観察する王が創造の王に

本当は創造の王でもある

本当は全現象を私が起こしているんですよ、、、こんなことを大衆の前で言えば病院送りにあうでしょう。ですがこれは本当なんです。ところがそのような「「「「実感」」」」がないですよね?????ないんです、100%、、、本当は全現象を起こす創造の王にも関わらずそんな大そうなことしてまへんで、、、です。なぜないのか????なぜ自覚が消えてしまったのか??????それは創造の王が、、、マリオ(体)の思考に「「「「ベッタリ」」」」だからです。マリオから醸し出される思考に「「「「ガッツリ」」」」完全集中しているからです。

先ずは観察する王の自覚

先ずは先ずはマリオ(体)の思考に「「「「「ベッタリ」」」」を止めること、、、ここです。マリオから思考が湧いても、、、、何か湧いたな、、、何か出たな、、、、とやり過ごしましょう、、、、この思考は所詮はマリオが居るという前提のマリオ活動です、、、、AKBのコメントをファンじゃない人は見ないですよね、、、全く同じ、、、聞かなくていいんです。なぜならばマリオ活動自体が嘘だからです。マリオはAKB同様に画面の中の人なんです。マリオはどこまでいっても画像なんです、幻想です。マリオが居るという前提の話は聞かなくていいんです。それこそが観察の王の自覚になります。

観察の王からの

私はマリオ(体)ではない、、、、この自覚が生まれてきますと、、、観察の王の自覚が生まれてきます。マリオから湧いてくる思考(マリオが居るという前提の)に耳を傾けなくなっていきます。観察の王が観察の王に返り咲くのです。そして全てを俯瞰して見ることができるようになりますと、、、観察の王は、、実は創造の王でもあることに気づき始めます。なぜならば観察の王が観察する対象は一体何なんだ????という疑問が起こり、、その疑問の答えは、、、観察の王そのものであろう、、となるからです。観察の王とは全く関係のない現象が起きるわけがなく、、とするならばこれも私が創造したのだという自覚が生まれます。

マリオは観察する王のアート

分離はない

この世界には本当は分離はありません、ということは全現象を観察する王、我々の本質は、、マリオ(体)とは分離していないということになります。そしてその通りです。ですがこの現象の世界はどこまでいっても分離しているように見えてしまう世界です。。このマリオも背景の中で自由に個別に動けるように見えるのです。なぜそのように見えるのか???それは観察する王がそう見えることができるから、それだけです。

そう見えることに感動する

本当は全く分離していないにも関わらずそう見えること、これこそがこの世界の脅威なのです、感動なのです。真実が分かってきますと感動のポイントが変わるんです。完全に分離して見えるそのことこそがこの世界が神の遊び場、王の遊び場である証拠でしょう。絶対に分離していないにも関わらずそう確実に見えるということ、、これがアートと呼ばずして何なんでしょうか。。。

だから分離を楽しむ

だからこの分離を逆手にとって楽しむのです、、分離というアートを観察する王として徹底的に楽しむのです。マリオ体験は強烈な分離体験でありそれ自体は何も悪くもありません。ただしこのマリオを完全な分離体であると信じると「苦しみ」が湧いてきます。マリオは分離体験を起こしてくれるアートであるという認識が重要なのです。

マリオの思考に釘付けはやり過ぎ

マリオから湧いてくる思考の数々、、この世界が分離の世界であるという前提のニュースの数々をあまりに信じ過ぎてしまうと苦しくなります。それは嘘です。ですからこの嘘を嘘であると分かってこの世界で遊ぶのか、、、分離を現実と信じ切って遊ぶのかは大きな違いがでます。どこまでいってもこの世界は分離が起き得ない世界なのです、構造的に。

観察する王とマリオの個性

我々の本質は王

マリオには個性があってこれが変わることはありません、マリオのジャンプ力、走力、反射神経、、マリオの初期設定は変わらない。。。そしてそれはこの現実と呼ばれる世界でも同じです。名前をもらったこの体には個性があってそこは変わらないのです。観察する王はマリオと完全分離できている場合、、マリオの全行動、全思考、全感情を楽しめるようになります。それは上手くいくとかいなかとかじゃなく、評価されるとかされないとかじゃなく、カッコ良いとか悪いとかじゃないんです。ただマリオの活動が楽しいのです。

観察する王

この体、このマリオと観察する王は全く違う次元の存在です。観察する王は一切の変化が起きません、つまりいつも在るのです。ところがマリオは年齢を重ねて年老いていく毎日が実は違う存在です、、そのマリオを完全な王として観察するならば我々は大いにこのマリオ活動を楽しめるのです。王は王ですから、、ただそこに居るだけで楽しい、清々しい、安らぎなのです。

