神は空の一部

神とは無限全知全能であることを自覚する存在

空は不変の存在なので、、、空が何かに気づく、、空が改心する、、空に悟りが起こる、、、はありません。空は最初から絶対的存在であり、、空には進化はないのです。一方神は全知全能であることを自覚する存在です、、、そして鏡に写った自身の姿を見て、、、全知全能無限である、、という自覚を持つ存在です。神は空の一部であり、、鏡も空の一部です。

空には動きがない

この現象界は「不変の自己」ではなく「変の自己」です。常に動きがあります、、止まっている存在はなく、、全部が動いています。そしてそれを自覚できるのは、、、自身が「不変の自己」だからです。動きを動きと気付くのは、、自身が非動だからです。神が全知全能無限あることを自覚できるのは、、非自覚の存在があるからです。非自覚の存在なしに自覚は起こらないのです。

動きもなく自覚もない

自由意志もなく自分も居ないという気づきが起きますと、、、今ここは神そのものの遊戯の場所であることがわかります。今ここは神、無限の現れそのままです。そしていまこことしてこの現象を認識するという段階に入ります。私なくして、、、そのままに現象を観察するという段階に入ります。ではこの現象、神の現れ、、はどこで起きているのか????という疑問が起こるのです。それが不動、非光、非気づき、非自覚、非スペース、非時間、非色、、、で起こっているという空の気づきに繋がります。

絶対(空)を認識する

意識はどこから生まれる????

空に迫る、、、私たちの本質は空、絶対です、、、ですが空、絶対は、、、どこかに在るわけがなく、、かといって存在しないわけでもない、、言葉では絶対に表現できない次元の存在です。言葉には絶対にできないのですが確実に存在します。なぜ言葉にできないか???????ここ超重要なポイントですよ。。。。言葉とはイメージです、、言葉はその場で認識されイメージ化されます。空とは、、、このイメージを作り出す大元ですから、、イメージでは絶対にないのです。イメージを作り出す存在は非イメージでないとダメなんです。言葉を作り出す存在は非言葉じゃないとダメなんです。だから空を言葉で理解するのは不可能なのです。絶対に存在はするが言葉にはできない存在なのです。

絶対にあるなら感じる

そうです、、絶対に「在る」のですから感じることができます。我々は常に空の中に存在していてそこ以外には存在できないのですから感じれるのです。この世界は空がなかったら全く存在できず、、今空の中でこれが起こり続けています。意識が存在するのは、、、空が映像化(現象化)され、、、その映像化(現象化)の中に意識も生まれたのです。意識も100パーセント空に属しています。ただし空は「不変の自己」ですから変化は起きません。空を認識する存在が空の中に居るだけです。

無限全知全能を自覚する存在

空は不変の存在です、、無限の存在です、、、、この空の中に無限を自覚する存在が存在します。無限であることを自覚する存在、、、これをバシャール は「オールザットワン」と呼びます。私とは無限の存在だという自覚が芽生えると、、その自覚は空の中で起こっていることに気付けるのです。なぜならばそれが真実だからです。無限の存在という自覚は空の中で起こるので、、すなわち空を感じるということになります。

人間を人間として使う

意識の居場所

我々はこれまで意識をこの体の中にあると想定して生きてきました。人間の体とはこの意織の保有場所です、、その前提でこれまでを過ごしてきたんです。ですが本当は意織は「今ここ」「ここ」にあって、、、その中に体が現れています、、、意識の中に体が現れるのですから、、現れるのは全部意識の変異です。道でばったり会う人々も全部この「意識」から現れていますから、、意識の変異です。そういう意味ではこの体もあの体もあの犬もあの猫も全く同じ原料「意識」でできています。

思考も意識

そして思考も意識の現れです、、、意識が変異した現れです。感情もそうです、、感情も意識の現れの一つです。全部が全部意識の現れであり、、ゆえにそれはその場で意識されるのです。ここまで分かってきますと、、これまであった「この体」が全く違う感覚を持って扱えるようになります。この体とは意識からたまたま現れ続ける奇跡なんです、、、この体は意識の変異ですが、、、なぜか毎日現れる意識の変異です。そういう意味ではこの体は大変有難い存在です。毎日現れてくれるのですから。

