で、どうすればいいんですか???

真実はこうなっているんです

真実ってこうなっているんです、、、で???どうすればいいんですか????が起こります。「自由意思ってなんです」「で???どうしたらいいんですか?」になります。どこまでいってもこうなんです。で???どうしたらいいんですか????、、、、で????どうしたらいいんですか???は真実が読みこまれていないから起こる質問なんです。

真実とは、、で???どうなるんですか??が起きないことです

自由意志はないんですよ!!!「じゃあこれからどうしたらいいんですか???」は成り立っていないのです。自由意志がないことが理解できますと、、もうその時点で楽なです、、だからそれで終わりです。じゃあどうしたらいいのですか????はその内容が腹に落ちていないから起こるのです。ですので真実とは質問が出てこなくなるまで読み込む、、これしかありません。真実を聞いて、、じゃあどうすれば???はないんです。

ルールを作ると苦しくなる

この宇宙にはルールはないことから、、勝手にこの宇宙にルールを作ると苦しくなります。この真実を伝えても、、じゃあどうすればいいんですか???が起こります。私たちは「苦しい」よりも苦しくない方が良いのですか、、ルールをやめていけばいいのです。でも会社に行かなかったら食べていけないですよね???それがルールです。そう決めれば、、そのルールによって苦しむのです。

我慢

いま本当は欲しいけど後にしなければ

宇宙にはルールは存在しません。いま本当は欲しいけれど後にしなければ!!!というルールを設けますと、、必ずこのルールで苦しむのです。欲しいものが手に入る入らないは横に置いて「苦しい」が起こるのは間違いないんです。タバコを吸いたい、、でも仕事中は辞めなくては!!というルールを作ると必ずそのルールで苦しみます、タバコを吸う吸わないは関係ないのです。

タバコを仕事中に吸うのはダメだ!!

タバコを仕事中に吸うのは良くないことだ!!!というルールをこの宇宙で作り上げますと、、必ずそこにはそのルールを守れない自分、もしくは社員、パートナーが現れ、、私が苦しい思いをします。どのような現象が起きようとも、、このルールによって苦しみがもたらされるのです。この宇宙に「タバコを仕事中に吸うのはダメだ!!」というルールは本来ないのです。

そんなんで食べていけるのか????

結論をハッキリと言いましょう、、、あなたが食べていけるかいけないかを「あなた」は全くもってコントロールできません。それをコントロールできるのは神だけです、、「あなた」は実は何もかもの思考行動を決めれていません。勝手に湧いて勝手に起こるのです。ですからこの話を聞いて食べていけるか???という思考が勝手に起こり、、この後の行動も勝手に起こるのです。いままでも勝手に生きれていたんですから今後も恐らく勝手に生きていけるはずです。

サットサン

神が神に会いに行く場所

サットサンとは覚者に迷い人が会いに行き、、なんとか目覚めを誘発してもらおうと集まる場所です。ですが実際には覚者はそこには居ません、、、見かけ上の「覚者」がそこに居て見かけ上の「迷い人」はそこに集まります。見かけ上の「覚者」は迷い人の相談に乗ります、、、見かけ上の「覚者」は相談者の悩みを聞くわけですが、、、本当はこの体にそのような力はないので、、実は神がそれを聞いています、そして見かけ上の「迷い人」から、、、「真実を知りたいんです」という言葉が出ますが実はこれも神から出ているんです。見かけ上は「覚者」と「迷い人」ですが、、、全部神がやりとりしています。

壮大なギャグ

つまりこの世界はギャグなんです。この世界で人の話に気付ける誰かは存在しないのです、気づきは全部神が行っています、相談できる個人も存在しません、、、全部この相談は神から起こっているんです。だから相談者も神、回答者も神です。「なんとしても多くの人を救いたい!!!!」という見かけ上の覚者に会ったら要注意、、何も分かっていない見かけ上の覚者が行っています。

覚者はどうやってモチベーションを保っているのか????