思考が湧いたら王に戻る

マリオから思考が湧いたら王に戻って観察します、思考が湧いたら王に戻って観察するのです。。多くの方は王が思考そのものになってしまい思考が湧くと王が消えるのです。王が王として君臨しない世界はただ苦しい世界です。思考が湧いたら王に戻って観察する、、思考が湧いたら王に戻って観察する、、、これを習慣化しますと威厳のある王が戻ってきます。思考に飲まれないのください、思考は王が観察する対象でしかないのです。

観察する王のデバイス体験

デバイス体験は疲れる

我々の本質は王です、全現象に今気づいている王です、太陽の光、雨の滴、風の動き、花の香り、、、これら全部に気づくのはこの体ではありません。王です、王が気づくんです。この体は現象でしかなく、、この体には気づく能力はゼロなんです、、、この体は王の気づきに同期するシステムがあるだけです。つまりこの体とはデバイスの一つです。王はなぜこの全現象に気づくことができるのか???それは王が非全現象だからです、、全現象の全く正反対のエネルギーだからです、、だから気づくのです。

幼稚園児までは

幼稚園児までは、、王が絶対的に居て、、、この体はデバイスでしかなかったのです。だから人生に苦しみはゼロでした。。。ところが小学校ぐらいに入ると、、、王がデバイスから起こる思考に気づき始めたのです、、デバイスから起こる思考に気づき、思考に気づくを繰り返すようになりました。。この思考とは、、、イメージです、、分離のイメージ、この世界とは独立した体というイメージ、、この世界と分離した私というイメージを作るのです、、王がこの思考に気づくことでその度にイメージ画像が浮かび上がり、その中でだけ苦しみ、孤独、分離感、緊張感が生まれるのです。

騙される

この苦しみを解消するため、、またデバイス(体)からあらゆる思考が湧き上がります。あれをしたらどうだ???これをすたらどうだ????人気者になったら解消するのでは????成功したら解消するかもよ、、、、その度に王はその思考をイメージ化させて、、、また「苦しい」が起こるのです。これがデバイスにより人生ストーリー、渡る世間は鬼ばかりです。

デバイスの思考から王を外す

王はデバイスから湧き上がる思考に集中し過ぎるがゆえに思考の湧き上がりに着目し過ぎています。これではいつまで経っても喜怒哀楽ストーリーから抜けれない。。。。ということでこの王の思考着目構造を壊したい、、これが悟り、解放、覚醒です。王が思考に着目しなければそもそも思考は湧かないのです、、、ですから意図的に思考以外に王に着目させるというトレーニングを行います。それが呼吸法です。

観察する王

音に光に香りに

私とはこの全現象に気づく王です、、、鳥の声、鳥、鳥の動き、鳥の色、、、これは人間の体が捉えているんではないんです。人間の体はこの王の気づきに同期しているだけです。王が気づき、それに体が同期します。全てに気づいているのは王です。王以外にこの現象に気付ける存在は居ないんです。友人が話しかけてきました、その友人の表情、顔色、声、、全てに気づくのは王です、、気づきの存在です、、、これにこの体が同期します。

王は最初から最後まで王

王が王じゃなくなる時はないんです、、、この体はしょっちゅう画面上から消えますが、、、王がこの画面上から消えてなくなることはないんです、この世界は王の所有物です。王の所有物でなかった時など存在せず、、王に気づかれない現象もまた存在しないのです。その気づきがこの体に同期します。だからこの体は王の同期媒体でしかなく、、それ以上でもそれ以下でもないんです。王のデバイスの一つです。

王の威厳が損なわれる????

王の威厳が損なわれる、王が自信を無くす????そんなことはあり得ないのです、、なぜならば王はこの世界全ての現象を生み出し気づきそして現象を消し去っていく存在です。その能力が損なわれることあありえずそしてこれからもありません。ただしこの体というデバイスは調子が良い悪いはあるでしょう、、時に失敗し、時に成功し、、時に称賛され、時に避難もされるでしょう。。ですがこの体は体でしかなく、、王のデバイスに変わりはなのです。

デバイス(体)のトリック

このデバイス(体)には脳があり、、、ここの王が意識を向けますと、、、思考が湧き出してきます、、この思考に王が意識を向けますと、、、このデバイスの人生映画が展開されます、、イメージ化、映像化されるのです。。この映画が流れ続ける間、、、、楽しい、苦しい、喜怒哀楽のストーリーが始まります。ですからもしも「苦しみ」を終わらせたいのならば、、、王はこのデバイスの脳に意識を向けない、、をしないといけないんです。それが呼吸法、断食法です。

