仏教の階層

仏界

仏教の階層には仏界という層があります。餓鬼畜生界があり、、菩薩界がある。。。餓鬼畜生界は「奪い合い」「騙し合い」「利用しあい」の階層です。一般的な人間業界の階層です。その上に与え合いの階層がある、、、あるものを与え合うという階層です。そしてそしてその上に「奪うあうも与えあうもそもそもその主体が居ない」という気づきの階層があります、それが「仏界」です。

餓鬼畜生界

餓鬼畜生界とは「そもそも私は富を持っていない」という前提に成り立っています。「そもそも私は富を持っていない」から人から「富」を奪わなくてはならない、、、という信念です。そのために騙して奪って利用しなくてはならない、、という信念です。

菩薩界

「そもそも私は富を持っている」という信念を前提にした階層が「菩薩界」です。そもそも私は富を持っていて、、他人から奪う必要など一切なく、、もっと豊かに暮らすにはその富を他人に与え、、その代わりに富を受け取り、、益々豊かになっていく、、、という考え方の階層です。

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確かにこの体は富を作り出すことができる、、、だがその富を所有する「私」は実は居ないのではないか?????富を他人に与える私に他人は豊かさで返してくれるのは「実は反応」で富を他人から奪うと他人は私から富を奪うように「これも反応」他人には実は「主体」が存在せず、、、実は実は「この体」にも主体が存在しないのではないか?????ここに気づくのが仏界です。

主体が居ない世界

飛び出る

主体は本当は居ないのです。ですが「主体が居ると信じる階層」はあります。それが人間業界です。そしてその人間業界の中にも階層があります。「全部を他人の責任にする階層」です。『人には自由意志がありその自由意志で「私」は被害に常にあっている』という階層があります。私は被害者だから人も私の被害にあってしかるべき。よって私は他人から奪うし利用する、、、という階層です。

その上に

「全部を自分の責任にする階層」があります。「何があってもどんな状況にあっても全部全部私の責任です」という階層があります。「私の自由意志で全部の環境はコントロールできるなぜならば周囲は反応でしかないからだ」という認識の階層です。半分悟っています、「周囲には自由意志はない」という前提の行動を取れているのですから。ですが自分には自由意志と責任があるという信念を所有しています。

さらにその上に

全部を自己責任で行っている人がある日突然「他己責任」主義に変わることは稀です。なぜならば「自己責任」の方が楽だからです。「周囲には自由意志はなく反射でしかない」という気づきは楽なんです、真実だから。そしてもっと楽な階層「そもそも主体が居ない」です「そもそも自由意志を使う主体すら居ない」という気づきの層です。「他人は勿論この体にも主体が実は居ない」という気づきの層です。

楽々楽

自己責任主義が他己責任主義よりも「楽」なのは真実だからです。だとすれば本当の真実「誰にも主体が居ない」に立ち戻ればもっと楽。「無己責任」主義です「他己責任から自己責任、、自己責任から無己責任」です。世間ではこれは無責任男です。ですがそんな「しょぼい」もんじゃないです。「無己責任」とは他人を一切責めず自分も責めない、、、完全なあるがままです。責めるべき主体が実は居なかったという気づきです。

比較

全く意味を見いだせない

主体が居ない、主語が居ない、、、このことを本当の意味で実感できるようになりますと「比較」という行為をしようとする動きが止まります。「この人はあの人よりも優れている、なぜならば、、、」が起こらない、、、なぜって??????自然現象に優劣を付けようと思いますか??????公園に行って「あの鳥はあの犬よりも優れている?????あの鳥はあの犬よりも愛嬌がある??????」という比較をが起こらなくなります。

使わせて頂く

どの施設もどの店もどの人間も全部自然現象だと気づいてください。すると不思議な感じがしてきます。天然由来の雪解け水を飲ませてもらうような、、何か神々しさを全てに感じるようになるのです。そして本当にそうなのです。全部が全部自然現象ですから、、、神の行為、神の状態、神の現れです、全ての全てが。その時偉大さに触れる感謝が湧きます。

汚い汚い駅の公衆便所も

汚い汚い駅の公衆便所すらも、、自然現象です、、「個別の意志」など一切関与しない形でそこに現れたのです。その事実に触れながらそのトイレを使う時「湧いてくる感情」が変わります。「汚ねーなー、どうしようもない!!!」が湧いてこない。。。だってそれも自然現象だから。

どうしたらいいですか????