見かけ上の「覚者」はサットサンに集まってきた見かけ上の「迷い人」に対してどうやって毎回モチベーションを保って回答しているのか不思議になります。勿論その行為も、、勝手に起こり勝手に消えるのですが。聞き手は全員が神だという認識のもとに相談を受けるのですから、、なんともいえない気分でしょう。勿論そこには迷いもあるし、苦しみもあるし、困惑もあります、、だから目の前のそれに真摯に応えるが起こるのでしょう。

読み込みエラー

悟りのメッセージ

悟りのメッセージ、真実を指し示すメッセージは、、、読み込みエラーが起こります。例えば相談者に真実の内容を伝えますと、、、「遮断」が突然起こるんです。この遮断が相談者に起きているならば、、相談者にあの手この手で、、ねじ込む、、という方法もできますが、、不可能です。なぜならば、、読み込みエラーは、神が行っています、遮断は神が起こしています。相談者ではありません。

不可能

つまり、、、内容は完全に把握されているのです、、日本語は間違いなく読み込まれています、、、神ですからそこに不可能はないのです。ですが、、読み込みエラーが起きたんです、、神が読み込みエラーを起こしたのですから、、もう誰にもこれを覆すことはできません。相手は神です、、神を説得するのは不可能なのです。

神が神を説得する

そしてそして、、、面白いことに、、相談者にそのメッセージを伝えているのも神から起こっているのです。見かけ上の私を通じて神が相談者の相談に乗り、神が相談者のフリをして相談しています。相談者のフリをした神を心配する必要がどこにあるのでしょうか????これは完全にギャグなんです。あの相談者の悩みにどうしても応えてあげれなかった、、、、、はギャグです。神が神の悩みに悩む?????ギャグなんです、どこまでいっても。

分かればもういい

砂遊び

砂遊び、、飽きたら遊具に子供は興味がシフトしますがそれを危惧する親は居ませんよね。。。健全です、、、、大人になると突然途中で投げ出すことを、、ダメなこと、、、と判断されますが、、、宇宙にはルールがないんです。何一つこの宇宙にはルールはないのです。ですから次にシフトすることに良い悪いは一切ないのです。大人になっても「分かった!!」が起こったならば次にシフトです。

日本から世界へ

Jリーグでプレイし、、「分かった!!」が起こったっ時に、、海外に挑戦、、全くもって健全です。。「分かった!!」は「悟った!!!」です。悟ったんですから次のチャレンジにシフトするのは健全です。「プレミアリーグで優勝、、、「分かった!!」が起これば「悟った!!」です。現役中に「監督挑戦」が起こってもいんです。。もしくは急に「瞑想に挑戦」が起きてもいいんです。

「悟った!!」の連発

人生とは「悟った!!!」の連発でいいんです、、悟った!!!次へ、、です。最終的には悟りを悟った!!!!が起こるまでこのゲームは続くのです。分かった!!!!の最終形態は「悟りが分かった!!!!」です。宇宙の真理が分かった!!!です。このチャレンジは死ぬまで続きます。

理解されるわけがない

面白い

見かけ上の私は二十年近く悟りについて学び続け、、ようやく、、私の存在が居ないことに気づきました。禅、小乗仏教、、、当初からそのようなことは知識では分かっていました。ですがそんなこと言ったって、、いま「私」を感じているのだからどうしようもないじゃん、、、という心境でした。ですがある日突然、、あれ、、本当に居ないじゃん、、が起こります。それは明らかに「私」からではないのです。洗脳が解けた瞬間でしょう。

気づくと居ない

気づいたら居なかったんです、、私が、、、HUMAN BEINGという言葉じゃいですが、、、気づくとBEINGがHUMANをやっているという感覚に落ちたのです。感情や思考はもちろんいまでも湧いてはきますが、、その思考、感情には勘違いがないんです。つまり「私」を含むストーリーの流れではないのです。完全に吉本新喜劇、、役になりきっても演者に戻れないことがないのです。

一人吉本新喜劇

悟れば一人吉本新喜劇です。周囲は完全リアリティーショーの中に居ますが、、こちらは一人吉本新喜劇、、、これでいんです。理解などされるわけがないのですからそれでいいんです。理解などされなくても何も問題など起こらずに進んでいきます。

あなたの気分はいかがですか???

質問がズレる

悟りが開いた後に「あなたの気分はいかがですか????」この質問を受けます、、、、この質問実は全く的を外しているんです。実は悟とは「私の気分」がなくなることなのです。気分を認識しているのが「私」から「全体」にシフトすることを悟りと言います。その時の気分が真の安らぎだということです。ですからいつまで経っても会話が成り立たないんです。会話が成り立たなくなるのが悟り後です。

能力の問題ではない

悟ると何か特殊な能力が身につくんですか?????この質問も完全に的を外しています。この私ではなく全体が術全ての認識をしていたという気づきによって、、結果的に景色が綺麗になる、音が鮮明になる、という認識が変わることが起きえます。ですがこれもそうですがその認識は「私」ではなく全体が起こしているのです。ですから身につきますよ!!!と回答すれば「私」にそれが起こると思い込んでしまうわけです。