「苦しみ」は功績とは何も関係がない

誰が功績を所有するか

功績というのは恐ろしいもので、、この世の中では誰かがこれを所有することになります。例えばボクシング世界チャンピョンの功績、、これを誰かが所有していますよね。そしてそれを疑問に思う人は居ませんよね。例えば井上チャンピョンは四団体の世界統一王座というタイトルを所有しますが、、その際に「井上」という人格、自我がこれを所有しました、、という周知の事実が誕生するのです。ところがこれの恐ろしいのは、、本当はその自我は存在しないために、、、強烈に誤解が強くなるのです。

この誤解

この誤解こそが「苦しみ」を大きくします。「私が居る」という大誤解こそがこの世界に苦しみを生み出すのです。だから功績はその誤解を強く強くするのです。世界チャンピョン、日本一、王座、、、、全部が全部この偽物の自己を最強レベルに導くのです。私って居るに決まってるじゃん!!!!が起こるんです。ですが本当はいないんです、思考として、感覚として一時的に現れる現象に過ぎないんです。

功績に殺される

それまでは誰にも注目されていなかったのに、、突然功績を手に入れ有名人に。そうなりますと、、、それを所有する自我がメキメキと現れ出し、、自我って絶対あるよね?????となります。これだけの功績を手に入れたんだから絶対に絶対にあるっしょ!!!となるんです、、、その自我、、、この自我の存在が出しゃばれば出しゃばるほどに、、、、生きるのが苦しくなるんです。そこを見抜きます、そのカラクリを見抜くんです、、すると苦しみが減ります、、必要以上に自我が出しゃばらなくなります。

悟りを目指さなくてはいけない理由

勘違いのままでは幸福になれない

平々凡々で食べていければ何も問題ないんですよ、多くは望みません人並みの生活ができていればそれでいいんです。多くの方は今の生活に絶望するわけでもなくかつ至福を目指すのでもなく、、なんとなく生きてければいいとそこで安心します。ですがこれは決して健全な状態ではないのです。本当の安らぎ、本当の平和、本当の愛を知らないからこそでる言葉なのです。

知らないことは幸せ????

本当に美味しい料理をしらないまま生きることは幸福なことでしょうか???不幸なことでしょうか?????本音を言ってしまえば不幸なことです、、、知らないって実は幸せなことでは???違います、、、知らないで幸福ならば一歩も部屋を出なければそうなりますよね?????でもそうはならない。。つまり人間とは知りながら体感しながら至福を目指すものなのです。

ではどうやって目指すのか?????

簡単です、、その人のやり方で目指せばいいのです。読書が得意ならば読書、動画が好きならば動画から、ヨガなどの動きから入りたければヨガ、、、呼吸法や瞑想など静かな実践が好きならばそう、、、となります。実は悟りとは無限大な方法でそこに至れるようになっているのです。ですから無限大の道から何かを選べばいい。ただそれだけです。そして最終的にはその道を進む個人も実は居なくて、、その道自体が悟りであることに気づきます。

究極の観察の弱点

松本人志

松本人志の笑いを一言で説明すれば「観察」です。究極の観察力で、、タレントさん長所、短所を言い当てます。聞いている客はまさに!!!と唸るのです。有吉のあだ名芸しかり究極の観察力なくして成り立たないのです。松本人志はそういう意味で最も観察力に秀でた芸人だったと言えます。これを悟りで分析しますと、、彼は観察中、、完全に気づきの意織でいるのです。松本人志ではなく、、気づきの意織に入るわけです。つまり悟っているのです。相手を観察する際に完全に無我に入り観察、気づきの存在に成り切るわけです。

それを有我が奪う

悟った状態、無我の状態の気づきで得た芸能力を松本人志という有我、自我が全取りしようとする動きが起こります、、、俺の才能だ!!!!です、、、だからもっと評価をされるべき、もっと称賛されるべき、もっと持てはやされるべき、、、となるんです。本当は無我に入り気づき意識そのものに入ることで、、得た気づきを、、、自我が、、、、、俺様の手柄だと乗っ取るわけです。この動きに無意識(無我の反対)になると、、、やられます、、人生を壊されるんです。

無我のままでは困る

究極の観察力は究極の無我力が為せる技ですが、、、、そのまま無我でいられたらたまったもんじゃないのです、、、自我が消えてしまいます、、自我が消滅してしまう、、自我が崩壊してしまうわけです。そこでその無我の功績を自我が所有するという動きが強烈になるのです。無我力ゆえの自我力です。強烈に強烈に自我に帰ろうという動きが起こるのです。ここを多くの人は見抜けず自我に翻弄されるのです。