禁断の言葉

「how to」「how to」「how to」「how to」「how to」「how to」「how to」「how to」「how to」「how to」「how to」「how to」「how to」で、どうしたらいいのか??????我々は常に常に常に答えを与えらてて生きてきたので。。。「答えをただ行う」が習慣に習慣になっています。アルバイトに行けば「何をすればいいのか?」「あなたはこれとこれを17時までやってください」「はい分かりました」だから悟りのメッセージを伝えても「で????どうすればいいんですか」がでちゃう、、、答えを教えてです。

今答えを言いましたよ笑

全部が全部自動運転、自動反射になっているんです!!!!!「で????これからどうしたらいいですか???」です。いやいや「今答え言っちゃいましたけど・・・・・」です。自動運転、自動反射を認識できたら「で????どうしたらいいですか????」は絶対に絶対に出ない質問なんです。つまり何かを認識するという動きが起こっていないのです。

どうにかしようとする「主語が居る」

どうしたらいいですか??????の主語は誰ですか????どうにかするのは誰のためですか?????間違いなくそこには「私」という神様が鎮座していますよね?????非二元のメッセージが伝えるのはどうにかしようとする「私」が居ないということなんです。だから自動運転、自動反射なんです。「主語が居ないから」湧いてくる思考、行動、感情は完全に自動運転、自然現象です。

人間様

お互いに

我々はお互いにこの体の奥深くには「私という神様」が居てそれが思考をコントロールし行動をコントロールし感情をコントロールしていると信じて生きています。ですが本当はこの体の奥の私という神様は何も何もしていません。ですが思考は「その前提」で起こり続け、周囲からもそれ前提の「言葉」が現れでています。だから誰も誰もが騙されるのです。これだけテクノロジーが発達したにも関わらずまだこの人間様信仰が崩れていないのです。

周囲

我々は物心がつく頃には「私神様が居る前提の会話」を覚えていきます。全言葉が私神様が居る前提の会話ですからここに抗うことはできません。ですが幼少期感じていたこと「大人は何か鈍い」という感覚はここから来ていたのです。「子供の方がハッピーだ」という感覚はここから来ていたんです。「私神様」ありきの言葉の数々が「重さ」を生み出し根本的な閉塞感を生み出していたのです。

勉強するしない

勉強するしないことと、、、この世界の価値は何も関係がないことは最初から分かっていました。私神様が勉強しようがしまいが、、この世界の価値には一ミリたりとも影響を与えないのです。私とはその揺るがない価値そのものでありこの小さい体の中の「神」ではない。その時「勉強しないといけない」という強迫観念は起こりようがありません。

いつの間にか

いつも間にか「私」はこの体の中の「私神様」なのだ、、そしてこの私神様はこの体を守って生き抜かないといけない、、という強迫観念が染み込み、、、先ずはこの体という優先事項が起こり、、ほとんどの時間をこの体のために使うようになるのです。世界は重く厳しいのだ、責任を持ってこれを守っていかないといずれ大変な目に遭う、、、です。

私神様

私という神様がこの体には居る前提の思考、感情、行動が今も今も起こっていますが、、真実では「居ません」私という神様はこの体の中には存在しないのです。「私という神様が居る前提の言葉」が日本中、世界中で聞こえるから「居る」と信じる動きが今もまさに起こっています。そしてその思考の動きが、、「苦しみ」「孤独感」「分離感」を起こし続けます。

神棚

〇〇さんって凄いよね

神棚の私は何も何もしていないのです。ですが周囲は「神棚の神」を評価します。〇〇さんってすごいよね!〇〇さんって信頼できるよね!!!!!違います神棚の神は何も何もしていません。ただその行動が起こったのです、神棚の神とは何の関係もなく。ですが人間業界では「神棚の神」が全思考全行動を牛耳っていると信じています。これは信仰です。

信仰と真実は違う

信仰とは呼んで字の如く「信じる」ことです。信仰とは信念なのです。信じるだけでそれは真実とは異なります。真実とは信じることではありません。信念とは疑念であり、、そこには疑いが入ります。その疑いは違和感として生じます。「私は自由意志を持った太郎です」は真実ではなく信仰です、信念です、疑念です。そこには違和感、分離感、孤独感、無力感が生じます。最後に〇〇感と付くのは「分離、違和、孤独、無力」は真実の中で生じ得ないからです。

あなたは宇宙人

世界一の霊能者

各国の総理大臣、大統領クラスを請け負う「霊能者」に縁があって会ったときに「あなたは前世が宇宙人でした」と言われてしまえば信じます。すると、、、何か上手くいかないことがあれば「前世が宇宙人だったから」何か上手くいっても「前世が宇宙人だったから」となります。つまり、、、「あなたは宇宙人だった」という思考は「その後のその人の人生、経験、思考、感情」の全てを変える力があります。

私はこの体に居て思考感情を動かす存在である

この思考はこの「人生」を一生動かす大きな思考になります。この思考が真実であれば「不幸」にはなりませんがこの思考が「真実ではない」場合、、その内容に準じた苦しみが起こる続けます。では「私はこの体に居て思考感情を生み出す存在である」というのは真実なのでしょうか????真実ではありません。

私は神棚の神

私とは実はこの体の中の「神棚の神」のような存在です。飾られてはいるが祀られてはいるが「存在」しないのです。だから当然思考を湧かすことは不可能であり、感情を湧かすこともできない。思考こそが『「神棚」の中には私神が居ると』という認識を起こすだけです。この思考はそのまま体に反映されて感情になります。それが苦しみです。

有難い

周囲はこの神棚の神を「〇〇さん」と呼んでくれるのです。有難い存在です。ですが周囲が呼びかける神は「自由意志もなく」「思考も起こせず」「感情も起こせない」何もしない存在の神です。その認識が事実とは異なります。何もしない「神」を神棚に置いて祀る必要ってあるんでしょうか????ありません。見かけ上の覚者とは神棚の神は実は何もしていなかったことを見抜き「神棚から神を下ろした」のです。

