勘違いがない
生まれたての赤ちゃんは、、、、物に触ったっ時に、、「私が触った」という勘違いがないんです。お腹が空いた時に「私が空いた」という勘違いの思考が湧きません。ただそれだけ。。我々人間は、、お腹が空けば「私が空いた」腹を立てれば「私が怒った」と、、、勘違いの思考が起こり、、、これをゲームソフトが感じます。ところがこのソフトが感じたことを「私が、、、」に起き変わるのです。
感じるを放棄する
自我が発達した現代人は、、先ずは、、、感じるのはソフト、不変の自己しかできないことを悟ることです。自我は何一つ感じることはできません。この体も何も感じていません、経験の全てはゲームソフト、空、神、真我、大いなる存在が直接感じているんです。この経験を放棄することが悟りのスタートです。
目の前の人
目の前の友人、奥さん、パートナーは、、、何一つ感じていません、、感じているように見えるだけです、、、実際にはこの現象が何かを感じることはできないのです。ソフトが全体験を感じているんです。目の前の猫が美味しそうに餌を食べていますが感じているのはゲームソフトです。構造上、、現れては消える現象が、、何かを感じるのは不可能なのです。
自我はこのソフトが作り出した
勘違いの発想を作り出したのはソフトです、自我を作ったのはゲームソフトなんです。だってこの発想を起こせる存在はソフトしかないからです。だから別に自我が悪いとかそういうレベルの話ではありません。このマリオ体験は自分体験はソフトが作り出した新しい体験なんです。だからこそこの自我の仕組みを理解するのは時間がかかります、、ソフトが自我体験を終わらせるという動きを起こさないと構造上不可能なんです。悟りが難しいと思われている原因は、、悟れる自分が実は居ないという恐ろしい欠陥を秘めています。我々は本質であるソフトから悟るための動きを待つしかないのです。