ズレていい

ということで悟り後は「会話がズレます」ですがズレていいんです。そのようなことを質問されることは先ずありません、普通に生活をしていれば、、何も変わらずに見かけ上の「私」は動いていきます。ただ軽々しく「私」の動きが続きます。世間的には「私」は何もしていないように見えます。ここで起こる変化は周囲には全く気づかれません。

真空

この世界

この世界がこうやって存在するには「真空」の存在は必要です。真空の中にこの世界が在るのは間違いないでしょう。ではその真空は一体全体なにをしているんでしょうか???ただ在るのでしょう????実はこの真空が全現象を生み出し認識しています。真空は何もしていない存在ではなく、、生み出し認識するのです。つまり我々が認識しているという全部は実は真空がやっています。

真空に大きさ形はあるのか???

真空に大きさ、形、時間はあるのでしょうか????真空が時間に縛られる????考えられないですよね????そうです、真空には大きさ、形、重さ、色、時間が存在しないんです。その真空がこの世界の現象の全てを生み出し認識しています。この体もこの思考の感情も全部です。「私」が認識していると思っていました、、違うんです、、その思考が真空から現れ認識されていたんです。

真空はどこに偏在している?

真空はどこに存在しているのでしょうか???まさにいまここです、、、いまここに真空が偏在しています。そしてこの私の1日の行動の全ては真空によって起こり真空によって認識されます。後悔も期待も怒りも喜びも真空から起こり真空に認識され真空に消えていくのです。

絶望

個人とは

個人とは絶望的な存在です、個人がこの世界を生き、、個人があらゆる経験を積み、個人が何かを成し遂げていくという発想は絶望的です。なぜか????個人は常に苦しみ、恐れ、恐怖、不安から逃げ続けていかなければならない存在であり、、、逃亡者のような存在なのです。いやいや個人として生きる以外に何の選択肢があるのか???ですよね。あるんです、個人として生きない方法が。

真実

真実に戻ることです、、自我が成立する前の感覚に戻ることです。え????そんな感覚覚えてないですけど、、そうですよね。。。ではいきますね。。。私を今認識しているのは誰でしょうか????自分を今感じているのは誰でしょうか????私、自分は「私」「自分」を認識できないですよ。。。。なぜ????ここでパニックですよね。この現代社会では「私」を認識するのが「私」だという前提で成り立っていますから。でもできないというのが真実だとしたら????誰が私を認識しているのでしょうか。

空、ゼロ、不変の自己、、呼び方は何でも良いのですが、、つまり本当の私が、、「私」を認識しています。その本当の私とはこの現象界にはない存在です。それが「私」を認識し、花を認識し、光を認識し、音を認識しています。自我としての「私」とは認識される存在だったんです。だから過去も未来もないのです。私が進む未来なんてないんです。今ここで、、ただ現象が湧き続けるのみです。「私」が実は居ないのですから、、、過去も未来もどうやって成立するのでしょうか。

我思うゆえに我あり

絶望

デカルトの有名な言葉「我思うゆえに我あり」、、、この言葉は絶望の言葉です。思考を自分自身とした概念です。起き上がる思考を自分と定義したのです。これによって我々は思考共同体になったのです。ところがこの思考実は勝手に湧いてきては勝手に消えていくという、、存在です。何の自由意志もなくただ湧いてきて消えていきます。これを自分自身と定義してしまったがゆえに人間は地獄を味わうのです。暴れ馬に乗って私はこれを完全にコントロールしていると宣っているのですから。

先ずは暴れ馬を手放す

思考感情は暴れ馬です、、先ずはこの二つをコントロールできるなど思わないことです、そこに気づきます。暴れ狂うこの二つをコントロールなどせずに、、放置しましょう。ただ観察するのです、暴れ馬が今日も暴れているなーです。そこに乗っている「自分」など居ないと悟るのです。これだけでも十二分に楽になります。思考感情をコントロールなどできないことを悟りますと、、人生は一気に軽くなります。

コントロールできないならば

思考感情をまるでコントロールできないならばもうそこに乗っている「自分」なんてものは記号でしかない、、と悟ります。コントロールできない存在に「自分」などと称号を与えるからおかしくなるのです。自分とは便宜上割り当てられた「記号」です。そして「人格」などという概念もただの記号、キャラです。