観念の残骸

主人が変わっても

主人が変わっても観念の残骸が残っています。この観念の残骸こそが、、現象化し、、、旧「私」に注意を集めようとします。新私としてそこに居ても、、、、旧私時代の観念がそうはさせじと、、、蠢きます、活動を活発にします。友人の多くから失礼をされたり魅了されたり、、この旧私の存在を思い出させるありとりが起こるでしょう。ここで止めなかったら、、いつするか???です。旧私時代の観念が崩壊する前に、、現象化で食い止めにくるでしょう。

観念の現象化を認識するのみ

友人からの嫌がらせ、注意喚起、、、旧自分時代の繋がりが、、、旧自分を思い出させる現象としてガンガン起こっても、、、ただ認識します、残骸観念の現象化をただ認識するのです。現象化から逃げてもダメです、、ただ認識するのです。勘違いをベースにした人間活動に反応したら負けです。反応するということは旧自分の存在を認めることになります。

反応がなくなるまで

残骸観念の現象化は反応がなくなるまで続きます。反応するということはその観念を捨て切れていないわけです。ですから反応が続く限りは観念は現象化し続けるのです。全ての現象は自動反応で勝手に起こるという究極の理解に至るまで観念は現象を起こし続け、、反応が終わればあるがままが広がります。その時、、ここから質問疑問が消えてなくなるのです。質問疑問が全く出てこない状況が悟りです。

充実させなきゃ

充実していない状況

充実した状況があるならば充実していない状況があるということになります。ですが充実が減ったり増えたりするっておかしくないですか????充実ってなんでしょうか?????何が満ちてきたのでしょうか?????この意識が作りだした世界にいったい何が充ちるのでしょうか?????意識が減ることがあるのでしょうか????

充実していない時など一度も無かった

実は充実していなかった時など一度もなかったのです。我々が今見ている世界はこの体の背景から飛び出ているのでしょうが、、、その背景こそが我々の本質です。全部を全部作り出す存在が充実しているとか充実していないとかあり得ないのです。この体だけが、、何かが足りない何かが足りないと、、、蠢いています。

主人の転換

何度もお伝えしますが、、、この体は主人ではないんです、、この体はこの背景から頻繁に湧いてくる現象です。この現象を主人と決め込んだことから「苦労」が生まれたのです。この体は主人でもなんでもなく、、ただの現象です。主人はこの景色を今作り出している我々です。背景に優劣はあるのか????全くありません、背景は背景です。背景の中であらゆるキャラが登場しますがそのキャラに優劣などあるわけがないのです。

活動を辞める

動く意味

我々の本質はこの現象を観察する背景です、この目ではなく、、こちら側に在る背景です。この背景からこの世界が目の前に飛び出し、、背景がこれに気づいているのです。その中でこの体も起こっているだけです、出現しているだけです。だからこの体が何かをしなくては!!!ってギャグです、、、何もしなくてもこの全現象を今生み出しているんですからもうゴールです。それ以上の偉業を、、この体は成し遂げることなどできますか????できるわけがないんです。

偉業

いまここにこの体を生み出し、全景色を生み出し、、、それを今認識しています、背景が。この時点でゴールです、これに勝る人間活動など不可能です。人間がどれほど偉業を成し遂げてもその偉業はこの背景の中で起こるのです。我々の中で人間が偉業を成し遂げるのですから、、、そこになんの意味があるのでしょうか????あるわけがないのです。

ゴールの中で安らぐ

もう私たちは完全なゴールの中に居ます。ゴールしか経験していません。今までもゴールしていたんですが、、ゴールの自覚がないままに人気活動をしていたんです。これからはゴールの自覚を持って人間活動が始まります。ゴールしている状態で、、ただ人間活動を楽しむのです。いやそんなことはない、、私はゴールなどしていない、、、その思考を認識したのがゴールである我々の本質背景です。

パワースポット

それを生み出す存在

パワースポットってあります。これを信じる人には効果はあるでしょう。ですが今ここでパワースポットを生み出している存在、我々の背景こそが我々の本質です。いまここにパワースポットと呼ばれる場所があるとしましょう、、その現象はどこから生み出されていますか?????背景からです、、この背景こそが自分です。それを見かけ上見ているこの体もこの背景から起こっています。そのパワーを認識する背景こそが私です。

意識

パワースポットを今認識する意識があります。この意識を起こす存在こそが私です、背景からこの意識が起こりました。この意識を生み出した存在こそが私です。パワースポットを味わい尽くす、、この体、、味わういう認識を作り出す背景が私です。この体は実は何にも気づいていません。ここまで気づきがありますと、、もうパワースポットに行きたいという欲求がなくなっていきます。なぜか????パワースポットの創造主がそこに行って恩恵を受けるっておかしいですよね。

どこにも行かなくていい

だからどこにももう行かなくていいのです。。どこに行ってもこの私の背景から、、現象が生み出され続けるだけです。だからそれを楽しむためならそれも面白いでしょう、、ですがもしスポットに行ってパワーをもらいたいならば、、、そのパワーを作り出すこの背景としてそこに行く必要はあるのでしょうか????この体が一時的にパワーを貰ったとしてそこに意味はあるのでしょうか????