有難い体

この体は意識にとって半端なく有難い存在であることは間違いありませんが、、この体以外も、、道ゆく人々、お店、道路、パトカー、、全部が全部、、意識から意識の変異として現れ続ける有難い存在です。この現象が意識から現れなくなたら、、、もう終わりです。ですが今のところ毎日現れてくれています。これが本当の奇跡なんです。意識が形を変えて毎日この体同様に現れ続けて居るんです。この空気も意識が変異したもの、酸素も、窒素も、水も全て。

人間業界の新常識

悟りとは業界革命

人間業界では「私が居る」という常識を敷いています。「私が居る」を大前提にして社会は成立しているのです。ですが本当はこれは方便であって真実ではありません。「私が居る」という前提で、社会を作り上げることが便利だっただけの話です。本当は「私が居る」という思考が湧き上がりそれが認識されているだけです。誰に????誰でもなく、、ただ認識だけが起こるのです。

全ての思考は認識される

全ての思考はその場で認識されるので、、、「認識した自分」という存在に疑いを持つ者は居ません。ですが本当は認識だけが起こっているのです。思考が起こり認識が起こるのです、認識した自分がいるという新たな思考が起こり、、その認識が起こります。これがカラクリの全てです。「私が居る」というのはこのシステムを利用した錯覚なのです。ですが人間はこの錯覚を「真実」として社会を成立させているのです。ですがこの錯覚を真実と認識すると、、エラーが生まれ、、、それが苦しみとなります。

思考を認識する「存在」

思考を認識する「存在」これが居るのは間違いありません。思考が誰にも認識されなかったら思考は全く気づかれずに、、消え去ります。「ラーメンを食べよう」この思考は確実に誰かに認識されたのです、、では誰だ????それをこれまではこの体の中の「私」としてきました。。。ですが違うんです、、、その認識は「全体」「在る」「意織」が起こしたのです。この現象そのものを起こした大元でそれが起きたのです。

新しい常識

新しい常識が浸透し、古い常識が壊されますと、、、「苦しみ」が無くなります。古い常識では苦しいが基本です、、ですが新しい常識(真実)では「苦しい」がないのです。あるのは無邪気な喜怒哀楽です、真の安らぎの中の喜怒哀楽です、真の平和の中の喜怒哀楽です。

この現象は私のどの観念を映し出しているのか???

現象の全て

夜見る夢で、、、観念の影響を受けていない夢って起きえません。夜見る夢で、、、英語ペラペラの友人が現れ「私」も英語ペラペラで英語で夢が完結しました、、、って日本語しか話せない人の夢ではありえないんです。ですから夢は100%その方の記憶から作られています。そしてこの現実と呼ばれる世界もご多分に漏れず100%私の観念の影響を受けるのです。だから今日起きた現象には私の観念がガッツリと反映されています。そう考えれば、、、常に観念を見ているので、、、どんな観念がこの現象を作りだしたか?????という見方ができます。

観念確認製造機

今起こる現象は「観念確認製造機」です。職人が作り上げた刀のように、、、私が作り上げた刀が、、今目の前に起こっています。その起こった現象に対してどんな感情が起こっているでしょうか????怒りでしょう、悲しみでしょうか、、、現象と感情はセットで起こり、、、感情こそはそこに観念がしっかりとあることを明確に教えてくれます。

挨拶をすべき????

「挨拶はしっかりとしないといけない」このような観念を所有していますと、、、、挨拶が足りない人に対して「怒り」がこみ上げるでしょう。。。その時、、、私が持っている「挨拶をしっかりとしないといけない」が現れます。そしてそれを認識します、、、そしてそれを手放すのです。「挨拶をしっかりしないといけない」は趣味の価値観であって、、真実とは何も関係がありません。価値観は確実に「私」を苦しくします。「挨拶をしっかりとしないといけない」は便宜上「私」が取り入れた戦略であって、、、真実ではないんです。

業界あるある

自身が居る業界の常識を、、、他の業界で用いても全く通用しません。つまりその業界の常識は、、、便宜上そうした戦略のようなものです。ですからこれは便利だからそうしただけで、、、それが真実ではないのです。そこを見抜ければ、、その業界の常識に縛られることもなく「挨拶はしっかりとしないといけない」から解放されます。

「私」が居るというのも観念

私が居るというのも実は「人間業界」特有の常識です、、、、ですがこれは業界常識であって真実ではないんです。「私なんて居ないですよ」これを人間業界で宣えば大変なことになります。人間業界ではタブーです、、この常識があるからこそ人間業界は円滑に動くのであって、、ここを抉れば業界が混乱を起こすのです。ですがこの「私が居る」という人間業界の常識は、、、少しずつ崩れてきています。なぜならばこの常識は「苦しい」がデフォルトだからです。人間業界もそろそろ新しい常識に切り替え時かもしれません。