借金1億円

事実と思考

借金1億円を急に背負ったとしましょう。その時「苦しい」が湧くはずです。ですが熟睡中は「苦しく」はない。映画に夢中になった時「苦しく」ない。やけ酒飲んで泥酔中も苦しくない。借金1億円という事実は「苦しい」とは違います。「借金1億円を所有し地道に返さなくてはいけない私」という思考が湧いた時「苦しく」なるのです。悟りとは「借金1億円」を忘れてしまうことではありません。事実を徹底的に見抜き、そこから湧いてくる思考を「苦しみを作らない思考」に変えてしまうことです。

神棚の私

借金1億円は事実です。通帳に記載された金額は事実です。では「借金1億円を所有した私」は事実でしょうか????これは事実ではありません。私とは「神棚に祀られた神様」のようなものです。実体がないのです。実態のない神が借金1億円を所有することは構造上できないのです。では厳密にはこうなります「この私と呼ばれる体が借金1億円を所有した」です。私は多くの場合「体以上のもの」として認識されています。思考を生み出し感情を生み出す私です。ですが何度も伝えますが「私」とは神棚に祀られた神のようなもの、、、その「私」は思考も感情も起こすことは不可能です。

思考も感情も起こせないのならば

借金1億円を背負ったのはタマタマです、偶然です、、そこには「私」による自由意思がないのですから。この時点で「重い重い責任」がガバッと落ちます。「借りてしまった人に申し訳ない」の意味も、、、「責任を追うことなどできないなぜならば自由意思がないから」を心底思うことができます。ただ借金を法律上返していくことになります。そして成功者を見ても「羨ましい」が湧いてこない、、、なぜならば彼も彼女も「自由意志」ではなく「成功」しているからです。

全自動

全自動の「ボード版人生ゲーム」で、、、上手くいっている人を心底羨むって不可能です。全自動ですから、、、多くの場合興味すらなくなります。ですがここはボード版人生ゲームではなくリアル人生ゲームです。全てが全自動であり「私は神棚の神」であることが分かると「重さ」だけが無くなるのです。その時「深刻さ」の中で借金を返すというのが不可能になります。

その認識は起こらなくていい

起こる必要がない認識

すいません、全く何言っているか分からないんです。何もかも全部分かりません。「悟り系のメッセージ」は認識が起こりません。見かけ上の覚者が説く内容を「そのままに認識」できるのは全準備が整った者だけです。それ以外は認識されなくていい。逆に認識できたらおかしいのです。認識とは順番があって飛び越えることはできません。

ブログはなくていい

ブログで商売している人、、ブログでたまたま読者がついてそこから生計を立てれている人に「ブログは必要ないです」とコンサルが言えば「は?????????」です。いやいや見てください!!!!全部ブログからの集客ですよ!!!!!となります。ですがここで段階を踏みます、加えます。「ブログとはつまり多くの方にあなたの美容スキルを証明するものであり実はそれが大成功してきた、あなたの文章能力は的確で着実にこれによってファンを増やしてきたのです」「だからこれからはそのスキルを動画を通じて証明しましょう、ファンが求めているのはあなたの美容スキルだから動画の方がより伝わりやすいです」「だからもうブログは必要ありません」これなら認識が起こります。

私は居ない

このメッセージを認識するのは最後の最後です。途中を吹っ飛ばせば不可能です。だから「私は居ない」というメッセージが響かない時は捨ててください。そして分かる文章だけを認識していきます。最後には必ず理解できます。ですが途中を吹っ飛ばして認識できないと苦悩するのは無駄です。

盲信

「私神様」

「私はこの洋服を買ったら幸せになる」=「私神様にこの洋服をお供えすれば喜んでもらえるはずだ」です。私とは思考が作り出した産物ですから「神棚の神」のようなものです。周囲はこの神棚に向かって「鈴木」「田中」「佐藤」と呼んできます、、、呼んでくるからこの神棚の神様は「実在」するのではなく「名前という思考」として呼ぶのです。周囲が呼ぶこの「私」を祀り拝み続けるのが私物語です。

私は祀られた神

全員の体にはこの祀られ存在「私」が居て、、、、全員でこの神様を名前で呼びあっています。周囲を皆様と呼ぶのはまさにこのことであり「人」様です。。。最重な点はこの「私様」は思考が作りだした存在ですから幸福になどなれるわけがなく、、、不幸にも絶対になれない。。。「私様」が不幸になっていると感じるのは「私様」の責任ではなく「私様」が実在して幸福になれると信じているからです。どれほど高価なお供えをしても気遣っても気を使っても「私様」は決して幸福にはなれません。だから苦しいのです。

気づく

そこにいつ気づくか?????ここが重要になります。私は幸福にも不幸にもなれるわけがなくそのことに気づけないから「苦しみ」だけが続くのです。中途半端に「期待と高揚感」を持って私神様のために走り続けますと、、「辛い」が倍増していきます。「私神様」は一度も幸福にも不幸にもなったことがないのです。