いつか悟る???

いまここにあるのに???

我々は今完全な明晰、完全な静寂が背景にあって、、その中から起こる現象を見ています。我々の本質はこの明晰、背景そのものであり、、そこからこの現象は今起こります。つまり我々は今完全に悟った状態でこの景色を眺めているのです。この体の背景には今そしてこれからも過去も常にこの本質が秘めていました。その本質から起こるあらゆる現象を眺め続け、、時に悩み時に楽しみ、、を送ってきたのです。この体を主人公と勘違いし、この体が全部を気づいてきたと勘違いして、、、きたんです。ですが本当はこの体もただの現象だったんです、この体も気づかれる側だったんです。

気づかれる側

この体は気づかれる側だったんです、、この体は本質から気づかれ続けてきたんです。だからこの体が何かに気付くのは不可能です。気づかれる側が何かに気付くのは不可能なんです。この思考も感情もこの体が気づいたのではなく、、全て本質に気づかれてきたんです。だから最初から解放の中で全てが起こりこれからも起こります。解放自体が幻想なのは、、この構造は最初から最後まで何も変わらないということです。もうこの自分が居るという前提の思考が消えるだけです。

何も変わらない

勘違いの思考、勘違いの感覚も、、、完全に背景に認識されてきたわけですから、、何も変わらないのです。「この私」は今までも何もしてこなかったしこれからもしないんです。ただその勘違いが落ちることで勘違い前提の雑念が落ちました。これを悟りと呼ぶわけですが、、、あまりにもシンプル、簡単過ぎて、、逆に伝わりにくくなってしまうのが皮肉なものです。

霊格

霊格というのはこの体には霊格が宿り、、その霊格が徐々に進化をしていくというストーリーですが、、霊格とは一切関係なく、、今、、、本質が、、そのストーリーをここで生み出しています。今我々の背景でしっかりとその存在が存在しています。この存在と霊格の関係はどうなっているんでしょうか???その霊格を宿った自分を認識しているのがまさに背景としての本質です。

新常識

旧常識

新常識(真実)に沿っていきますと、、、、かつての旧常識を信じる人々とのコミュニケーションが始まります。そうか昔は私もそう信じて生きていたなー、、、が始まります。ルール、観念を持てばそのルール、観念に苦しむという旧常識の弊害、、「この体に私が居る」というのも観念ですから、、当然それも苦しいのです。その苦しんでいる様を見ることになるんです。そして、、新常識を信じる私は、、、しっかりとそれを確認して生きていきます。

この体に私が居る

この体の中に私が居るというのは観念であり、、真実ではありません。だからそのことで私は苦しみ続けるのです。この観念が落ちるまで、、苦しみます。私が「この体の中に私が居る」という観念を持つから私が苦しむのです。私だけ、、、その観念を捨てるなんて怖いですよ、、、、そう思っている間は苦しみ続けてください。

私以外

残念ながらこの世界で苦しんでいるのは「私」だけです。周囲はどんなに苦しんで見えていても見えているだけです。実質苦しんでいるのは「私」だけなんです。だから周囲の心配は忘れて、、「私」がこの旧常識を捨てることに専念すればいいのです。「この体の中に私が居る」という最後の観念が落ちるまで、、苦しみが終わらないのでそれを確認してください。

勘違い評価

周囲の評価

この吉本新喜劇に出てくるキャラは、、当然この体が全認識を起こしているという程で旧私を評価してくるでしょう。旧私はあらゆる評価の対象になるでしょうこれからも。ですがそれは全部勘違いの評価です。それって孤独じゃないですか????大丈夫です、、新常識に興味がある人は現れるでしょうし、旧常識のキャラと接することが苦痛ではないんです、実は。

キャラに好き嫌いが起こらない

吉本のキャラに対して好き嫌いがそれほど起こらないのはそこに深刻さがないからです。職場の人間関係に好き嫌いが起こるのは、、深刻さがあるわけです。ですが新常識ではこの深刻さがないので、、好き嫌いが起きにくいのです。この私の体という実は何もしていない存在がどう評価されるかって本当に興味がなくなるんです。

本当の自分

本当の自分を強烈に感じながら、、旧自分を強烈に意織するのは難しい。ただし勿論この体がなければこの体験は全くできないのですから大変有難いのは間違いありません。この有難いという感覚のままこの体を扱うようになります。スクリーン、不変の自己が、、、「この体」というペットを可愛がりながら生きるということでしょうか。そして周囲には勘違いキャラが今後も多数登場しますが、、それもまた愛おしいということです。