病気

勘違いの果てに

病気とは勘違いの果てに症状として現れます。野生動物の腰痛、肩こり、慢性疲労、、、聞いたことがないですよね?????ないんです、勘違いが起きていない動物に病気って。。。。そんなことは起きえないのです。人間だけが勘違いをして生きているので、、、それが緊張になり、、、症状化します。ではその勘違いとは何か?????この自分が100%存在しているという実感です。。この実感が強ければ強いほどに、、真実とは遠く離れるのでその距離に応じて、、、緊張が症状化するのです。

自分がボコっと落ちていく

ですから病気とは、、この勘違いを、、、強制終了してくれるきっかけでもあります。こんなにストレスなら、、、もういいや、、、です。理想の人生とは違っちゃうけど、、、もう全然構わない。。。これです、、これが小さな悟りです。思い描いていた人生像にしがみつき、、絶対にこうじゃなきゃ、、、が落ちていくんです、、、病気になるほどのストレスが、、、この固執、執着をハンマーでぶっ叩き、、、壊してくれるんです。そして何もかもが壊されて何にもなくなってもいいや、、、になったっ時に、、最後、、、自分ってそもそも居るのか????という最後の疑問が起こります。

理想の人生から離れれば離れるほどに

理想の人生を手放していくほどに、、、あれ????なんか楽なんですけど、、、が起こります。執着が消えていくほどに「楽」が襲ってきます。あれだけ欲しがっていた何かを諦めたことで今まで感じたことがない安堵を覚えるのです。一つの夢が終わったのです。理想の人生とは完全に妄想、幻想、ファンタジーですから、、これが大きければ大きいほどに緊張感を与えます。この緊張が苦しかったのです。

全部諦めて

理想の人生の全てを諦めていき、、最後に残るのが、、、「私」という夢です。。。この「私」という夢が最後に残ります。。私って本当は誰なんだ?????という究極の疑問が最後に残り、、、この「私」すらも諦めた時悟りが起こります。「私」という長年付き合ってきたこの存在が実は現れては消えていく現象に過ぎないという事実、、この究極の諦めが本当の安らぎ、平和、愛を誘います。

明るいとか暗いとかじゃない

性格

根明、根暗、、、性格って存在しますよね。。。。明るい人って悟っているんでしょうか?????性格と悟りは全く関係ありません。マリオ、ルイージ、クッパ、ノコノコ、ピーチ姫、、、性格がありますが、、これと悟りとは全く関係ないのです。何が関係あるのか????勘違いの濃度です。俺には責任があって家庭を所有しその維持のためには働き続け、年金以外にも貯金をして老後に備え、子供に迷惑かけないように退職後の仕事も探し、、、、、という壮大な映画を思いあげる強さこそが、、、悟りを閉ざす力です。「真実」と「信念」の距離が悟りを閉ざす力になります。

悟りの開閉差

悟りが閉じ切ると死にたくなります、、、この私のためにやるべきことが増えれば増えるほど、、、死にたくなるんです。なぜ??????それは真実からかけ離れていくからです。本当はこの自分なんて存在しないのに、、その自分が居て、、その自分のためにあれやこれが増えていくって幻想にも程があるんです、ファンタジーにもほどがあるんです、やりすぎなです、空想力が全開過ぎるんです。。。。だからしんどいんです。緊張感があり過ぎるんですよ。。。。。

空想ではなく真実に生きる

この会社は将来こうなっちゃうから今のうちに準備をして五年後ぐらいには俺もこんな感じになるから、、その時のタイミングでこうしてああして、、、、ってファンタジー力が全開すぎるんです。真実はそうじゃなくて、、ただここで私という思考が起こり、、私が何何する、、という思考が起こる、、ただそれだけ。本当に何もないのです、、そしてこの何もない状態に身を任せるのが最高に気持ちが良いのです。サーフィンのように完全に波に身を任せ切ると半端ない爽快感が、、、、自分など居ないかのようにライドした瞬間が最高なんです。それは人生も全く同じ、、まるで自分なんて居ないかのようにここに身を委ねるのです、、その時にピンときます、、、あ、、これだったんだと。俺はこれを探していたんだ、、と。

