしょうか?????イギリスに行こう!!!!この思考は、、、どうやって湧かしたのでしょうか????はたして全200カ国の中から本当にチョイスしているでしょうか???もしもイギリスとフランスの二択だったならば、、その二つをどうやって選択したんでしょうか????間違いなく勝手に二つが湧いてきて、、勝手にイギリスに絞っていますよね???

昨日は彼のことばかり考えちゃって、、、

最近連絡とってない、、彼のことを昨日は一晩中考えちゃって、、、、辛かったなーーー。。。なぜ自由意志があるにも関わらずこんなことが起きるのでしょうか????自由意志がないからに決まっています。つまり、私たちは、、、、勝手に湧いてくる思考を「自由意思」と呼んでいるのです。そしてさらにその自由意志を管理運営しているのを「私」と呼びます。ですが自由意志がない時点で管理する「私」も崩れます。

空とは

説明できるわけがない存在

空とは説明できてはいけない存在です。なぜかと言えばこの現象界には絶対にない存在だからです。逆に言えばこの現象界にないもの全てをかきあつめたのが空です。色でもなく光でもなく動きでもなく意識でもなく気づきでもなく、空間でもなく時間でもなく熱でもなく思考でもなく感情でもない物でもない「もの」です。矛盾しかありませんね。つまり説明できないのです、言語では。

だが確実に存在する

この全く説明できない存在「空」はですが確実に存在します。我々が景色に気づく時、、空がなければその気づきは起き得ないのです。だからこれからしっかりと空を感じていきていきます。少なくともこの体が現象に気づいているという古い常識は捨て去ります。そして常に空としてこの現象に気づき続けていきます。

「この私にとって」が消える

空を理解していきますと、、この現象はこの私にとってどうか???という思考が湧いてこなくなります。全現象がただ空から湧き上がり、、気づかれる。。。。自分(空)から湧き上がる現象をただただ観察したくなるのです。この現象を俺(空)が作っているのか?????という今までにない感動が湧いてきます。芸能人のスキャンダルも大災害も経済不況も、、、、全部が空(不変の自己)から起こっている。。とんでもない感情が湧いてきます。

光でない者が光を感じる

光は光を感じることができない

光は光を感じることができません、、光を感じることができるのはスクリーン、暗闇、など光ではない存在です。青は青を認識できません、その証拠に青色のコンタクトレンズを付けて青を認識することは不可能だからです。周囲からあなたが見ている景色こそが青なはずだ!!!と助言をもらえますが、、これぞ青!!!と認識するには青、赤、黄色と横に並べて比較する以外に方法はありません。つまり青自体は青を認識できないのです。この理論で説明しますと、、、この現象界の認識は、、、間違いなく現象ではない存在が起こしています。

現象界の全認識は非現象である空の存在から起こっています。ですが空は空間でもなく場所でもなく時間でもない、、意味不明な存在なんです。現象の全てでない存在ですから。。つまりこの空を「イメージ」で掴むことは不可能です。イメージできてしまうとしたらそれは現象になってしまいます。絶対にイメージできない存在が空です。イメージはできませんが存在は存在しますから、、、感じることはできます。

空の見つけ方

認識は空(不変の自己)と現象の化学反応です。空から現象が立ち現れる時に、、気づきが起こります。つまり現象が起こっていない時は空そのものです。だから瞑想をして、、現象を消し去り、、空を感じるのです。全現象が起こっていない状態=空です。熟睡状態に自覚が湧かないのは空だからです。

嘘の深刻さ

見破る

この体の中に自分が居て、、この人生を生きる、、、このような映画をでっち上げますと、、途端に深刻さに襲われます。本当はこの見える世界のスクリーンであるにも関わらずこの体を主人と勘違いすることでこの体は常に危険に脅かされていますから、、、、深刻になるに決まっているのです。大災害、消費税アップ、年金問題、全部が全部この体に関わることであり、、、深刻になって良いのです。ですが本当はこの映画のスクリーンですから、、、嘘の深刻さです。

それでも欲が湧くならば

それでもあらゆる欲望、、この体を通じての欲望が起こるのならば、、、この体になり切ってあらゆる欲を満たしたいのですから、、、やればいいのです。そこまでも稼いでやる、どこまでも有名になってやる、どこまでも安全な生活を送ってやる、、、、どこまでもどこまでも。。これを止める方法はないんです。

真実に戻る

どこまでも深刻に人生を考えることもできますし、、どこまでも欲深く生きることも可能です。。そしてその流れを止める誰かは存在しません。ですが立ち止ってみてもう終わりにしたい、、、が起こったならば、、、真実を見ます、、、、真実は、、、、この現象の全ては、、、この私の背景から起こっています。この体の背景から、、、この現象の全てが立ち上がっているのです。。。これが真実です、、、この真実に目覚めると、、深刻さが消えます。

何万年間騙され続けた人類

我々の背後には誰も居ない

背後には何かがある、、、そう教えられて我々は生きてきました。本を読んでいる時もその背後には椅子があり、ソファーがあり、部屋があると、、、教えられてきたのです。ですが実際には背後には何も存在しません。背後には背景が存在するだけです。我々は何万年間もこのトリックに完全に騙されてきたんです、そしてこの体を私として生きてきたのです。本当はこの体の背後に本当の私が常にいて、、この現象の全てを起こしていたのです。

もう終わりにする

この世界にはこの体があってこの体の中に自分が居るという旧来の常識はもう終わらせていいのです。その中に自分をでっち上げようがなんだろうが本当の私はこの体の真後ろから、、この現象の全てを起こしている「存在」です。この体を含めこの思考を含めこの感情を含め全部を起こし全部を認識する存在です。体は実はこの全てに関与していません。にも関わらずこの体が全部やってきたという古い常識が今もまかり通っているのです。

笑い草

新しい常識、真実がこの世界に浸透すれば、、、かつての常識は笑い草になるでしょう。この体の中に自分があるって本当に信じていたんだね!!!!!笑です。なんて苦しい常識にしがみついていたんだろう、、人類は笑です。だからもう終わりにしていいんです。古い常識は、、、、はっきり言って重いんです、旧常識信者は。だからもう終わりにしましょう。