瞑想の必要もない

目の前の現象を楽しむ

我々はこの体が主体で、、この体に向かって環境が広がるという古い常識を叩き込まれました。こん初期設定があまりにも貧しい設定なので人は孤独を感じ無力を感じ絶望を感じ、、それゆえ、、虚勢を張ったり、強く見せたり、見かけ上で友人を多く持ったり、、大きな家に住みたがり、、します。全てはこの初期設定の貧しさからです。ですがその古い常識から「真実」に認識をシフトしますと、、、もう貧しさ、孤独、絶望を感じなくていいのです。それは今できます。

現象に浸る

目の前に景色が広がります。この景色にこの体は「登場」していますか???していないんです。今このスクリンと景色だけが広がります。つまりこの体は居ないんですよ、、ほとんど。そしてこの景色の気づきにこの体は一切関わっていません。なぜこの状況でこの体について考える必要があるんでしょうか????関心を持たなくていいんです。この体は何もしていないのです。ギャグなんですよ、、、この体は何もこれからもしません。

この体、この私に関心が強すぎる

我々の旧常識からするとこの体この私はえぐい影響力を持っていることになっています。ですが実際は今もそうですが、、、何もしていない。認識の全てはスクリーンですし、この体はコミュニケーション上登場するぐらいです。つまり他のキャラとの関わり以外ではほぼ登場しないのです。新常識ではこの体(キャラ)がいかに罵られようと、、、本当の私(スクリーン、画面手前側)は何一つ傷つかないのです。

新常識

新常識で過ごすとどうなるか?????深刻になれません、、この体は実は何もしていなかったのですから、、この体が周囲からどう評価されても意味がないんです、、、だって完全な勘違いの評価ですよ。完全に間違った評価です。その勘違い評価を今後本当の私は気にすることができないんです。

片目を手で覆う

視界が半分に???

この世界がスクリーン上に映し出される現象で、、我々はスクリーンそのもの。だとしたら、、手で片目を覆うと景色が半分になるのはなぜですか?????簡単です、、画像が半分手で覆われただけです。目を覆ったという事実はありません、ただ手が景色の半分になったのです。何を言っているのか????あなたがカメラで私を撮れば、、、手で片目を覆う姿がしっかりと写りますよ。違います、、、その画像(片目を覆う)が次にこの景色に現れるだけです。

なぜそのような騙しのような写真が????

この世界は観念による無限の体現の場所なのです、、、どのような観念を持っても、、その観念に従った世界を生きることができるのです。今では滅茶苦茶な観念、例えば、、かつての天動説でも何千年でも人は経験を積めるんです。つまりこのスクリーンではなくこの体が主体であるという観念でも何千年間でも人は経験を積めるのです。

いつでも悟り

見える景色のこちら側に明晰な存在、空、絶対、不変の自己を感じながら生きても、、全くもって普通に生活できます。我々は悟った状態で今後も活動は十分にできます。というよりも悟るための瞑想をしながら、、生活するようなものです。起こる現象をしっかりと全体、スクリーンで感じるという新しい習慣です。音を光を香りを、、、いまここに確実にある「明晰な存在」「空」によって気づきが起きます。

吉本新喜劇

いまここ

いまここは完全に吉本新喜劇です、スクリーンがあってその中で現象がまさに今ここに現れています。スクリーンの中にこの体も現れ、、他人も現れ、、消えていきます。この体が主人ではなく、、このスクリーンこそが主人です。この主人の中にこの体という役、相手役、様々な人間が現れては消えていきます。そしてこれらの人々は、、勝手に動き、勝手に活動します。そしてまさかのこの体も勝手に思考し勝手に動いています。これが真実です。にも関わらず、、、自由意志があると思っているから、、この体に関心が異常に湧くのです。

全員に自由意志はない

吉本新喜劇の芸人さんに自由意志がないように、、このスクリーン上の人々にも自由意志は全くありません。ですから彼らをコントロールしようという試みは無駄に終わるでしょう。そして自分をコントロールできるという試みも無駄に終わるでしょう。完全に自動反応がただ起こり続けるのです。そういう意味では吉本新喜劇と何も変わらないのです、、、でその吉本新喜劇はお気楽で楽しいですよね????そうです、その目線でこのドラマを眺めるとお気楽で楽しいのです。

なぜ感情を感じれるのか????

吉本新喜劇では、、、芸人の感情を代わりにこちらが味わうことができません。ですがこのスクリーン上では、、この体から起こる感情思考をスクリーンが拾い感じます。「私」が拾ってはいませんよ、スクリーンが拾って感じているんです。それをこの体が感じている、、という大誤解が起こり、、、この「私」は深刻になるのです。本当はスクリーンが全部拾っているのです。スクリーンが拾えない思考、感情はあるわけがないのです。