自我の動きに無意識ではやられる

松本人志ほどの観察力をもっていてしても自我の動きには完全にやられてしまいます。自我の逆襲です、、究極の無我の状態での気づきを、、、、自我が強力な力で奪い取り、、自我を維持しようとします。この功績は私の力だ、この功績はもっと評価されるべきだ、、もっともっと、、、、、この声に気づきの意織(本質)が耳を傾けたら大変、、、、恐ろしいほどの渇望が生まれるわけです。松本人志ほどの功績を自我が所有したらどうなるか、、、、恐ろしいことです。

マリオ(私)と王(本当の私)が分離すると

悟った状態

マリオと王が分離した状態を悟った状態と言います、解放、覚醒、ノンデュアリティ です。もうそこにはマリオを自分だと勘違いする王がいないんです。ではその時マリオはどうような活動を起こすのでしょうか?????マリオそのものの行動を起こします、、、マリオのキャラを謳歌するのです。そこには王を目指さなくてはいけない、、、という負荷も重荷も重責もなく、、ただマリオが起こるのです。これを真の至福、平和、愛と言います。

何かになろうとしないマリオ

私はマリオだ!!!という勘違いが抜けた王は、、、もうマリオに成り切って何かを目指すという動きが起きません。だって最初から今も王で、、、この現象の全てに気づいていますから。クッパの動きもノコノコの動きもクリボーの動きも全部把握しているのは王で在る私です。マリオにはその能力は一切備わっていないのです。だからこれからはマリオを大きく見せなくていいんです、マリオを目立たせる必要はないんです、バカにされたと怒らなくていいんです。いつでも私は王としてこの場所に君臨しているのですから。

マリオを好きにさせると

本当の私としてマリオ(私)を好きにさせると、、、、緊張感がありませんからマリオが周囲から好かれるという皮肉が生じます。今までは一生懸命王がマリオに成り切って好かれよう評価されようと頑張っていたにも関わらず、、、マリオ(私)を好き勝手させれば、、、逆に人気者になっちゃうんです。だって全くもって狙いがないから、打算がないから、駆け引きがないからです。

マリオの思考から離れる

マリオからはあらゆる思考が生じます、、あれが欲しい、これが欲しい、あれをしたくない、、あれもしたくない、、、これらの思考に王が執着することで苦しみが生まれます。。。。全部放置です、、、勝手に生まれた思考は勝手に消えますから放置です。マリオの勝手な行動も勝手に起こり勝手に消えます、、だから放置でいいんです。王がマリオの究極の観察者に戻れた時、、、ゴールです。

最初からこの世界の王なのに

なぜかマリオで王になろうとする

我々の本質は完全にこの世界の王です。だってこの世界で起こる全てに気付けるのはこの本質、王だけなんです。今私が、、風に気づき、光に気づき、気温に気づき、、、と思っていると思いますが、、実はこれ本質が気付いています。ゲーム上のマリオ(私)ではないです。マリオ(私)には気づく能力は備わっていません。つまり本質の存在、王として、、、、気付いているんです、全てに。

ところが

ところが、、、自身が王であることをすっかり忘れてしまい、、自身をマリオと勘違いすることから、、なぜかマリオとして王(本質)を目指すという意味不明な行動にでます。本当は最初から王なのに、、マリオとして王を目指すという意味不明ゲームが始まるんです。マリオ(私)はこんなもんじゃない、、という感情が溢れ、もっと評価されもっと賛美されもっと称賛されるべきだ、、、が起こるんです。当たり前ですよねだって私は王であってマリオじゃないんだから。

ここからがきつい

しかしながらマリオはマリオであって、、、王じゃないわけです。マリオは単純にキャラでしかないですから一長一短、得手不得手、上手下手、があるわけですよ!!!!!王になれるわけがないんです。能力が最初から決まっているのですから。。。。だからこの勘違いが地獄の勘違いなんです。そして今もこうやって全現象に気づく王なわけですからマリオで王を目指す必要は全くないんです。

マリオと王を分離する

ということで悟りとは、、、マリオと王は別人で、、我々の本質王はマリオで天下を取る必要がないという気づきを体現することです。俺マリオじゃない、、、この気づきを体現することなんです、体感することなんです。そのためにはどうすればいいのか?????呼吸法です、断食法です。マリオに同化してしまい、、、すっかり自身をマリオだと勘違いしている王を叩き起こすのです。マリオから湧き上がる思考をシャットアウトしてしまい、、王がマリオに同化できない状態を作るのです。呼吸法と断食法はこれを体現するためのツールです。