ルールでは解決しない

人間関係の取り決め

夫婦間のルール、恋人間のルール、親子間のルール、、、人と人が付き合う時に、、ルールというものを設定するケースって多々ありますよね。。。仕事が遅くなる時は事前に連絡する、黙って外泊しない、夜12時までには帰る、、、、、なぜこのようなルールが必要になるかと言えば、、、それぞれの行動がそれぞれにとって不快だからです。その不快な行動を取らせないためにルールを決めて少なくしようという話です。

自由の中に不自由を作る

ルールの前提には、、、「「「人は自分の行動を自分でコントロールできる」」」という大前提があります。この大前提があるがために、、、ルールというものが成り立つのですが、、、、その大前提が間違っているのです。人は自分の行動を自分でコントロールできないのです。。。。だからルールを決めてもルールは侵されるし、、そのルールこそが、、次のコントロール不能の行動を生み出します。ですからルールは一見人間関係を円滑にしているように見せますが、、「苦しみ」を同時に生むのです。それは根本に誤りがあるからです。

ルールでは解決しないことを分かってルールを決める

ですが人間関係の中にはこれからもルールは起こり続けるでしょう、、そしてルールが無ければ、、もちろん滅茶苦茶になります。ですが重要なこと、、、ルールでは人は幸せにはならない、、ここを抑えておく必要があります。社長は社内で何か問題が起こると再発防止のためにルールを設定します、このルールが一見活動を円滑にしますが、、、真理からは反しているのです。だから苦しくなっていきます。どこまでいっても行動をコントロールできる「人格」は存在しないのです。

刺激中毒

繁華街

繁華街とは刺激が埋めき刺激がその人を満たしてくれます。人間の欲望の全てがそこにはあって、、、お金さえあればその欲望を簡単に満たしてくれる場所です。なぜ人はそこまでお金を使ってでも欲望を満たしたいのでしょうか?????なぜお金さえあったら、、、繁華街に出向き、、満たし続けようとするのでしょうか????簡単に言ってしまえば「不幸」だからです。不幸だから満たしたいのです。

幼稚園児に

幼稚園児に「なぜ繁華街に行くの????」と質問されて、、、それはお酒とはこういうもので、、、異性とはこういうもので、、高級バッグとはこんな感じで、、、、と伝えたところで、、、、意味がわからないでしょう。。。これが言語能力の話ではなく、、、、満たされていない、、、という感覚が分からないからです。満ちていない状態、不幸な状態が理解できないのです。だから当然何が面白いのか????も分からないのです。

充ちる

充ちるというのはこの私という器に何かを満たしていくことではありません。幼稚園児はこの「私」という感覚が希薄なため、、不幸になれないのです。「私」という感覚を希薄にしていくことで、、、この場所との分離隔離が薄まり、、、、それが本当の充ちるということなのです。本当は最初から満ち足りていて、、そこに大きな壁を作り入ってこないようにすることで人は不幸になります。ありもしない大きな壁をぶっ壊すことで人は本当の意味で満たされます。

感じる力を養う

美味い

スポーツの後のビールって美味しいですよね?????あれってなぜでしょうか????簡単です、、感じる力が増えているからです、、、スポーツで五感を使ったからこそ感じる力が増えているのです。断食、ファスティング明けの食事は涙が出るほど美味しいのですがこれも感じる力が増えているからです。今を感じる力が増えますと、、いまここで真の安らぎを獲れるようになっていきます。本当にここに全てがあることを「感じる」ようになりますと、、、何かを貪る、、、という感覚が消えていきます。

概念ではない

真実は概念ではなく、、概念が抜け落ちた状態ですから、、、これを概念で掴むのは不可能です。感じる以外にありません。ですから感じる力を増やしていきます。「呼吸法」「断食法」もその一つで、、、その方に合った感じる力の増やし方でいいのです。覚者の本を読んで、、勘違いが抜け落ちることで、、感じる力が急増する、、これもあると思います。

断食の凄さ

呼吸法に関しては能動的な努力が必要になりますが、、断食は、、何も努力が要りません。なぜならば食べるという行為をしないことだからです。「食べない」だけで感覚が鋭敏になっていきます。ビールが美味しくなるということは、、全部を美味しく感じるようになるのです。食べ物が美味しくなるということは、、吸う空気すらも美味しく感じるということです。この感覚を断食は作ります。